第9話:柑橘の残り香と、嘘つきの香水

香りが、嘘を暴く。


保健室に漂っていた、柑橘系の残り香。

それは明らかに美月のものではなかった。しかも、ごく最近まで誰かがそこにいた証拠として、ベッドのシーツにもほんの僅かにその香りが残っていた。


僕はその匂いを鼻で追いながら、ふと、記憶の中から同じ香りを探していた。


(この香り……どこかで嗅いだことがある)


──そうだ。昨日の廊下、昼休み。

教室の前を通り過ぎた男子のひとり。

スタイリング剤の匂いに混じっていた、やけに“人工的なシトラス”。


あれは、香水じゃなかった。ボディスプレー。


「白井くん? どうかした?」


隣のベッドで休んでいた美月が、僕の様子に気づいて声をかけてきた。

僕は軽く首を振る。


「ごめん、ちょっと気になる匂いがあってさ。たぶん……その男子のもの」


「変な匂いだった?」


「いや。むしろ“整いすぎてる”んだ」


整いすぎてる。つまり、匂いを作ってるってことだ。

体臭をごまかすためか、それとも何かを隠すためか。


香水やボディスプレーの“嘘の匂い”は、僕の鼻にはすぐ分かる。


本来、人間の香りには個性がある。

皮脂、汗、食生活、体質、気分……そうしたものが混ざり合って、その人特有の“香り”を形成する。


けれど、あの柑橘の匂いには「人間らしさ」がほとんどなかった。


(まるで、匂いを隠したいとでも言うように)


そんな時、保健室のドアが開いた。


「失礼しまーす。あれ、白井じゃん?お前も体調悪い系男子?」


ふわっと柑橘系の香りが流れ込む。


現れたのは、三上 蓮(みかみ れん)。

隣のクラスの“自称・色男”で、髪は程よく整えられ、制服の袖をまくったその姿は妙にキマっていた。


僕の鼻が、瞬間的に警告を鳴らす。


――この匂いだ。


彼のボディスプレー。強すぎないが、人工香料特有の「浮いた甘さ」が鼻に引っかかる。


「三上、お前、さっきここで休んでたって聞いたけど」


「あー、うん。ちょっと腹の調子が悪くてさー。ここ、静かでいいから寝てた」


三上は笑いながらそう言った。表情に違和感はない。

だけど僕の鼻は――その裏にある“微かな臭い”を捉えていた。


(違う……これは、胃腸の乱れじゃない。緊張の汗、それも“動揺”に近い)


「……それにしては、香りが完璧すぎるな」


僕がそう呟くと、三上はぴくりと眉を動かした。


「な、なにが?」


「いや、普通、寝てた後ってもっと“無防備”な匂いになるはずなんだけど、君の香りだけやたら整ってるんだ。香水も消臭剤も、タイミングが完璧すぎる」


「なっ……お前、嗅いでんのかよ……」


動揺が明らかだった。


僕は続ける。


「さっき美月が休んでたベッドにも、君の香りが少し残ってた。しかも、ごく最近まで“誰かとすれ違った”痕跡がある。ほんのわずかに、体臭と汗の交じり……“香水では覆いきれなかった部分”だ」


三上の顔から笑みが消えた。


「……まさか、お前、探偵かよ」


「探偵ってほどじゃないけど、嗅覚にはちょっと自信あるんだ。だから――聞くけど、君が隠したい“匂い”って、何?」


その瞬間、三上の体温が変化したのを僕の鼻は敏感に捉えていた。


(答えたくない匂い。焦りの汗。逃げ出したい欲求)


美月がベッドから身を起こす。


「三上くん……本当にお腹が痛かっただけ?」


その問いに、三上はついに視線を逸らした。


「……別に。お前のこと、ちょっと気になってただけだよ」


それは告白のようでいて、どこか“保身”の言葉に聞こえた。


でも僕は、三上が本当に隠したかったのは“好意”なんかじゃないと確信していた。


彼の身体に、微かに残っていた“別の匂い”。


――血の匂い。


けれど、それは美月のではなかった。

まるで、誰かの流した血を近くで感じ取ったかのような、ごくごく僅かな痕跡。


(三上、お前……どこで、その匂いを)


次の事件の予感が、鼻の奥をつんと刺した。


 


つづく。

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