第4話「失われた現実」
──目が覚めたとき、天井は知らない場所だった。
薄暗い白。壁際にあるのは、簡素な医療設備とモニター。
ベッドの隣では、診断用のホログラムがぼんやりと揺れていた。
どうやらここは、冒険者協会の医務室らしい。
右肩には包帯が巻かれていた。
けれど、不思議なことに痛みはなかった。
(……生きてる)
胸に手を当てる。鼓動は、確かにある。
あの戦いが現実だったと、ようやく実感した。
脳内に、あの声が再び響く。
『意識の回復を確認。生体データは安定。適応率は、前回比+1.9%。現在:2.1%』
「……また、出てきたな」
『あなたは“戦闘適応”を果たしました。現在、肉体パラメータは標準値を超過中』
「……それって、俺が“強くなった”ってことか?」
『表現としては妥当です。ただし──感情応答値に変化を確認。戦闘感情優位。非戦闘時の共感値、低下傾向』
「……共感が、減った?」
『あなたの神経応答は、戦闘環境に適合するよう構築されつつあります』
凪人は小さく息をついた。
それは恐怖でも安心でもなく、ただ、無音の“呼気”だった。
自分が少しずつ壊れている。
でも──それを止める理由が、見つからなかった。
***
夕方。
医務室を出て協会のロビーに戻ると、空気がざわついていた。
「聞いたか? 第七ダンジョンで変異体が出たって」
「マジ? Dランクで死者が出てもおかしくないってレベルだろ、それ」
「でもその変異体、誰かが倒したらしい」
「誰だよ? ランキングにそんなやついねぇぞ」
ロビーの端。
自販機の前。
出入口の近く。
誰もが、俺のことを知らないまま、“俺の話”をしていた。
(……いい)
知られてなくていい。
名乗る気もない。
ただ、名前を刻んだ。
それだけで、十分だ。
でも──心の奥のどこかで、別の感情が蠢いていた。
(……誰かに、見ててほしかったのか?)
そんな自分を笑い飛ばすみたいに、凪人は足早に通り過ぎた。
***
──外は、すっかり夕暮れだった。
(……少し、何か食って帰るか)
医務室での点滴だけじゃ、空腹はどうにもならない。
近くのコンビニに立ち寄る。
一見すると見慣れた街並み──のはずだった。
だが、建物の外壁は無機質な金属パネルに変わり、街灯は人感センサー付きのホログラム式になっていた。
交差点にあったはずの看板は、光の粒で構成された電子掲示にすり替わっている。
(……ここ、本当に俺の知ってた街かよ)
自動ドアを抜けて、店内に入る。
でも──すぐに気づく。
(……あれ? おにぎりとか、ない?)
棚に並ぶのは、見たことのないパッケージばかりだった。
《栄養塊(TYPE-S)》
《機能性支援糧:咀嚼型》
《反応促進バー(ブレインサポート)》──
まるで軍の支援物資か、SF映画の宇宙食のようなそれらは、色も形も、明らかに“飯”じゃなかった。
(これが……この世界の“食事”ってやつか)
少しだけ躊躇しながら、最も“まともそう”な《支援補助食》を手に取った。
価格表示の横には、〈消化促進ナノ処理済〉と記されている。読んでもよくわからない。
(まぁ……食えるなら、いいか)
そのままレジに向かい、いつものように──財布を取り出した。
──中身は、空だった。
「……え?」
紙幣も小銭も、どこにもない。
カード類も消えていて、革の中はただの“空の入れ物”になっていた。
一瞬、パニックになりかける。
だが、ふと隣の客に目をやると──彼は、手にした薄い端末のようなものを、レジの横にかざしていた。
ピッという電子音と共に、支払いは完了する。
(……あれ、スマホ……?)
違う。もっと薄くて、コードラインが光ってる。
形は似ているのに──完全に別物だ。
(俺のも、もしかして……)
ポケットから取り出した“スマホ”──だったはずのそれは、いつの間にか、同じようなデバイスに変わっていた。
角がなく、黒く、重さも手触りも変わっている。
けれど──確かに、これは“俺のスマホ”だったものだ。
(まさか……Orisが……)
画面を起動すると、独自のUIが浮かぶ。
その中に、“残高”らしきマークがあった。
タップすると──
「……ある」
そこには、見慣れた銀行の残高と、まったく同じ金額が表示されていた。
(昨日までの“現実”が……もう、完全に書き換えられてるってことか)
戸惑いながら、見よう見まねで端末をかざす。
ピッという音。表示が切り替わる。
──それだけで、支払いは終わった。
(紙幣も、硬貨も──もう、必要ないのか)
袋を手に、店を出る。
外の風は、少しだけ冷たくなっていた。
けれど、それよりも胸の奥の温度の方が、冷えている気がした。
(……この世界は、もう“俺の知ってた現実”じゃない)
──帰宅の途中、空はすっかり夜の色に染まっていた。
通い慣れた道。住宅街の入り口。
街灯の配置も、アスファルトの質感も、たぶん変わっていない。
それなのに。
(……ずっと知らない街を歩いてる気分だ)
ドアの前に立ち、鍵を差し込む。
カチリ。
扉は、何の抵抗もなく開いた。
──だが、最初の一歩で違和感が全身を貫いた。
足元の床材は、以前のフローリングではなかった。
無機質な黒に、細かいコードラインのような模様が走っている。
(え……?)
照明が自動で点く。光は白く、どこか冷たい。
ソファの位置が変わっている。いや、それだけじゃない。
部屋にあったはずの写真立て。
キッチンに置かれていた母さんのマグカップ。
壁に貼られていたカレンダー。──何もかもが、消えていた。
代わりに配置されたのは、統一されたシルバートーンの家具と、ホログラム対応の壁端末。
まるで“誰かが用意した理想の部屋”みたいだった。
「……ふざけんなよ」
自然と、口をついていた。
脳の奥に、例の声が返ってくる。
『居住空間を最適化しました。あなたの生活動線に合わせ、再構築処理を完了しています』
「勝手に……勝手に“最適化”するなよ!!」
怒鳴った。
感情が突き上げてきた。
言葉が、声になって溢れた。
「ここは……! 俺の家だったんだよ……! 誰にもいじられたくなかった……!」
拳を握りしめる。
テーブルに叩きつけた手が震えていた。
「……思い出まで、勝手に消すな……っ」
『あなたは“英雄になりたい”と明言しました。
それに必要な要素として、精神的負荷の排除と、効率的な居住空間が推奨されたため──』
「英雄ってのは、そんな合理性でなるもんじゃねぇ……!」
部屋のどこにも、“温度”がなかった。
母親の声。夕飯の匂い。
父の残した本棚。家族の痕跡──
何もかもが、**“Orisの定義する英雄のため”**に、削ぎ落とされていた。
(……俺は、こんな風になりたかったんじゃない)
歯を食いしばる。
胸の奥が焼けるように熱いのに、手足はひどく冷えていた。
『あなたは“誰かに必要とされる存在”を望みました』
『その結果、あなた自身の環境と肉体が進化の過程に入りました』
『この空間も、その最適環境の一部です』
「……ちげぇよ」
呟きが、虚空に落ちる。
「……誰かを助けたかっただけだ。たとえ、不器用でも、格好悪くても──」
「“あのとき”……俺が、何もできなかったから……」
──そう言いかけて、息を呑んだ。
視界の端に、何かが映った。
テーブルの下、床に落ちていたもの。
埃を被った──一枚の写真。
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