第二場面

 なんとか一時限目の開始に間に合った二人は何事もなかったかのようにそれぞれの席に腰を下ろした。と、間をおかずに始業のチャイムが鳴った。

「竹田さん、遅刻ですよ」

とおるは自分のことをたなに上げ、まだ姿を見せない教師へつぶやいた。窓際の席から外を眺めると水面から差し込む光が水中のちりだかほこりだかに当たり、焦点を定めない眺望ちょうぼうにはそれがオーロラのようにも見えた。遠くの山まで水を見通すと、景色がほのかにラムネ瓶のように色づいていた。時折その景色の中を小魚を狙った大きな魚がかなりのスピードで泳いでいた。

「あの魚、道路で車とぶつかったら大変だ」

そんなことを考えている透の周囲ではクラスメイトたちが銘々めいめい、何事もなかった昨日の延長線上にある会話をしていた。

 しのアイドルが出ていたというテレビ番組の話、透がやってくるのを忘れていた英語の宿題が難しかったこと、卒業後の進路を決めかねていること、明日の野球部の遠征の話。透は少し、面白くなかった。誰かひとりくらい、今朝から町を覆っている水の話をしてくれてもいいのに、と。

「それでさ、ペソが吠えてるからなんだろうと思ったわけ」

「何、ペソって、犬?」

「そう。ウチのポメラニアン」

「マヌケな名前」

「大きなお世話だよ。話の腰、折るなよ」

「ごめんごめん」

「それで何かと思ったらさ、ペソの犬小屋から出てきたの! なんだと思う?」

「お前んち、ポメラニアン、外飼い?」

「んなこたいいの! タコだよタコ! ペソの小屋に入ってやがったんだよ。引っ張り出してみたらデッケエの! まったく、朝から驚いたよ。今晩、ウチ、たこ焼きなんだ」

「そのタコ食うの?」

「食う喰う」

透はたちまち嬉しくなった。そう、そうそう。こういう話だ。

「たこ焼きか。いいな。これからは海鮮に困らない世の中になるかも」

透はペソの飼い主に聞こえないくらい小さな声でつぶやき、自分の家に外飼いの生き物がいなかったことを少しやんだ。

 その時、竹田先生が文字通り、廊下を泳ぐようにしてやってきた。

「きりーつ、れー、ちゃくせーき」

クラスいちのギャルが気怠けだるさを隠そうともせずに号令をかけた。

「遅れてすみませんね」

「竹セン、その手、どしたん? 蚯蚓腫みみずばれ」

ギャルがギャルギャルと質問した。

「ああ、これ。今朝クラゲに刺されたんですよ。痛くて痛くて。皆さんはクラゲ、見かけても触らないようにしてくださいよ。さて、今日は、ええっと、前回の続き……お! そうでしたタイムリーです。中納言まいたまいて、です。問題集は六十五頁。この話の中に“くらげのななり”という言葉が出てくるのですが、これが話の肝です。クラゲのナナリーちゃんではありませんよ」

教室中の液体が一気に凝固した。もはや比喩ひゆではない程に。

「皆、動くな。過冷却かれいきゃくだ」

と、透は叫びそうになるのをこらえた。

竹センは何事もなかったかのように授業を始めた。

 授業中、透はいつもに増して上の空だった。この不思議な水がどれほど自分たちの日常を変えるのかと、わずかながらにでもハラハラしていた。しかし実際は普段と然程さほど変わらない日常が流れている。それが安心でもありながら、やはり少し面白くなかった。変わったことといえば月面着陸の歩き方と竹センがクラゲに刺されたこと、ペソの家の晩ご飯がたこ焼きになったこと、そして。透は再び窓の外に目を向けた。

「水色の景色……」

小さなクラゲが一匹、冷房の効いた室内に入りたそうに窓ガラスに体当たりを繰り返していた。

「む、竹センのかたき、入れてやらん」

透は窓越しにクラゲをグッとにらんだ。やがてクラゲは諦めたかのようにどこかへとフワフワ泳いでいった。

「まいったか」

そんな透とクラゲとの格闘をよそに、概念的凍結から解放された教室で竹センはいつもどおり、眠気を誘う調子で古典文法の解説をしているのだった。

「なんか、つまんない」

透はあわいラムネ色の景色を見ながら、無意識にまぶたを三分の二程閉じた。

「――」

何かを聞いた。音、という程の音ではない。竹センの授業に少しでも意識を向けている者であれば間違いなく聞き逃してしまう程の音波。しかしそれは透の外耳から中耳、内耳、そしてカタツムリへと確かに伝わった。

「鳴いてる。泣いてる?」

透は姿勢を正し、瞼を全開にして本能的に窓の外、髪蔵山かみくらやまの方へと視線を注いだ。町一番の高さを誇るその山の頂上付近に黒い影がひとつ。

「――」

「また鳴いた」

声の主は窓ガラス越しに悲しげな声を届かせながら山の周囲をゆったりと泳いでいた。透は竹センの授業中には決してみせなかった過去最大級の集中力を発揮してその影に目を凝らした。

「クジラだ!」

透がその姿を認めたとき、彼は既に山陰へとその巨体を隠してしまっていた。

「アラ、行っちゃった?」

クジラはそれきり、その姿を見せることはなかった。

「クジラさん、どうして泣いてたんだろ」

透には確かに彼が泣いていると感じられた。何故といって、分からない。ただそう直感したのであった。

「また会えるかな」

透は名残惜なごりおしく、水に沈んだ夏景色を眺めていた。竹センはのっぺりと敬意の方向や二重敬語の解説をしていたが、もちろん、透は今、それに意識を向ける気にはなれなかった。

 山の向こうに湧き立つ入道雲が少し、その姿を水に揺らした気がした。

「クリームソーダのゼリー寄せ」

突然頭に浮かんだそんな言葉が、この景色をぴたりと言い当てているように思え、透はひとりでくすくすと笑った。

「と、この場面ですかさず、そんな珍しい骨ならば、それは扇の骨ではなく、クラゲの骨だろうと、清少納言は言ったわけです。いやあ、なかなかウィットに富んだ発言ですねえ。並みの者ではこうはゆきません。清少納言の才がうかがえますね」

ふん、と透は小さな気泡を鼻から飛ばした。クラゲの骨より、クリームソーダのゼリー寄せの方がよっぽどウィットに富んでらい、と腹の中で毒づいた。

 授業はどんどん進み、透は自分だけが取り残されているような感覚におちいったものの、構わなかった。今だけは、どんなことになろうとも、夏の水中都市に浸ることが、透にとって何よりも重要なことであった。


伊織いおりさん、伊織さん」

授業が終わると、透は伊織の席へと駆け寄った。

「お、透、どうした?」

「聞いた? 授業中」

「聞いたって……ああ。クラゲのナナリーちゃんか。あれは寒かった」

「違う違う。そんなアラスカ級のジョークはどうでもいいの。鳴き声、聞いた?」

「なんの鳴き声よ?」

「クジラさんの!」

伊織は少し驚いた。普段、何に対してもウーパールーパ―みたくぽけえっとしている透がこれ程までに目を輝かせていることに。

「クジラ? なんのこと?」

透が一瞬、ウーパールーパーに戻った。

「授業中ね、見たんだ。髪蔵山の方に大きなクジラさんがいたんだ。そして、鳴いてた。この町には泣いてるクジラさんが居る」

「鳴いてんの? 泣いてんの? どっちよ」

「どっちも」

「変なクジラ。本当に居るのか? なんかの見間違いじゃなくて?」

「見間違いじゃなくて! とにかく、この町にはそんなクジラさんが居るということで、じゃ」

「え、おい、透」

透が席に着くなりチャイムが鳴り、間もなく数学の岸田先生が入ってきた。

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