第三場面

「クジラさあん、出ておいでえ。もう一回お顔見せてえ」

 とおるは授業が始まってからも、配られた三角関数の問題用紙には目もくれず、亡霊のような声でつぶやきながら窓外にクジラを探していた。もし今、あのクジラが校舎のすぐ近くまでやってきたならどんなに愉快だろうと妄想せずにはいられなかった。

“巨大な影が教室に差せば、皆はどんなに驚くだろう、クジラさんの目はきっとつぶらに違いない。もしかしたら背中に乗れるかも”

そんな妄想に自然、笑みがこぼれた。

 透のひとつ前の席の生徒が黒板の前に立ち、問題を解き始めた。

“クジラさんは普段、どこに住んでいるんだろう。どこかにお家が……いや、回遊しているのかも。だったらもう会えない? いやそんなことはないだろう。多分。そう思いたいけれど”

「クジラさあん、出ておいでえ」

「はい。正解です。これは等式からθシータの値を求める問題ですね。与えられたθがそもそもどんな範囲なのか、確認することが重要です。じゃあ、次の問題は、加美沢かみさわさん」

“そういえばあのクジラさんは何クジラだろう。シロナガスクジラなんてことはないだろう。じゃあ、ゴンドウさんかマッコウさん?”

「加美沢さん、前に出て問題をやってください」

“そもそもクジラの種類、そんなに知らないや。帰ったら調べよう”

「加美沢透さん!」

ようやく自分の名前が呼ばれていることに気づいた透が顔を上げると、教卓の岸田先生のメガネがキラリと光った。

「前に出て問題をやってください。授業、聞いてましたか。減点ですよ」

「げっ」

出た、と、透以外にもクラスの全員が心にそう叫んだ。“減点ですよ”これが岸田先生のキメ台詞であり、減点メガネという二つ名の由来であった。本人曰く、本当に減点はしていないそうであるが、しっかりと成績に反映されているともっぱらのうわさ。きっとこんな人間は政治家になったって増税しないと公約をかかげながら、とんでもない増税を実行し、国民から大顰蹙だいひんしゅくを買うに違いない、と透は常々思っていた。

 黒板の前に立ってみたものの、さっぱり分からなかった。ずらりと書き並べられた問題のsinやcos、をはじめとする記号の行列が透に、英語の問題に向き合っているような錯覚を与えた。透にはただ、その記号群生地の中、地蔵のように固まっていることしかできなかった。

「どうしました? 分かりませんか」

「はい。さっぱり」

ううん、と減点メガネがうなった。

「じゃあ、ヒントです。まずはそのカッコの中をtと置換してごらんなさい」

「チカン……。ああ、冬に炬燵こたつで食べる」

「それはミカンです」

「外交問題の時に政府が言うやつ」

「……! それはイカン! 置換、つまり置き換えるんです。ここをtと置き換えると、この不等式は随分ずいぶんと単純な形になりますね。その先はどうしますか? そう……そうそう。そうです」

「これでお終いですか?」

「最後にtを元の形に戻して。そうそう。それで、そもそもθの範囲はどのように与えられていましたか。……はい、そう、そのとおり。不等式ですから、等号で答えてはいけませんよ。そう、そのとおり。正解です。じゃあ、席に戻って。授業、よく聞いておいてくださいね」

「岸田先生、最近優しいな。教員の評価アンケートが近いからか?」

ひねくれた解釈をしながらも透はほんの少し、彼を減点メガネと呼んでいたことに心の中で謝った。


「透、行くぞ」

授業が終わると伊織は透に声をかけた。

「おーい。聞いてんの? なんかお前、今日はいつもに増してウーパールーパーだな」

「ウーパールーパ―……メキシコサラマンダー……アホロートル……あ、アホってこと?」

「違う違う。どんな連想ゲームだよ。なんかこう、ポオっとしてるなと思ってさ」

「ポオっとて、どういう?」

「それそれ。今の感じ。原因はクジラか?」

「クジラさん。そう。それもそうだけど。町が水に沈んだんだから、もっと、みんながこう、ワイワイしてもいいのになって思ってさ」

しょげかえる透の心情を察することができないという具合に伊織は言葉を詰まらせた。

「ああ。なるほど。うん? まあ、そうだな。それより、ほら、次。移動教室。美術だぞ」

「そっか。じゃあ、行きますか」

透は立ちあがり、気怠けだるそうにノタノタと歩き出した。その時に生まれたささやかな水流が伊織のほおをかすめた。


「お! 伊織、伊織!」

美術室まであと少しという、中庭を一望できる窓までやってきたとき、透が伊織の肩をぺしぺしと叩いた。

「なんだよ」

「あれをご覧ください伊織さん」

中庭にひと塊の魚群! 彼らは銀色の身体を集め、球になり壁になり、誰の号令もないまま自由な規則性に従って泳いでいた。水面からの日差しに巨大な群れが波打つように光っていた。

「おお。イワシか?」

伊織は少しだけ大げさに反応してみせた。透は返事もせず見入っていた。

 目に映る建築物としての校舎と人工芝のわざとらしい緑、そしてラムネ色の中を泳ぐ自然のままの姿の魚たち。昨日まで空想でしかなかった水中都市のイメージが今! 透の目の前に具象化して在った。目を輝かせる透の表情に、伊織は少年を見た。

「随分イワシにご執心しゅうしんだな」

「あれはもうお友達。トオルフレンズ」

「へえ。もう少し見てるか?」

「うん」

イワシたちは相変わらず、ひと塊のままであちらへ、こちらへ。やがて向かいにある大きな木の近くに落ち着いた。

「飽きないか? 見てて」

「うん」

時折、どこかの教室でワッと声が上がったものの、間もなく授業が始まろうという廊下は、静かだった。

「今、透さんは待っているのです」

「何を」

「あのクジラさんを」

「クジラ? イワシは?」

「もしもあのクジラさんがハクジラさんなら、イワシを食べにやって来るかも」

思いもよらなかった透の思考に伊織は一瞬たじろいだ。

「え、イワシってトオルフレンズなんだろ? いいの? 喰われて」

「自然の摂理なら仕方ない」

「なんかサイコパス風味だな、お前。あ、そうだ。そろそろ行かないと遅れるぞ」

「えー。美術の授業は退屈です。今日の透さんはインフルエンザということで」

「確か先週、それで学校サボッたろ?」

「ありゃ。じゃあ溶連菌ようれんきん感染症」

「なんだそりゃ。ほらほら。行こうよ。今日から授業じゃなくて実技だぞ。水彩画の」

「実技……水彩画……」

透はしばらくウーパールーパーになって宙を眺めていた。

「よし、行こう! 伊織さん、遅れないようについてきなさい」

「え?」

「ゴー」

始業チャイムと共に透は月面着陸で駆けだした。


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