第6話

 次の日、私は朝からかなり気が重かった。母親に家を担保にして銀行からお金を借りると言いだすことができずにいたのだ。もたもたと躊躇している私の背中を翔太がポンと押してくれた。(翔太は自分の事に関しては決断できないのだけど)思い切って母親にその件を切り出すと、驚いたことに母親はカフェ経営に大乗り気になって、土地や家の権利書を箪笥の奥から出してきて言った。

「あんたが店やるなら、私も手伝うよ。あんた料理とかできないでしょう」

たしかにおっしゃる通り。母親が一緒にやるっていうのはかなり鬱陶しかったけど、背に腹は代えられない。あらゆる経営資源を活用して……そこから私の事業計画はぐうんと加速度をつけて走り出した。

 その年の年末が近づいてきた頃、ついに私のカフェ、「café ros masrinus 」はオープンしたのだ。

内装費を節約するために、細かいところは私と翔太とで手作業で仕上げた。やすしさんや恵子さん、この町のたくさんの人たちが手伝ってくれたおかげで、なんとか予算内で仕上げることができた。オープン当日は市長さんまでお祝いに駆けつけてくれて、地元のテレビ局も取材に来た。

 それからの半年間は自分でも記憶が飛んでしまうほどに忙しかった。アルバイトも二人雇ったけど、それでも人手は足りなくて、母親も週末には店に出てきてくれる。

  ほったらかしにしている翔太の事を気にする気力すらなくなり、マンションに帰ると疲れて不機嫌なままシャワーを浴びて寝る毎日。翔太も私のこんな生活に黙って付き合ってくれて、文句も言わず晩御飯も朝御飯も作ってくれた。でもこのままの生活が続けば、きっと翔太と私の関係がおかしくなってしまうことは間違いなかった。それでも翔太の我慢強さとやさしさに頼り切って、私はめちゃくちゃ働いた。働きながらも、いつかどこかで、翔太に埋め合わせをしなきゃ、という気持ちだけは、かろうじて残っていたのだ。

 オープンから一年が過ぎ、私はその歳の年末年始は、カフェをお休みにして翔太と過ごすことに決めた。離れかけた距離をなんとか縮めて、二人の「これから」に向かって歩いていこうと私なりに考えたのだ。


 雪の降る中国山地を抜けて、山陰、北陸、東北まで、翔太の年老いたボルボを励ましながら北上し続けた。

翔太はあちこちで車を停め、荒れる日本海を写し続ける。ファインダーの中に、激しく打ち寄せる波頭の飛沫が、鈍色の空にとまる。低く飛ぶ海鳥と押し寄せる波。

時折、いいショットが撮れると、翔太はカメラのモニターに映った写真を見せてくれる。二人で頭を寄せ合って、小さなモニターを見るたびに、私と翔太の距離は巣にもどるカモメみたいに戻っていった。

 私は三脚を立てるのを手伝ったり、サーモスに入れた温かいコーヒーを、手がかじかんだ翔太に渡したりして、初めての二人旅行を愉しんだ。それはこの一年間、がむしゃらに前進してきた私にとっても、本当にかけがえのない時間になった。

 旅行から帰ると、私と翔太はすこし広めのマンションを借りて、一緒に住み始めることになった。私の母も翔太の両親も、早く結婚しろってうるさく言ってくるけど、翔太の決断力は相変わらず鈍いのだ。私の仕事が忙しいのもあり、このままずるずるしているのも悪くないとは思っている。


 やがて瀬戸内海に向かって広がるこの港町に、また春がやってきた。

柔らかな日差しと海あかりで空が明るくなってくる。カフェから見える島影の向こうに夕陽が沈み始めれば、雲の端を茜色に染める。海から空へと続くグラデーションにおもわず仕事の手を止めて見入ってしまうのだ。

 そんなうららかな春に、山際さんの自殺という大事件が起こった。なんと翔太が前の晩にスナックで山際さんに会ったと云うのだ。

脂ぎってえぐいエロオヤジだったけど、この店を出すにあたっては、本当にお世話になった人だ。その上、市役所や商工会、地元企業のホームページなんかも山際さんの紹介で受注出来た。時折、奥さんとお嬢さんを連れてカフェにも来てくれ、帰りには必ずレモンシフォンケーキをホールで買っていってくれたりしていた。

 その大恩人の自殺という衝撃的な事件の余韻がまだ濃く残るころ、今度はリニューアルを頼まれていた「スタジオ・レンブラント」のホームページに悪意にみちた口コミが溢れているのを発見してしまったのだ。

 早速翔太と一緒に「スタジオ・レンブラント」にいって、やすしさんと恵子さんに教えてあげたけど、二人とも心当たりはない。でもスタジオの予約がすごい勢いでキャンセルになっていた。皆でキャンセルしてきたお客さんに事情を話して、半分ほどは予約が回復したけれど、たまらなく嫌な感じが残り続ける。

海灯りで明るいはずのこの町の空の隅に、いきなり黒い雲がぽかりと浮いたような、なにか身体の内側からぞわぞわと不穏なものが湧いてくような、そんな気分で気が滅入る話だった。


「翔太、あんた今から愛子のマンションに行ってみてくれない。エマちゃんも御願い」

 翔太のハハウエに云われて、私も一緒に愛子さんのマンションに向かった。あの婚礼撮影の日から、愛子さんは出勤していない。連絡も取れなくなっていた。

五階建てのこじんまりしたマンションの駐車場には愛子さんの車は無かった。

「車がないってことは出かけてるみたいだな」私たちはとりあえず部屋のインターフォンを押してみたけど、中から反応は無い。郵便受けには、何日分もの新聞や押し込まれたチラシが溢れている。

「ねえ、新聞が溜まっているっていうことは、もう何日も帰ってないって事だよね。他に探せる所とかないの?」

「愛子さんの妹がM県にいて、たしかお袋の所に年賀状がきてた。そこにあたってみようと思うんだけど、帰って調べてみよう」

「すんごく、やな予感がする、わたし‥‥‥」

「……」

 帰ってから年賀状を頼りに妹さんに連絡を取ってみたけど、妹さんは何も知らないみたいだった。いろいろ調べても、愛子さんの行方はわからなかった。

 翔太のスタジオでは、いない愛子さんの穴を埋めるために、恵子さんが手伝いに来ているらしい。私もカフェの忙しさに追われて、何となく愛子さんの事が頭の奥のほうに入り込んでしまった頃、衝撃的な報せが「スタジオ・サンライズ」に届いた。それは私と翔太が愛子さんのマンションに行った一週間後の事だった。

 愛子さんは、二時間ほど離れたO県の廃工場で、首を吊って死んでいるのが発見されたのだ。

 翔太の親父さんが警察に呼ばれた。遺体の側には、妹さんと翔太の両親に当てた遺書が見つかった。それはあまりに悲しくせつなさすぎる遺書だった。

 愛子さんは、地元の高校を卒業してすぐに「スタジオ・サンライズ」に就職した。そしてそこで一緒に働くことになったやすしさんを好きになってしまったのだ。でもやすしさんは、同じ職場の恵子さんと結婚してしまい、失意のまま愛子さんはやけくそみたいに好きでもない人と結婚した。その時媒酌人をしたのが翔太の親父さんと母親だったらしい。

 でも、愛子さんのやすしさんへの想いは変わることはなかったみたい。

やすしさんが独立してからも、恵子さんと一緒に「スタジオ・サンライズ」出入りする二人を見る度に、愛子さんの想いは歪んだかたちでつのっていったみたいだった。

それが原因で愛子さんの結婚生活は破綻し、離婚した愛子さんはそれから長い間、一人で暮らしながら、心のうちにやすしさん達夫婦への憎悪を膨らませていったようなのだ。

 でもそんな気配は一緒に働く誰にも見せることはなかった。やがて絶望感と嫉妬で狂った愛子さんの心は、確実に壊れていった。

 あの悪意に満ちた書き込みも、愛子さんの書き込みがきっかけで炎上したのだと遺書には綴られていた。婚礼撮影の日、やすしさんと恵子さんが仲良く話しているのを見た時、ついに愛子さんの心は完全に破壊された。



 親父もお袋も憔悴しきっていた。お袋が、店の奥に飾られていた社員みんなで撮った写真をそっと外した。写真額がはずされた後には、色の変わった壁紙が、妙に白々しく変色していたから、同じ場所に七五三の写真をかけた。

その日も、お祝いの写真を撮りにくる家族で、うちのスタジオは忙しかった。

愛子さんに育てられたと言っていい二人のスタッフは、できるだけ明るく振舞おうとしてか、写真を撮るときに大声で子供をあやしている。その分、シャッターを押す僕のなかには、やるせなさが詰まってくる。

 僕はこの愛子さんの顛末を、やすしさんにどう話せばいいのかわからないまま、一日中ただ苛ついたり落ち込んだりしていた。でも話さないわけにはいかなかった。何度もやすしさんの携帯番号を出しては、発信を押そうとしたけど、その度に手が止まる。ついに僕は情けない事にエマに助けを求めることにした。エマだってこの愛子さんの事でショックを受けているのはわかっているのに。またいつもの駄目で根性無しの自分がでてくる。

 僕とエマは、店を閉めたあと「スタジオ・レンブラント」へ向かった。車の中で僕たちは一言も口をきかず、お互い頭の中で、やすしさんと恵子さんにどう云うべきかを考えている。でも何も思い浮かばない。ただ前から来る車のライトがチカチカと路面に反射する光に目をしかめながら、小雨の降る国道を走った。やがて「スタジオ・レンブラント」に着いた。

 口火を切ったのはエマだ。黙って俯いている僕の横で、エマは愛子さんが親父に残した遺書について、かなりの正確さで話してくれる。僕は自分の責任を果たせなかったことに落ち込んでいた。すべてエマがやってくれたのだ。

 聞き終わったやすしさんは、天井を見つめたまま何も言わない。恵子さんは伏し目がちにお茶を取り替えに奥へ入っていく。長いあいだ、誰も声を出さなかった。帰り際にやすしさんが「ごめんよ、なんか」と言ったきりだった。

 そのまま、僕たちは帰ってきた。マンションに入っても、僕たちは黙っている。ロックグラスに氷を入れると、メーカーズマークを半分ほど注いでエマに手渡す。二人でソファに並んで黙ったまま、味のしない茶色の液体を飲み続けた。遠くを走る車の音と、氷の融ける音が、指の逆剥けに滲みるほどに静かだった。

       


 私のまわりに、やりきれない事が次々に起こって、テラスから見える海のきらめきも、空のグラデーションも、心なしか色褪せて見えた。

 愛子さんのことがあってから少し経つと、表向きはみんないつもとかわらず振舞っていたけど、翔太は考え込んでいる時間が長くなった。

私と翔太がこの町に帰って来てから、わずか二年足らずの間に起こったこと。私たちのよく知っている人が、立て続けに二人も亡くなった。それも二人とも自殺というやりきれない形でだ。

 もともと気の小さなところのある翔太は、愛子さんの事をいつまでも引きずって、どんより暗くなっている。私はそんな翔太を気にしながらも、カフェとホームページ制作の仕事で走り回っている。

 スタッフも増えた。会社も設立した。その方が節税になるからって、税理士さんに勧められたからだけど、名刺に印刷された「代表取締役江間薫」っていう自分の名前を見る度に、なんだか身体がふわふわして落着かない日々が過ぎていく。

 落ち着かなさはマンションに帰っても同じだった。暗い顔をしてご飯を作っている翔太を見る度に、私の中にいくつもの矛盾した思いがうかんで消える。

 翔太へのいとしさ、翔太に対する苛立ち、わかりあう私たち、なじり合う私たち――いくつもの言葉がうかぶけど、それはまだことばでしかなかった。

そのことばに意味を持たせるのは、私たちなのだ。

 私はカフェから帰ると無理やり翔太を誘って(スターダスト)へ行った。

 カクテルを舐めるようにしながら先に翔太が話し出した。

 マスターは気を聞かせて奥の厨房から出てこない。

「ごめん、毎日暗い顔してて」

「まあ愛子さんの、あんなことがあったんだからしょうがないよ。愛子さんは翔太が中学のころから働いている人だったしね。時間が過ぎればまた元のようになるよ、私たち‥‥‥」

私たち――と言った瞬間、私の中でいままで感じたことの無い違和感がどろりとあふれ出す。

「私こそなんだか翔太をずっとほったらかしにしてるね」

自分で言いながら、意味の見えない言葉だと思った。

「エマが頑張れば頑張るほど、自分がいったい何がしたいのか、この先どこに行こうとしているかがわからなくなってきて、このまま写真館をやることが自分のしたい事なのかって思い出して‥‥こんなことエマへの甘えだってことはわかっているつもりでも、自分が駄目な奴だって思い出したら止まらなくなって。またなんとなく旅に出てみようかと思ってるんだよ」

 ほんとはこんな時、いつも寄りかかっていた翔太の肩みたいに、私が肩を貸してあげる番なのはわかっていた。でもできなかった。ぐずぐずと泣き言を言う翔太に対して、苛立がいっきにあふれかえった。私の中の翔太へのいとしさも、消し飛んだ。

「ふざけんじゃないよ! なんかあれば旅に出るって。いつまでそんな子供みたいな事言ってんのよ。あっそう、だったら私たち別れようよ。旅でもなんでも行きなさいよ。こんな気持ちを引きずったまま一緒に暮らしていくなんてできないから!」

飲みかけのカクテルグラスをカウンターにたたきつけるように置いた私は、翔太を置き去りにして店を出た。

 生暖かく吹き付ける風で、髪が顔にうるさくかかる。いらいらと髪をかき上げているうちに、涙が頬に筋を作っているのがわかった。私は振り返って(スターダスト)の入口のドアをみたけど、翔太は追いかけてこなかった。

 店のファサードの青いネオンが、まるで生温い南風を冷やしているようだった。

 その夜、翔太はマンションには帰らなかった。私はずっと寝ないで待っていた。

やがて蒼い夜が明けて、窓の向こうに鳥のさえずる声が聞こえたけれど、私はベットから起き上がることはできなかった。

 翔太は「サンライズ・スタジオ」からいなくなった。そしてボルボもいなくなった。

 翔太のハハウエからは何度も電話がかかってきた。何度目かの電話に出ると、私はすべてを話した。ハハウエは黙ったまま電話を切った。やすしさんからも、恵子さんからも何度も電話があった。やがてみんな事情を察したのか、電話はやんだ。 

 カフェのある高台に海からの風が吹き寄せる。いつものように赤くて大きな太陽が海のむこうへとすとんと沈んでゆく。


                つづく


                                              

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