第二場面
なんとか一時限目の開始に間に合った二人は何事もなかったかのようにそれぞれの席に腰を下ろした。と、間をおかずに始業のチャイムが鳴った。
「竹田さん、遅刻ですよ」
「あの魚、道路で車とぶつかったら大変だ」
そんなことを考えている透の周囲ではクラスメイトたちが
「それでさ、ペソが吠えてるからなんだろうと思ったわけ」
「何、ペソって、犬?」
「そう。ウチのポメラニアン」
「マヌケな名前」
「大きなお世話だよ。話の腰、折るなよ」
「ごめんごめん」
「それで何かと思ったらさ、ペソの犬小屋から出てきたの! なんだと思う?」
「お前んち、ポメラニアン、外飼い?」
「んなこたいいの! タコだよタコ! ペソの小屋に入ってやがったんだよ。引っ張り出してみたらデッケエの! まったく、朝から驚いたよ。今晩、ウチ、たこ焼きなんだ」
「そのタコ食うの?」
「食う喰う」
透はたちまち嬉しくなった。そう、そうそう。こういう話だ。
「たこ焼きか。いいな。これからは海鮮に困らない世の中になるかも」
透はペソの飼い主に聞こえないくらい小さな声で
その時、竹田先生が文字通り、廊下を泳ぐようにしてやってきた。
「きりーつ、れー、ちゃくせーき」
クラスいちのギャルが
「遅れてすみませんね」
「竹セン、その手、どしたん?
ギャルがギャルギャルと質問した。
「ああ、これ。今朝クラゲに刺されたんですよ。痛くて痛くて。皆さんはクラゲ、見かけても触らないようにしてくださいよ。さて、今日は、ええっと、前回の続き……お! そうでしたタイムリーです。中納言
教室中の液体が一気に凝固した。もはや
「皆、動くな。
と、透は叫びそうになるのを
竹センは何事もなかったかのように授業を始めた。
授業中、透はいつもに増して上の空だった。この不思議な水がどれほど自分たちの日常を変えるのかと、わずかながらにでもハラハラしていた。しかし実際は普段と
「水色の景色……」
小さなクラゲが一匹、冷房の効いた室内に入りたそうに窓ガラスに体当たりを繰り返していた。
「む、竹センの
透は窓越しにクラゲをグッと
「まいったか」
そんな透とクラゲとの格闘をよそに、概念的凍結から解放された教室で竹センはいつもどおり、眠気を誘う調子で古典文法の解説をしているのだった。
「なんか、つまんない」
透は
「――」
何かを聞いた。音、という程の音ではない。竹センの授業に少しでも意識を向けている者であれば間違いなく聞き逃してしまう程の音波。しかしそれは透の外耳から中耳、内耳、そしてカタツムリへと確かに伝わった。
「鳴いてる。泣いてる?」
透は姿勢を正し、瞼を全開にして本能的に窓の外、
「――」
「また鳴いた」
声の主は窓ガラス越しに悲しげな声を届かせながら山の周囲をゆったりと泳いでいた。透は竹センの授業中には決してみせなかった過去最大級の集中力を発揮してその影に目を凝らした。
「クジラだ!」
透がその姿を認めたとき、彼は既に山陰へとその巨体を隠してしまっていた。
「アラ、行っちゃった?」
クジラはそれきり、その姿を見せることはなかった。
「クジラさん、どうして泣いてたんだろ」
透には確かに彼が泣いていると感じられた。何故といって、分からない。ただそう直感したのであった。
「また会えるかな」
透は
山の向こうに湧き立つ入道雲が少し、その姿を水に揺らした気がした。
「クリームソーダのゼリー寄せ」
突然頭に浮かんだそんな言葉が、この景色をぴたりと言い当てているように思え、透はひとりでくすくすと笑った。
「と、この場面ですかさず、そんな珍しい骨ならば、それは扇の骨ではなく、クラゲの骨だろうと、清少納言は言ったわけです。いやあ、なかなかウィットに富んだ発言ですねえ。並みの者ではこうはゆきません。清少納言の才が
ふん、と透は小さな気泡を鼻から飛ばした。クラゲの骨より、クリームソーダのゼリー寄せの方がよっぽどウィットに富んでらい、と腹の中で毒づいた。
授業はどんどん進み、透は自分だけが取り残されているような感覚に
「
授業が終わると、透は伊織の席へと駆け寄った。
「お、透、どうした?」
「聞いた? 授業中」
「聞いたって……ああ。クラゲのナナリーちゃんか。あれは寒かった」
「違う違う。そんなアラスカ級のジョークはどうでもいいの。鳴き声、聞いた?」
「なんの鳴き声よ?」
「クジラさんの!」
伊織は少し驚いた。普段、何に対してもウーパールーパ―みたくぽけえっとしている透がこれ程までに目を輝かせていることに。
「クジラ? なんのこと?」
透が一瞬、ウーパールーパーに戻った。
「授業中ね、見たんだ。髪蔵山の方に大きなクジラさんがいたんだ。そして、鳴いてた。この町には泣いてるクジラさんが居る」
「鳴いてんの? 泣いてんの? どっちよ」
「どっちも」
「変なクジラ。本当に居るのか? なんかの見間違いじゃなくて?」
「見間違いじゃなくて! とにかく、この町にはそんなクジラさんが居るということで、じゃ」
「え、おい、透」
透が席に着くなりチャイムが鳴り、間もなく数学の岸田先生が入ってきた。
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