第8話「ゼロ距離の決意」


──次の瞬間、世界が、真紅に染まった。


「っ……!」


ドスッ――!


鈍い衝撃。身体が浮き、背中から地面に叩きつけられる。


凪人の視界が、赤いノイズで染まっていく。


(……な、に……今の……)


見えてすらいなかった。


《クリムゾ・グリッチ》は、いつの間にか目の前にいた。

歪んだ爪が、凪人の腹を抉っていた。


「ぐあっ、がはっ……!」


喉の奥から血が噴き出す。

吐き気と眩暈が交互に襲い、何度も咳き込みながら、凪人は這うように後退した。


──その姿を、誰も助けなかった。


壁際にうずくまるカズキは、蒼白な顔で息を呑んでいた。

脚が震え、声も出ない。


「や、やば……動けね……」


隣に倒れ込んだ玲奈は、傷ついた腕を抱えながら、泣きそうな顔で首を振っている。


「……こ、こわ……い……」


ゆうまもまた、背中を壁につけたまま固まっていた。


「な、凪人……」


名を呼ぶ声はかすれていた。

誰も動けない。

恐怖に凍りついたまま。


──ただひとり、凪人だけが、立ち上がろうとしていた。


『生体反応低下。血液量:危険値。残存体力──27%』


Orisの冷たい計測が頭に響く。


(知ってるよ……そんなこと)


手が震える。脚が言うことをきかない。


それでも──


(俺しか……いないんだよ)


ギリギリで身体を支えながら、凪人は叫ぶように命じた。


「Oris──展開しろ! 銃を……!!」


『構築開始──試験兵装ゼログリム再展開』


視界にHUDが重なり、右腕にコードが走る。

皮膚の上を走る青い光。電子の粒が集まり、銃の形を成す。


「ぐっ……はあ、はあ……っ!」


身体が限界に近い。視界がぐにゃりと揺れる。


それでも、トリガーに指をかけた。


──来る。


《クリムゾ・グリッチ》がノイズの残像を残しながら跳躍する。


「うぉおおッ!!」


《ライン・ブレイク》


バン──!!


銃声が空間を裂く。

一撃が、奴の脚部を弾き飛ばした。


しかしそれすら、止めにならない。


すぐにワープのような動きで距離を詰め、爪が凪人の頬を裂く。


「っ……ああああっ!!」


倒れそうになる身体を、気合だけで支える。


(痛い……けど、まだ……)


『照準モード再起動。応答速度低下』


「構わねえ! 撃てるなら撃つ……ッ!」


引き金を引く。もう一発。

《ライン・ブレイク》の弾丸が《クリムゾ・グリッチ》の腕を貫いた。


──それでも奴は止まらない。


次の瞬間、ノイズが凪人の脇腹を裂いた。


ガキィン!!


何かが砕けるような音と共に、凪人の身体が吹き飛ぶ。


「が……あッ……!」


壁に激突。口から血が噴き出す。


──立てない。

呼吸が、うまくできない。


『限界点接近──応答機能低下』


(もう……ダメなのか……?)


その瞬間。


『──適応率、上昇』


Orisの声が、冷たくも確かな響きで届いた。


『閾値突破。新規機能ゼロパス、使用可能』


「……なんだと……?」


視界が反転した。

時間が歪み、全身に異様な浮遊感が走る。


『対象位置マーカー──取得。選択を』


──逃げる選択肢なんて、最初からない。


「……殺られるくらいなら、近づいて、ぶっ放すだけだ!!」


「──《ゼロパス》!!」


刹那、凪人の身体が“消えた”。


空間を跳び越え、敵の背後へと瞬間移動する。


《クリムゾ・グリッチ》が反応するより早く──


「《ライン・ブレイク》!!」


轟音。

砲撃のような一撃が、奴の胴体を貫いた。


黒いノイズが弾け飛び、空間が振動する。


──だが。


『敵性反応、回復開始。崩壊不十分』


(……やっぱ、こいつ……)


「止まんねえのかよ……」


凪人の足が、限界を迎えて崩れ落ちた。


銃を構えたまま、動けない。


─視界が赤く染まる。


《クリムゾ・グリッチ》が、ノイズを纏ってこちらに“滲む”ように迫ってくる。座標が歪み、動きが読めない。もはや凪人の身体は、限界を超えていた。


(……くる……終わる──)


その瞬間だった。


音が、世界から消えた。


代わりに、光が満ちた。


まるで空間そのものに旋律が走ったようだった。


宙に浮かぶのは──光の“コード”。

幾重にも交差する“弦”が、空間に五線譜のように展開されていく。


その中心に、ひとりの少女が現れた。


髪がふわりと揺れる。

落ち着き払った瞳が、怪物を正確に捉えていた。


『高エネルギー反応、接近──識別コード:神谷明璃』


Orisが、静かに告げる。


「“ラルゴ・グレイス”」


明璃の指先が、宙をなぞった。


光のコードが波紋を描くように広がり、瞬時に《クリムゾ・グリッチ》の動きを“止めた”。


空間そのものが凍りついたように──

怪物は、まるで一時停止された映像のようにピクリとも動かない。


「──静止完了。次は、崩すだけ」


彼女の声が、低く響いた。


「《アーク・スコルダトゥーラ》──」


音なき旋律が崩壊し、光の譜面が砕けて飛散する。


無数の光の矢が、空間ごと貫いた。


──ザザザザァッ!!


ノイズが弾け、闇が裂ける。

《クリムゾ・グリッチ》の体が、赤い亀裂と共に崩れ落ちた。

抵抗の余地すらなかった。


──完全消滅。


世界の歪みが消えた。空間が静かに、元に戻る。


光のコードは音もなく消えていき、そこには──

ただ、ひとりの少女が立っていた。


その視線は、血に塗れた凪人へと向けられる。


「……間に合って、よかった」


その声が届いたとき、凪人の意識は──

深い深い闇へと、沈んでいった。



─静寂の中で、誰かの声が落ちてきた。


「……よかった。目が覚めたのね」


重たいまぶたを持ち上げると、揺れる金色が視界に差し込んだ。

光の余韻を纏いながら、静かに佇むひとりの少女。

長く伸びた髪は、微かにウェーブを描いて肩を揺らし──


凪人の視線と、重なった。


「……あなたが、助けてくれたのか……?」


かすれた声が、喉から漏れる。


少女──神谷明璃は、静かに頷いた。


「敵は……完全に消滅したわ。残骸も、データすらも……何も残っていない」


凪人はゆっくりと身体を起こそうとしたが、焼けるような痛みが全身を駆け抜けた。

血のにおい。乾いた空気。戦いの爪痕が、まだそこにあった。


「……他のみんなは……?」


問いかけた瞬間、明璃の表情に影が落ちた。


「……あなたと、あの三人だけよ。生きているのは」


その言葉を聞いた途端、鼓動が強く跳ねた。

無意識に視線を周囲に向ける──


そして、見えた。


赤黒く染まった床。

動かないクラスメイトたちの躯。

その中には、凪人が見覚えのある顔も混じっていた。

そして、プロの冒険者──顔の半分が削れ、壁にもたれたまま息絶えていた。


「……っ」


吐き気が込み上げる。


目を逸らしても、記憶には残る。

この空間すべてが、“現実”だと告げていた。


「どうして……ここに来たんだ……?」


絞り出すような声。

明璃はしばらく黙っていたが、やがて視線を凪人に戻す。


「理由は──あとで話すわ。今は、それより……」


遠く、トンネルの奥から人影が見えた。

灯りを手にした救助隊。その姿が、ようやく戦場に届こうとしていた。


「……あなたは、ちゃんと“生き延びた”のよ。それを、忘れないで」


その言葉が、妙に重く胸に残った。


──そして、救助の声が響いたころには。


凪人の目には、また霞がかかっていた。

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