レンブラントライト

みやざきけいいちろう

第1話

               レンブラントライト 1話

                                  


 すこし力をこめてガラスのドアを押すと、チャランと音がして、すぐに恵子さんが奥からでて来た。

「翔ちゃん、うちのひといまちょっと出てるのよ」

「聞いてるよ。今日はこないだの集合写真のデータを持ってきたから、あとでチェックして欲しいって伝えといて」

 ケースに入ったⅮⅤⅮを店の奥にあるPCの前に置くと、店内の壁一面に飾られた重厚感たっぷりの写真をぐるっと見てまわる。ここに来た時のルーティンだ。

 今年の成人式の前撮りだろう、振袖で着飾った若い女性の写真が並んでいる。

 ところどころ、家族写真も飾ってあるけど、どれもこれもすこし重々しい「家族の肖像」っていう感じの写真たちで、まあウッディにデザインされた店の雰囲気には合っているけれど、相変わらずオーセンティックな写真たちだ。

この店の主、やすしさんは今どきの写真っていうものに、頑なに背を向けているところがあって、それがこの写真スタジオがあんまりはやらない理由だってことは、本人もわかっているけど、そういう写真が好きなのだからしょうがない。このスタジオは「時が止まったままの写真館」なのだ。

僕とやすしさんは一緒に酒を呑むたびにそんな話をしたけれど、彼は一向に方針転換しようとはしない。「またローキー写真の時代がくるさ」というのが飲んだ時の口癖になっている。

 やすしさんは、うちのじいさんが生きてた頃に、当時「あけぼの写真館」といった「サンライズ・スタジオ」に来た。じいさんに弟子入りしてきたそうだ。親父の弟弟子にあたるわけだけど、親父よりだいぶ年下の今年四十八歳、一回り年下の奥さん、恵子さんも前はうちのスタジオで着付けや撮影アシスタントをしてた人だ。いわば社内結婚みたいな感じで結婚した。二人とも僕がまだ中学生のころにはうちの店で働いていたから、ほぼ親戚のおじさんとおばさんか、年の離れた兄姉みたいなものだ。

 八年前に暖簾分けみたいな形で独立して、うちのスタジオのある町から車で二十分ほどのこの町の丘の上に自分のスタジオを開いた。

まわりはこぎれいな家が立ち並ぶ新興住宅地。そのなかにひっそりと落ち着いた色合いの小さなスタジオ兼自宅が佇んでいる。

ここだけ二十世紀初頭のフランスの街角的な建物(と言ってもささやかな建物なのだが)が、まわりから少し浮きながらも、いい感じで存在感をだしている。

こういうオーセンティックな写真スタジオはかなり珍しいから、開店した頃はいくつかの業界誌が取材にきたそうだ。外観も内装もやや明るめのウオルナットでまとめられていて、一見すると都会の街かどにあるカフェみたいだ。そこかしこにやすしさんのこだわりが感じられる。恵子さんはもっと明るいパステル調のお店にしたかったらしいけど、半年ほど繰り返された夫婦喧嘩の末、今の店ができたらしい。

「スタジオ・レンブラント」というこの店の名前も思い入れが強すぎると思う。

やすしさんの写真撮影の技術はほんとにすごくて、大手カメラメーカー主催の「営業写真家コンテスト」で三度優秀賞を受賞していた。だけど商売がへただから営業的にはいまいちぱっとしてない。いまだに「いい写真を撮っていればお客さんはくる」なんて言っている。

 じいさんは、本当は腕のいいやすしさんと自分の娘を一緒にさせて、跡継ぎにするつもりだったらしいけど、兄弟子の、つまりうちの親父がちゃっかり長女のお袋をものにして婿におさまった。 

親父はどちらかっていうと、技術屋というより商売人て感じの人だから、結果的には事業承継は上手くいって、スタジオもそこそこ繁盛している。僕はそのスタジオの三代目だ。

 かたや、やすしさんはゴリゴリの職人気質の人だから、やすしさんが独立した時には親父もずいぶんと心配して、うちのお客さんである大きな学校の卒業アルバムの仕事をやすしさんのスタジオに渡した。これで少しは経営が安定しはじめて「スタジオ・レンブラント」もなんとかやっていけるようになってきたらしい。以来ずっと、うちのスタジオが婚礼や七五三なんかで忙しい時は、奥さんの恵子さんと一緒に手伝ってもらっている。


「光ちゃんは、学校?」

「そう―あっ、もうこんな時間だ。そろそろバスが来る頃だから、翔ちゃんわるいけど、わたし角のドラックストアまで迎えに行ってくるから、ちょっとだけ店番してくれる? そこのコーヒーメーカーから勝手にいれて飲んでて」

「ああ、いいよ」

 僕は店の奥にある作業机の前に座ると、MACの電源を入れる。立ち上がったディスプレイの画面いっぱいに並んでいるアイコンから、「HIKARU」を選んでファイルを開いた。

たくさんのサムネイル画像がパラパラと音をたてるように一斉に花を咲かせる。その一つを選んで全画面表示にした。

光ちゃんだ。

ディスプレイに映った光ちゃんは、白のハイネックのセーターにベージュの膝丈のスカート、茶色のローファーを履いている。はにかんだいつもの表情をうかべて、軽く開いた唇は艶やかに濡れて、ライトの光を小さく反射させている。白バックで撮影されたその写真は、やすしさんにはめずらしくハイキーなトーンで明るくまとめられていた。黒目に映ったキャッチライトが、光ちゃんの表情をいきいきと輝かせている。

 相変わらず、隙のない写真だ。白いセーターに編み込まれている地模様が画面全体に立体感を与えている。あるかなしかの薄い陰影が風のように漂って、被写体の少女の純真な心まで感じられるようだ。

 光ちゃんは、ここの一人娘で今年十六歳になる。生まれつき脳性麻痺で思考や言語能力はせいぜい三歳児くらいみたい。でもこの写真の中にいる光ちゃんは、とっても素敵な十六歳の女の子で、やわらかな胸のふくらみや、ちょっと傾げた首には、大人の雰囲気がただよいはじめている。内側に曲がった不自由な左足を、やすしさんはポージングでうまくカバーしていた。

 二十枚ほどバリエーション画像が続く。無駄撮りがほとんどなかった。どの画像を開いても売り物にできる完成された作品に仕上がっていて、これはやすしさんの光ちゃんへの愛情を差し引いてもすごいことなのだ。

いつもながら「かなわないなあ」と独り言が口を突いて出た時、入口のドアがチャラチャラと鳴って、恵子さんに手を引かれた光ちゃんが入ってきた。

 少し不自由な足をひいて僕の横にくる。にたりと笑いながら光ちゃんは座っている僕の右横に立って、黙ったまま僕と手を繋ぐ。

いつもの挨拶みたいなもので、僕も光ちゃんの手をぎゅっと握ってから、学校帰りの光ちゃんに「おかえり」と言う。光ちゃんは精神障害者養護学校に通ってる。

「光は翔ちゃんが大好きだもんね」いつもと同じように恵子さんがほほ笑んだ。

 首を右に傾げると、すこし空いた口元からつうーっと涎が糸を引いたのを見て、恵子さんがすかさずタオルハンカチで拭う。

この狭い店の中にハイキーな光線が満ちてくる。僕はこの瞬間が好きだった。光ちゃんは何も言わないまま、僕の手をにぎっている。僕は空いている左手でマウスを持つと、そっとMACの画面を閉じた。

 それから僕と光ちゃんは、奥のテーブルで向かい合って、恵子さんが焼いたマドレーヌを食べた。光ちゃんはぎこちない手つきでホットミルクの入ったマグカップを両手で抱えて、嬉しそうに僕を見ている。光ちゃんは時々しかしゃべらない。なんでも脳性麻痺で言語野の発達が遅れているために、言葉を覚えることが難しいらしい。

 黙ったままバターの香るマドレーヌを食べ終わると、僕は「スタジオ・レンブラント」を出た。光ちゃんがじっとこちらを見ていた。

 店の前のウインドウを振り返ると、男性のポートレイトが掛けてあった。このウインドウに飾られたポートレイトの前で、僕はいつも立ち止まってしまう。

それほどやすしさんの撮る写真のライティングは完璧だ。

そう、レンブラントライト。

人物にむかって左斜め上から、まるで春の日のすこし暖かな光が窓から差し込み、その光に照らされた顔の半分だけがそっと輝いている。頬骨のうえにかすかな三角形のハイライトを残して、顔の右半分はやわらかな影にとけこんでいるけれど、まるで暖かい手で包まれてでもいるように、ふわりとかすかな輪郭を影の中にとどめている。レンブラントライトと呼ばれる古典的なライティング技法。

顔を立体的に浮かび上がらせている光と影は濃すぎることはなく、被写体の中年男性(地元の商工会長の山際さんだ)が、なんだかとっても優しくていい人に見えてくる。(実際にはそんなことはない)


「スタジオ・レンブラント」を出ると古びたボルボV70ステーションワゴンのエンジンをかけた。親父のお古の三十年物だ。バラッ、バラッと親父の泣き言みたいな音をたててエンジンがかかる。

 シフトレバーを一速にいれて、こいつのご機嫌をうかがうようにそろそろと発進したところにやすしさんが帰ってきた。

「翔ちゃんちょっと待っててくれよ。いまひな壇降ろすから積んでいってくれる?」

やすしさんがタウンエースの窓を開けて叫んだ。

「了解。そこに降ろしてくれれば積んでくよ」駐車場の中でひな壇を積み込む。

「今日はなんの集合写真撮りに行ったの?」

「商工会の合併三十五周年。聞いてたより全然人数が多くてしんどかったよ」

 ひな壇ていうのは、学校や結婚式で集合写真を撮るときに、参加者の顔が全部映るように並べる組み立て式のアルミでできたあの壇のことだ。これを運んで組んだり崩したりと、結構大変なのだ。

「言ってくれれば手伝ったのに」

「これくらい一人で出来なきゃ、この商売はやっていけないさ」と言いながらやすしさんは積み替えが終ったタウンエースの荷室に腰掛けて、くたびれた顔をしている。

「さっき、光ちゃんの写真見せてもらったよ。さすがな出来栄え」

「それなんだけどさ、翔ちゃん今晩空いてる? よかったらハナミズキで一杯やらない? データの修正、すぐに終わらせるから」

「いいよ、あと、こないだの二十歳の集いの画像データをPCの前に置いてきたから、確認しといて」

「じゃあ、七時にハナミズキで」

 こんな感じでうちのスタジオとやすしさんは、しょっちゅう一緒に仕事をしている。


 ハナミズキは小さな街にはどこにでもありがちな居酒屋で、品書きが豊富でそこそこ美味しいからなのか、界隈に呑み屋が少ないためなのか、いつでも混んでる。

 僕は空いたばかりの奥の小上がりに座ると、やすしさんを待たずに生ビールを注文した。

 ぐびぐびと半分ほど飲んだところにやすしさんがやってきて、「どっこいしょ」って言いながら胡坐をかいて生ビールを注文する。ジョッキがそろったところで、だまってジョッキの底をカチンと合わせた。

「さっきの話、光ちゃんの写真のことでなにかあった?」

「うーん、まあちょっと言いにくいんだけどさあ、こないだ恵子から聞いたんだけど……」

いきなり声が小さくなってテーブルの上にまえのめりに頭を近づけてきた。

「いや、まあ、なんていうのかさ……今頃になって初潮がきたんだよ、光に」

僕も同じくらい小声になって前のめる。

「‥‥‥光ちゃん、今年十六だよね。ちょっと遅すぎるくらいでしょ」

「いや、そうなんだけどさあ、俺も恵子も、このままあの子に初潮とか来なきゃいいのにって、思ってたからさ。なんだかがっくり来ちゃって」

 確かに、世間ではおめでたい事かもしれないけど、光ちゃんの事情を考えると、ちょっと考えさせられる。

「いや、いつかは来るって思ってたんだよ、俺らも。でもいざとなるとなかなか受け入れられないっていうか、光が大人の女になるってことだよ。これはやっぱりね」

 やすしさんは生ビールを飲み干すとハイボールをちょっと濃いめ、と言って注文した。僕は焼き鳥盛り合わせと納豆包焼きを注文する。

 ハナミズキの女将モエさんは、さっきからこちらの方をチラチラ見ながら、話しに加わりたそうにしている。この人は要注意だ。聞かれたら最後、明日の昼前にはどんな些細な話でもてんこ盛りになってこの界隈に広まっている。

 僕たちはさらに声のトーンを落として顔がくっつくほどに寄せた。

「で、恵子さんはどう言ってるの?」

「うん、恵子も最初はちょっと戸惑ったみたいだけど、そこんところはやっぱり女親だね。あとはテキパキ処置してたみたいだよ。ずっとうろたえたまんまなのは俺」

「さっき、光ちゃんの画像を見てたら、たしかに胸も膨らんできてるし、身体のラインも女っぽくなってきたというか」

「やめてくれよォ。おれ受け止められないよう」

「で、当人、光ちゃんはどうなの?」

「そんなのあの子に理解できるわけないじゃん。いたって普通にしてるよ。赤いオシッコがでたって、嬉しそうにトイレではしゃいでたらしいよ」

「‥‥‥だろうねえ。でもさ、この話は僕が相談に乗れる話じゃないしなあ」

「そりゃあそうだけど、とりあえず翔ちゃんに聞いてほしかったんだよ」

「とりあえず、ね。この手の話はさ、経験豊富なうちのお袋に相談してみたら」

「俺も翔ちゃんに相談したからどうなるもんじゃないことくらいわかってるさ。愚痴だよ愚痴。でも明恵さんに相談しても、しっかりしなさい、って叱られるのがおちだからさ」

 やすしさんはピッチをあげながら、ハイボール濃い目を何度もお替りしている。

 それから二人の話題は、成人式の前撮り写真の話になった。

「いやね、今年の前撮りでついに花魁風に着付けをした子が来ちゃってさ。俺、どうやって写ししたらいいのかわからなくなって、恵子に相談したら、そんなのスマホで撮るみたいにバシャバシャ写したらいいのよ、なんて簡単に言ってるから、頭来ちゃって、まあ、これでも一応プロのカメラマンだからさ。それで思いきりローキーで重厚に撮りまくってやったら、モニターを見て、こんなの私じゃない! って泣き出すんだよ、ヤンキーみたいなやつがさ。まいったよ。そんであらためてハイキーで、はっちゃけたポーズで撮ってやったら大喜びしてたんだけど、今度は親からクレームだよ。二十歳の記念写真をなんだと思ってるんだ、って言ってきた。あんな衣装を着せる親も親だよ。しょうがないから二冊アルバムにして渡したけど、翔ちゃんはこんな時どうしてんの?」

 やれやれだ。花魁風なんてだいぶ前からあるし、もっと露出度が高い過激な着付けで登場する女の子だって、成人式の前撮りにはいっぱいいる。いいかげんアップデートしたらどうなのって言っても、やすしさんは「成人式ってのは伝統の振袖に身をつつんだわが子の成長を親が喜ぶためのもんだよ。こんなもんまでアップデートしてどうすんだ。大体ね、俺には俺の写真があるんだよ」なんて言うから、絶対にかみ合わないのだ。

 四杯目のハイボールが来た頃から、やすしさんの声が大きくなってくる。

 ハナミズキの女将モエさんが、やすしさんに色っぽい目つきをなげかけながら近づいてくると「おしんこ、サービス」といって小上がりに腰掛けた。

 気がつくとお客は随分へって、僕たち以外にはカップルが一組だけになっている。福山雅治の「桜坂」が、春の風物詩といった感じで有線から流れている。

「やすしちゃん、さっき聞こえちゃったんだけどさ、光ちゃん、きたんだって」あれだけ頭を寄せ合って、小声で話したはずが、聞こえていた。

僕はたのむからその話題を蒸し返さないでくれって、強めの視線をモエさんに送ったけど、そんなことでひるむ人じゃない。このひとが原因で家庭崩壊の危機に陥った家は、この界隈じゃ五家族じゃきかないのだ。モエさんは、浮気した亭主(ここのマスターだった人)を二年前に叩きだした。亭主の浮気には不寛容なくせに、自分は相当尻が軽いと評判で、ちょっと素敵なお客が来ると、すかさず妖しい光線を目から放つ。いわゆる性に関してはかなり奔放なひとで、事情を知らない男が時々搦めとられてえらい目にあうのだ。どうやら最近またやすしさんに目をつけてるみたいだ。

「たいへんねえ、光ちゃんいくつになったの? もうすぐ成人式じゃないの?」

「まだだよ」不機嫌にやすしさんが応える。

「あの子も女なんだねえ」案の定、火に油を一ガロンほども注いできた。

「女」というワードに反応したやすしさんの顔がみるみるうちに歪む。酒と怒りで日焼けした顔が赤黒く猛々しくなってきた。

 僕はこのなりゆきに身を縮めながら、モエさんの顔の前に手のひらをストップの形でひらくと「モエさん、その件はもういいからさ、とりあえずおあいそしてよ」と言ったがなんの効果も無かった。

こんな時のやすしさんは限りなく酒癖が悪くなる。慣れてはいるけどめんどくさい。

「あのな、光は天使なんだよ。天使。わかるかあ? 天使は女になんかならないの。永遠に天使なの! おめえみたいな魔女にはわからねえだろうけどよ」

「あら、魔女? いいわねえ。どうせなら可愛い悪魔でどう? と言う訳で、その悪魔に一杯奢ってよ」というと返事を待つこともなく、腰を振って生ビールを注ぐとそのまま小上がりに座り込んだ。どこが可愛い悪魔だよ。

 それからモエさんは、やすしさんのやるせない怒りに油を注ぎ続ける。

「まあ、天使でいて欲しいって気持ちはわかるけどさ、現実を見つめなさいよ。光ちゃんだって日々大人の女になってゆくのよ。あのこ、まああれだけど――可愛い顔してるしねえ。やすしちゃんは、いつまでたっても夢見るおじさんなんだから。てか、やすしちゃんは、そこがいいんだけどさあ」

嫌なしなを作ると、やすしさんの肩に体温の高そうな手を置いた。エプロンをとって横すわりになった時、深めのスリットの入ったスカートの奥にむっちりした太ももがみえる。

 奥のテーブル席で横に並んでいちゃついていたカップルが、バイトの子にお金を払うと出ていった。客は僕たちだけになっていた。モエさんの目が妖しく光った。

 ここで僕が先に帰れば、最悪の展開になることは間違いない。恵子さんの顔がうかぶ。

「やすしさん、帰ろうよ」

「だめだ! 二階の(夕暮れ)で飲みなおそうぜ」

「あたしもいくう」

「モエさん、駄目! あんたが来るとややこしくなるから、今日の所はさっさとお勘定してよ」

 僕は恨みがましい顔をしたモエさんを振り切って、店の引き戸を開けると、やすしさんを押し出すように外に出た。

(スナック夕暮れ)はこの建物の二階にあるスナックで、モエさんのお姉さんがママをやっている。この人も姉妹そろってややこしいひとだ。

「やすしさん、明日も仕事だよ。帰ろうよ」

「翔ちゃん、お前いつからそんなに付き合いがわるくなったんだよ。今日の俺の呑みたい気持ちはわかるだろ。つきあえよ」この会話を何度聞いた事だろう。既視感にくらくらしながら、やすしさんの後ろから階段をあがる。

 (スナック夕暮れ)は平日だからか、お客はいなかった。僕たちはカウンターのなかほどに座ってママのミエさんが水割りを作るのを眺めていた。

 そのときふと右横に不穏な気配を感じて覗き込むと三つ空いた向こうに、他の客がいるのに気づいた。それまで気配がまるでなかった事にどきりとして、その中年男性の客を見ると、それは「スタジオ・レンブラント」のウインドウに飾られている写真の人、山際さんだった。

「こんばんわ」僕が挨拶をすると山際さんは無理やり作ったような引き攣った笑い顔で、

「おお、翔ちゃんか。やすし君もいっしょか」とだけ云うと、目の前に置かれたロックグラスに目を落とす。いつもとあまりに違う山際さんの様子が気になった。やすしさんも山際さんに気付いて軽く会釈する。

 この人は、いつもならうざいくらいに話しかけてくるタイプなのに、なぜか今夜は思いつめたように赤いカウンターに置かれたグラスを見つめている。

「山際さん、今日は商工会の三十五周年じゃなかったですか?」

「うん、さっきパーティが終ったとこ。なんだか疲れてね」スナックの仄暗いライトが憂に沈んだ横顔をさらに暗く沈めている

 やすしさんは、ほとんどべろべろに酔ってるから、そんな山際さんの様子には気がついてない。

「おお、商工会長、カラオケやりましょ。カラオケ」

 どうやらミエママは、どんよりしている山際さんを持て余していたようで、すかさずデンモクの画面を叩きつけるようにして加山雄三の「光進丸」をいれる 前奏が始まると山際さんは条件反射でマイクを握って歌いだす。

 山際さんの「光進丸」は、自信の持ち歌らしい。この人は、いまだに若大将に憧れているのだ。なにかというとこれを歌っている。曲が終るといつもならお前らも歌えってうるさく言ってくるのに、なぜかそのまま黙ってしまった。

ミエママはなんとか空気を換えようと、自分で「さざんかの宿」を熱唱したけど、それは逆効果でしかなかった。一層変な空気がカウンターの上に流れて、僕はなんのあてもなくデンモクの画面をスクロールしている。やすしさんは僕に肩を寄せてくると小声で囁く。

「おい、商工会長、なんかおかしくないか?」

「だよね。なんかあったのかな」

                 つづく

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