8話 調査
校門を出て、俺はランドセルの肩紐を少し持ち直した。
周囲の子どもたちは賑やかに帰っていく。俺はその流れに紛れながら、ただ歩く。
(……さて)
今日という日をざっと振り返る。
転生先の学校。小学生の俺。教室、教師、クラスメイト。
そして――桜。
彼女の存在は、やはり目立っていた。
あれだけ整った容姿に、どこか浮世離れした雰囲気。加えて、言動も妙に大人びている。
ただの子どもではない。あれは間違いなく、“上流”の人間だ。
(あの子が、なんで普通の小学校にいるのか……)
本来なら進学校や私立の名門にいるべき存在。
なのに、ここ。しかも、俺のクラス。俺の隣。
偶然――とは思えない。
けれど今は、そこを深く追うタイミングじゃない。
彼女については、俺が撒いた種が働き、いずれ“向こう”から何かしら動きがあるだろう。
(次は家だな)
自分の家。この身体。
目が覚めた時はまだ整理がついていなかったが、今は少し冷静に見れる。
まずは、家の間取り、家族構成、生活リズム。
誰がどういう関係で、どこに何があるのか。
必要なのは、今の“俺”の基盤の把握。
少なくとも、今後動くためには、その足場が必要になる。
(帰ったら、部屋を確認しよう。持ち物、部屋の配置、家具の数。)
あと……家族の顔も、ちゃんと見直すか。
知らない世界。知らない生活。
でも今は、それが“俺の日常”として動いている。
その日常を、まずは見て、覚える。
それから、次の一手を練っていこう。
俺はまっすぐ家に向かった。途中、余計な寄り道はしない。
玄関が見えた瞬間、自然と表情がひとつ落ち着く。
無表情という名の仮面を、より深く被る感覚。
家の前に立ち、ポケットから鍵を取り出す。
カチャリ。
ドアノブを回し、室内へと足を踏み入れた。
家に着いた時、玄関の明かりは消えていた。
両親の靴もない。どうやら、まだ帰ってきていないようだった。
(……好都合だな)
俺は小さく呟きながら玄関の扉を閉め、音を立てないように上がりこむ。
足音を殺して廊下を進み、自身の部屋の扉を開けた。
殺風景な部屋だった。
ベッドと小さな机、それに古びた本棚。壁には何も飾られていない。
子どもらしさが、決定的に欠けている。
まずは部屋全体をぐるりと見渡し、改めて確認する。
タンスの引き出しをひとつずつ開けていく。
中身はどれも服や雑貨。
──どれも新品のものばかり。
引き出しの端に詰め込まれた直近のレシートや書類には、女性の名前。
彼女の名前は『
恐らく母親の名前だろう。
押し入れには使い古されたゴルフバッグと、先月の日付が印字されたゴルフ会員証。
こっちは父親のものだろう。
父親の名前は『
──名字が、違う?
ぽつりと浮いたようなズレがあった。
夫婦であれば、どちらかの姓に揃っているのが普通だ。
例外があることも知っている。けれど、それにしては“その理由”が見えてこない。
互いの名前の間に、妙に距離があるように感じた。
名前が別だというだけで、ここまで薄く見えるものか──それとも、元からそうだったのか。
(夫婦別姓……いや、そこが引っかかってるんじゃない。本当にこの二人は夫婦だったのか? それとも……)
小さな違和感が、胸の奥で泡のようにぷくりと膨らむ。
それはやがて、家族という構造そのものへの疑問へと繋がっていくような、不穏な前触れだった。
他にも探させるところを探してみたが肝心の“アキラのもの”と呼べるものが見当たらない。
机の引き出しも開けてみるが、文房具以外には何も入っていない。
個人のノート、日記、写真。
そういった、存在の痕跡になるようなものが、ひとつもない。
まるで、あとから「子どもがいたこと」にされたかのような、そんな気味の悪さを感じる。
(元々存在はなく、後から追加された…か?)
小さく呟きながら、今度は押し入れの奥をまさぐる。
そのとき、薄い隙間に挟まれていた一枚の封筒に気づいた。
何の変哲もない茶封筒。
しかし、手に取ると中には何かが入っている。
薄く膨らんだその重み。
──紙だ。何枚かの紙が入っている感触があった。
開けるか。
……慎重に。
封を切ろうとした、その瞬間。
──カチャ。
玄関のドアが開く音が聞こえた。
俺は咄嗟に封筒を押し入れの奥に戻す。
すぐに立ち上がり、何事もなかったように机に向かう。
ペンを持ち、ノートを開いた。
「ただいま〜」
母親の声が、いつもの調子で家に響いた。
俺は何も返さず、鉛筆の先でノートに円を描いていた。
心は静かに、しかし確実に警戒を強めていた。
「アキラ? 返事ぐらいしなさいよ〜?」
そう聞こえ、母親がドアを開ける。
「あ~ごめんなさい。勉強してて気づかなかった」
机を見ながらそう告げる。
「ご飯つくっておいたから、リビングにおいで」
軽く相槌を打ち、母親に連れられるようにリビングに向かう。
台所では、母親がにこやかに食事を並べていた。
テーブルには二人分の皿。父親はいないようだ。
母は優しく接してくる。
けれどその笑顔には、どこか何かを感じる。静かで、見えない危うさを覗かせる。
食事を終え、部屋に戻った頃には、空気は夜の静けさに変わっていた。
ベッドに横になりながら、アキラは瞼を閉じた。
(……俺は、本当にこの家の人間か?)
その問いだけが、静かに脳裏に残った。
俺はは目を閉じたまま、深く息を吐く。
疲れが取れないのか、それともただ静寂に身を委ねたいだけなのか、よく分からなかった。
眠る準備が整い、彼の意識は次第に薄れていく。
……部屋の空気が、急に冷たくなった気がした。窓は閉まっている。風の音もないのに。
すると、微かに――
「生まれ変わった初日はどんな気持ちだったかしら。」
その声は、まるで夜の風に溶け込むように、優雅で、しかし不気味に響いた。
俺は目を開け、すぐにその声の主を見つけた。
彼の部屋の隅に、どこからともなく現れた女性が立っていた。
月明かりの中で、彼女は異次元から来たように美しく、まるで死そのものを具現化したかのような存在感を放っていた。
銀の髪が月光を弾き、目は底の見えない深淵のようだった。
そして静かに彼を見つめている。
その姿は、まさに「死神」と呼ぶにふさわしいものだった。
「……お前は……」
アキラは一瞬、恐怖を感じたが、すぐにその感情を引き戻した。
冷静に、ただの一人の人間として彼女に問いかける。
「あの時の死神で間違いないか?」
女性はその質問に微笑みを浮かべると、穏やかな口調で答えた。
「ええ、あなたと契約を結んだ者よ」
彼女は歩み寄り、アキラの前に立った。
その髪は長く、流れるように美しく、彼女の存在そのものが周囲を圧倒する。
「どうかしら? 新しい人生は」
彼女は、少し興味深げに尋ねた。
アキラは一度深呼吸をし、答える。
「まぁ、慣れたさ……ただ、一つ気になることがある」
アキラは視線を外さず、ぽつりと続ける。
「俺さ、この世界のことを……いや、周囲の人間のことを、どこかで“知ってるようで知らない”感覚があるんだ」
その言葉に、アキラは自分自身が本当にどこに立っているのか分からなくなりかけていた。
知っているようで、実は何も知らない――そんな気がして。
何度も頭を振りながらも、結局その感覚は消えなかった。
「思い出せない夢のように、断片はあるのに、掴めない。……それに、やけに都合よく馴染めている気がしてな」
アキラはその言葉を口にすることで、少しでも自分を納得させようとした。
けれど、心のどこかで、それがただの言い訳だと分かっている自分がいた。
死神は何も言わず、ただ微笑む。
アキラは目を細め、少しだけ声を低くする。
「……俺の存在って、本当に“最初から”この世界にあったのか?」
死神はその問いに対し、まるで楽しんでいるかのように首をかしげた。
「あなた自身は、どう思うの?」
「……まだ分からない。ただ、違和感だけは拭えない」
アキラは静かに呟いた。何かが違う、何かが狂っている。
それが何なのかは、今は分からない。
しかし、胸の奥にずっと引っかかる感覚がある。
彼の目は冷たく、だが鋭く、どこか遠くを見つめるようだった。
まるで目の前の現実を見つめるのではなく、その裏に潜む“真実”を探し求めているかのように。
「違和感に気づけなくなった時が、あなたの終わりね。楽しみにしてるわ」
死神の声が、冷たく響いた。アキラの胸に再び、あの不安定な感覚が湧き上がる。
彼女の言葉がまるで自分の内側に深く刺さったような気がした。
心の中で、疑念と焦燥が交錯する。
死神の冷笑を感じながら、アキラは目を閉じる。
彼女の言葉が繰り返される。
その言葉に対する反応を、今、あえて見せることはしなかった。
だが、内心では、その挑戦的な言葉がまるで火種のように燻り続けていた。
(違和感に気づけなくなったら……俺は終わりなのか?)
その問いが、胸の中で静かに大きくなっていく。
だが、答えはすぐには出せなかった。今はただ、その感覚を追い求めるしかない。
その言葉に、アキラの胸の奥で、静かに何かが燃え上がった。
試されている。そう思うと、妙に血が騒ぐ。
「……いいぜ。望むところだ」
そう呟いたアキラの目は、夜の闇よりも冷たく、鋭く光っていた。
しかし、熱の残る胸の奥とは裏腹に、まぶたは徐々に重くなっていく。
――まだ考えたいことは山ほどある。
だが、この体は正直すぎる。
「……くそ、こんな時に……」
思考の輪郭がにじみ、意識が遠のく。
闇に沈むように、アキラは静かに眠りへと落ちていった。
その瞬間、部屋の片隅で、微かに笑う声が響いた。
「ふふ……楽しみにしているわよ」
月明かりに溶けるように、死神の姿はすっと掻き消える。
そして、部屋には再び静寂だけが残った。
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