第8話:保健室での邂逅、そして再び香る秘密
放課後のチャイムが鳴る少し前、僕はノートを閉じながら決めていた。
美月の様子が気になる。
匂いだけで感じ取った、彼女の微かな異変。それを確かめるために、僕は保健室に向かった。
──匂いは嘘をつかない。
保健室の扉をノックすると、返事はない。中を覗くと、窓際のベッドに横たわる長い黒髪が目に入った。
間違いない、美月だった。
カーテンは半分だけ閉じられ、午後のやわらかい光がシーツの白さをやさしく照らしている。
彼女は制服のまま横になり、額には冷却シートが貼られていた。細く静かな寝息。少し乱れた髪。普段の凛とした姿からは想像できない、無防備な表情。
でも、僕の注意を引いたのは、彼女の寝顔でも、長いまつげでもない。
――香りだった。
静かな部屋の中に、彼女の匂いが淡く広がっていた。
いつものように主張するフローラル系の香水は、汗と体温で輪郭がぼやけている。
その奥に、やはり鉄分のような微かな金属臭。そして、ごくごく弱い、ラベンダーのような安らぎの香りが混ざっていた。
(……新しい香水?いや、違う。これは皮膚から滲み出ている“自然な香り”だ)
彼女の身体が、無意識に放っている香りの変化。
それはまるで、言葉にならない「助けて」のサインみたいだった。
「……白井くん?」
突然、声がした。
気づけば、僕はベッドのすぐそばに立っていた。目を開いた美月が、うっすらと焦点の合わない瞳で僕を見つめていた。
「ごめん……起こしちゃった?」
「ううん、大丈夫。頭が少し痛かっただけ……」
そう言って、彼女は起き上がろうとするが、僕は慌てて止めた。
「無理しない方がいいよ」
「……白井くん、どうしてここに?」
一瞬、表情が曇る。
問いかけの中に、ほんの少しだけ警戒が混ざっていた。僕はごく自然に笑って答える。
「心配だったから、様子見に来ただけ。匂いで、なんとなく不調だって分かった」
「やっぱり……嗅ぎ取ってたんだね」
美月はふっと微笑んだ。まるで諦めたような、だけどどこか安心したような表情だった。
「白井くんって、不思議。気づかれたくなかったことも、あっさり嗅ぎ取るんだもん」
「ごめん、勝手に嗅いで……」
「ううん、嫌じゃないよ。むしろ……ちょっと救われた」
彼女の声はとても静かだった。
まるで香りのように、消え入りそうなその声が、僕の胸にしみ込んでいく。
「実は……最近、自分の匂いにちょっと悩んでたの。体調によって変わっちゃうし、人と違うって感じてた。香水でごまかしてたけど、白井くんにはバレちゃってたね」
「美月の匂い、変じゃないよ。むしろ……自然で、あったかい」
言ってから、自分でもちょっと恥ずかしくなった。でも、美月はほんの少し、頬を染めて俯いた。
「そんな風に言ってくれたの……初めて」
保健室に流れる静寂。
僕は、美月のそばにある椅子に腰を下ろした。
彼女の体から漂う香りは、少しだけ落ち着きを取り戻していた。
その時、僕の鼻が――また反応した。
(……あれ?)
今までと違う、ほんの一瞬だけ混ざった、わずかな違和感。
柑橘系の香り……?
美月の香りには混ざらないはずの“別の匂い”が、そこにあった。
「ねえ、美月。この保健室、誰か他に来てた?」
僕が問いかけると、美月は少し驚いた表情で頷いた。
「さっきまで……別のクラスの男子が寝てたみたい。先生が言ってた。気分が悪くて、保健室に運ばれたらしいけど……」
(誰かが、ここにいた。しかも、その人の匂いが――何かを隠してる)
再び僕の中で、“名探偵”としての勘と嗅覚が騒ぎ始めた。
美月の香りの奥に、別の匂い。
それが何を意味するのかは、まだ分からない。
だけどきっと、そこには“次の謎”が眠っている。
──香りが語るのは、ただの感情や体調だけじゃない。
時には、人の「裏の顔」すら、香りは知っているのだから。
つづく。
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