第27話 忘れないように

 ただいま、と玄関に入ると、みんな夕食の後のようで和やかな空気が漂っていた。

「あら、思ってたより早かったじゃん」と明日香ちゃんが言って、涼ちゃんは「真帆は大事にしてるから」と言って明日香ちゃんから顰蹙ひんしゅくを買う。

「他の女の子はどんな扱いなのよ」

「さぁ」

「『さぁ』ってことはないでしょう? 真帆ちゃん、気を付けて。こういうのが性質タチの悪い男なのよ」


 今日の涼ちゃんはとてもジェントルで、そんな風には見えなかった。確かに深くキスされたのは強引だったかもしれないけど、わたしの不注意とも言える。

 ――誰にでもされるわけじゃないし。

 もっとも涼ちゃんは、誰にでもするのかもしれない。そこのところは確証がない。


「肉まんと焼売買ってきたよ」と何事もなかったかのように、彼はみんなにお土産を配った。青龍がまとめて冷蔵庫にしまう。バタンという音がする。

 明日香ちゃんは「横浜まで行ったの? 呆れた」と言った。わたしだって、ビックリした。


 青龍とは目が合わなかった。

 わたしが目を合わせづらかったこともあったけど、向こうもこっちを見てこなかった。

 やっぱりただの従兄妹だよなぁ、と思わされる。


「夕飯、残してある」

「きっと食べてくるわよって言ったんだけどね」

「涼平からLINE来たから。あんまり遅くならないって」

「え、そうだったんだ。じゃあ夕食までに帰ってくれば良かったのに」


 わたしが口を挟む暇もなく、話がポンポン進んでいく。

 そのうちに、すんと味噌汁のいい香りがして、この家が懐かしくなる。

「今日は茄子とミョウガ」

 わたしの前にお椀を置いて、青龍はボソッ呟いた。多分、他の誰にも聞こえない声量で。

 わたしは思い立って席を立つと、ご飯をよそりに行く。今日のおかずは生姜焼きで、庭に植えてあったインゲンも、キャベツと一緒に添えてあった。


 ◇


 お風呂を上がると、相変わらずふたりは縁台で飲んでいて、呆れてしまう。

「お風呂上がったよ」と涼ちゃんに声をかけると、青龍に「入ってくるわ。久しぶりに長距離走ったから肩バッキバキ」と肩を回した。すれ違いざまに「さっき言ったこと、忘れないで」と囁いた。


 さっき⋯⋯あ、キスのこと。

 青龍からキスしてくるなんて、絶対ないよ、と思いつつ、変に意識してしまい、縁台の端に座る。心臓の鼓動が聴こえないように。


「楽しかったか?」と言って青龍は缶ビールをぐいっとあおった。もう結構飲んだようで、足元には四、五本の空き缶が転がっていた。

「⋯⋯すごい飲んだね。酔ってる?」

「まぁ、そこそこ」

 酔った青龍を見たことがなかったので、やっぱり顔が見られない。俯く。


「真帆子は今日はやめておけば。疲れてると、酔いの回りが早くなる」

「⋯⋯はい」

 心做しか、青龍はフラッとした足取りで母屋に向かうと、ペットボトルを持って戻ってきた。


「ほら」

 それはアイスティーのボトルで、ありがとう、と言って手を出すと、青龍が先に蓋を開けてくれる。

「あ、ありがとう」と恥ずかしくなって言うと「お前の小さい手で開けるのは大変だよな」と言った。


 虫の声が聴こえる。

 母屋からは、まだ今日は寝ないのか、たけちゃんの声が聞こえてくる。

 わたしたちの間には、宵闇と沈黙が横たわっていて、空気がそよとも動かない。


「⋯⋯そんなに緊張するなよ。涼平じゃあるまいし、取って食ったりしないから」

「うん⋯⋯」


 その言葉に余計緊張する。

 まるでわたしが取って食われたりしてきたみたいだ。

 半分は、当たってるかもしれないけど。


「――真帆子、すきだ」


 息を吸い込むと、青龍は俯いて一息にそう言った。

 わたしの緊張は、頂点に達した。

 だって、青龍から直接的にそんなこと、言われるとは思ってなかった。

 自分でも、うれしいのか、単に驚いたのかわからなくて、激しく動揺する。


 何か答えるべきだと頭に浮かれだけど、言葉が上手く纏まらなくて、唾を飲む。

「お前は涼平がすきなんだろう、どうせ。男から見てもいい男だと思うからな。女子から見たらさぞ魅力的だろう。でも俺は、お前が帰る前に、自分の気持ちをきちんと伝えておこうと思った。悔いがないように。――車なんて貸さなければよかったって、一日中バカみたいにそればっかり考えてた」


 言葉がつかえて出てこない。

 上手い台詞なんて、頭の中をくるくる回って出てきそうにない。わたしは、自分のTシャツの裾を握りしめた。


「⋯⋯悪い、余裕なくて。ふたりが今日、何してたのかと思うと、バカな考えばっかり浮かんできて。こんなことなら涼平が来る前に、お前を海でも何処にでも連れ出せばよかったって、後悔しかない⋯⋯」


 青龍は俯くと、それ以上何も言わなくなった。

 何を言ったらいいんだろう、少なくともキスされそうなムードではないことは確かで、とにかく焦る。

 青龍は後悔が深いのか、下を向いて動かない。

 焦っていると涼ちゃんがやって来て「青龍、寝てるじゃん」と言った。


 は? わたしがこんなに悩んだのに?


「仕方ねぇな。部屋まで連れていくのはちょっと無理だから、居間に転がしてくるわ。真帆、そこで待ってても怖くない?」

「⋯⋯大丈夫だと思う」

「すぐ戻るからね」


 カラカラ、と引き戸をひく音が聞こえて、ほのかに闇が深くなる。

 青龍、明日自分の言ったこと、覚えてるのかなと心臓はバクバクして、頬が熱い。あの青龍が、あんなことを言うなんて。


 でも、青龍にも彼女がいたわけだし、その時はあれくらいのことも言ったに違いない。いくら無口だからと言っても、気持ちも言えないんじゃ付き合えないだろうから。

 だから、わたしだけが特別なわけじゃなくて。

 たまたま、わたしと涼ちゃんがふたりきりで出かけたからそういう気持ちになったのかもしれないし。


 また主屋から差し込む光が明るく見えて、涼ちゃんが戻ってきた。

「あーあ、アイツこんなに飲んだの? 自己管理が足りないなぁ」

「涼ちゃんも一緒に飲んだんじゃないの?」

「飲んだけどさ、俺は疲れてたし、セーブしてたから」


 涼ちゃんは屈んでビールの缶を並べると、わたしを見上げて「運転のことだよ、疲れたのは」ときっぱり言った。

 思っていたことがきっと顔に出てしまっていたに違いない。恥ずかしいと思うと、彼はわたしのすぐ隣に腰を下ろした。


「真帆も疲れたんじゃない?」

「⋯⋯ちょっとは」

「かわいいなぁ。本当のこと、言っていいんだよ」

「だって、涼ちゃんの方が余程、疲れたと思って」

「じゃあ、背中、トントン叩いてくれる?」

 こくん、と頷く。


 しなやかに見える涼ちゃんの背中は程よく筋肉が付いていて、男の人なんだなと思わせる。

 涼ちゃんは「にゃんこパンチだな」、と笑った。

 何だか悔しくて、肩を揉む。

 極楽、極楽とおじいさんのようなことを言って、わたしを笑わせる。


「俺といるの、慣れた?」

「え?」

「いや、警戒してたでしょ? 青龍の背中に隠れるみたいに。あれ、すごい妬けたから」

「そんなのしてないよ」

 わたしは手を振って否定した。

「そっか、勝手に傷付いちゃった」


 おいで、と言われて、何処に、と思うと膝の間に座らされる。どうしてこんな仕打ちを、と思う。

 彼は背中から覆い被さるように、体重を預けてくる。自分が汗臭くないか、心配になる。


「俺さ、明後日帰らなくちゃいけなくなっちゃって。言ったでしょ、バイトがさ。その前に真帆をよく覚えておきたいし、真帆に俺を刻んでおきたい。どんな卑怯な手段でもいい。俺を忘れないように」

「忘れたりしないよ」

「ほんとに? あっさり青龍に転ぶんじゃない?」


 涼ちゃんの意地悪、とわたしは返した。

「でも、⋯⋯でもわたしまだ、涼ちゃんと付き合うとは」

「ストップ。確かに言ってないんだよ、これが」

 首筋に、唇の感触。あ、と声が出てしまう。


 わたしを軽く抱きしめていた手は、わたしの腕に沿って伸びて、太腿に到着する。大きな手に、困惑する。

「涼ちゃん、こんなところで!」

「⋯⋯ここじゃなきゃいいの?」


 太腿を擦られる。ゾワゾワする。

 その手は太腿にしか触れなくて、それ以上のことはなく、拒絶しにくい。

 段々、気持ちよさが勝ってきて、呼吸が漏れる。

 腰の辺りに硬いものが当たって、涼ちゃんも興奮してることがわかる。


「⋯⋯涼ちゃん」

「ごめんね、泣かせちゃった? 俺ももうダメだわ。これが今日のワンピース姿だったらと思うと、もう限界。おかしいよね、足しか触ってないのに。あー、ヤッちゃえたらいいのに。真帆相手だと、理性が勝る」


 わたしは両脇に手を挟まれて、よいしょ、と立たされた。

 快感の余韻で身体が傾く。「危ない」と受け止められて、「大事にしたいと思います。だから涼ちゃんのこと、もっと考えて。帰ってからもきっと逢いに行くから」と頬に手を添えられる。


「空き缶片付けるから、先に行っていいよ」と言われて何とか頷くと、母屋に小走りに向かった。

 背中で、ため息が聞こえた気がした。

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