交差する誓い

「……おかしいな。計算が合わねえ」


地下室を改造した秘密基地のような作業場には、複数のモニターが放つ青白い光と、電子機器特有の熱を帯びた匂いが充満していた。そこへさらに、食べかけのジャンクフードのスパイシーな香りが混ざり合い、独特の閉塞感を生み出している。


その「聖域」の中央で、一人の男がモニターに噛み付かんばかりの姿勢でキーボードを叩いていた。彼こそが、リリィの頼れる協力者であり、裏社会に通じる情報屋兼ハッカー、カイトだ。


「この人が、リリィの知り合いの情報屋さん?」

ノエルは、想像していた「影のある怪しい人物」とは少し違う、パーカー姿の青年を不思議そうに見つめた。


「ええ。コンピューターの専門家よ。インターネットという広大な海から、幻の食材や珍しいハーブの情報を釣り上げてくれるの」

リリィは慣れた様子で、床に散らばるケーブルや雑誌を跨いで歩く。

「彼のおかげで、普通じゃ手に入らないルートを見つけたことも一度や二度じゃないわ」


「へぇ……。でもなんだか、すごく忙しそうだね」


「そうね。集中モードに入ると、周りが全く見えなくなるのよ」


リリィがカイトの背後に近づき、その肩越しに画面を覗き込んだ。画面には、素人目には呪文にしか見えない文字列が高速で流れている。

「ねえカイト、どうかしたの? 随分と難しそうな顔をして」


カイトは回転椅子の上で胡座をかきながら、苛立った様子で貧乏ゆすりを繰り返していたが、リリィの声に弾かれたように振り返った。


「うぉ!? リリィかよ! ビビらせんな!」

カイトは心臓を押さえながら、恨めしげにリリィを睨んだ。「どっから入ったんだよ」


「ちゃんと玄関からよ。何度もインターホンを鳴らしたのに出ないから、入らせてもらったわ。夢中になると何も見えなくなる癖、直ってないわね」

リリィは呆れたように腰に手を当てる。


「うるせえな……。で、なんだよ急に。俺はいま忙しいんだ。最近話題の『黒き聖夜の審判』ってやつを調べててな」

カイトは再びモニターに向き直ろうとして、ふとリリィの背後に立つ「異物」に気づき、動きを止めた。


「……あ?」


カイトの視線が、赤い服を着た少年と、その横に佇む巨大な獣を行ったり来たりする。

「……おいリリィ。そいつらは? 俺の隠れ家に他人を入れるなって言ったよな? しかも、なんだその……コスプレみたいな格好のガキと、デカい……トナカイ?」


「もう、失礼ねカイトさん」

リリィがたしなめるように言う。

「この子はノエル、こっちは相棒のルドルフ。森で遭難しかけていたところを助けたの。事情があって、私たちも今話題の『黒き聖夜の審判』を探しているのよ。あなたもちょうど調べていたんでしょう? 天才ハッカー『K』ともあろう人が、随分と苦戦しているみたいじゃない」


リリィの挑発的な言葉に、カイトはムッとして眉間の皺を深くした。プライドを刺激された彼は、鼻を鳴らして椅子を回転させ、ノエルたちに正対した。


「苦戦? バカ言え。相手のやり口が物理法則を無視してるだけだ」


カイトがエンターキーを叩くと、壁一面のモニターにSNSのタイムラインや動画サイトの画面が一斉に表示された。世界最大のSNS『Nexus(ネクサス)』、動画共有プラットフォーム『VidFlow(ビッドフロー)』、匿名掲示板『The Hub(ザ・ハブ)』、そして若者に人気のショート動画アプリ『SnapVibe(スナップバイブ)──世界中のプラットフォームで、イリスの「暴露」が話題を席巻している。


「今映しているのが『黒き聖夜の審判』がネットにばら撒いている暴露情報だ。通常、身元を隠すならTorやI2Pといった匿名化ツールを使うのが定石だ。タマネギの皮みたいに暗号化を何重にも重ねて、発信元を偽装する」


カイトは画面上の複雑なネットワーク経路図を指差した。無数の線が絡み合っているが、ある一点で、その赤い線はプツリと、まるで鎌で断ち切られたように途絶えている。


「だが、こいつの通信ログは『生』なんだよ。暗号化も偽装もされていない、ただのパケットだ。だから逆に辿ってみた。プロバイダの相互接続点(IX)を通って、アメリア大陸のバックボーン回線に入って……そこで、消える」


「消える?」

ノエルが首を傾げる。


「ああ。ルーターが接続先を見失うとか、ファイアウォールに弾かれるとかじゃない。回線の途中で、データが文字通り霧散してるんだ。次の経由地が存在しないのに、データだけが送られてきている。論理的にありえねぇ」


カイトは金髪の頭をガシガシとかきむしり、焦燥感を露わにした。

「ロジックで追えないなら、フィジカルで追うしかねえ。やり方を変えたんだ。世界中に仕込んでいる踏み台サーバー数百台から、ターゲットのIPに向けて一斉にパケットを投げた。それぞれの地点からの応答時間……レイテンシの差分を計算すれば、光の速度から逆算して、サーバーの物理的な位置を絞り込める。一種の三角測量だ」


「レイ……テンシ?」

聞き慣れない言葉に、ノエルが首を傾げる。


「返事が返ってくるまでの時間差のことさ。遠くの友達に手紙を出せば、返事が来るまで時間がかかるだろ? その時間のズレを使って、相手との距離を測るんだ」


カイトが再びキーボードを叩くと、画面上の無数の線がアメリア大陸内陸部のある一点に収束していった。

モニターに弾き出された座標を見て、カイトの喉がゴクリと鳴った。


「特定した座標はここだ。アメリア内陸部、ウェスタン・デザートのド真ん中」


「これって……都市がある場所?」

リリィが地図を食い入るように見る。


「いや」

カイトは首を振り、別のウィンドウで衛星写真を表示した。そこには、赤茶けた大地と岩肌が広がるばかりの、死の世界が映し出されていた。

「GOGアースの最新画像と照合しても、半径100キロ以内に建物ひとつねぇ。電力グリッドからも外れてるし、海底ケーブルの陸揚げ局からも遠すぎる。あるのはただの岩とサボテンだけだ」


「えっ? じゃあ、どうやってインターネットに繋いでるの?」

リリィが眉をひそめる。「電波塔もないなら、物理的に不可能じゃない?」


「それが問題なんだよ。スペースリンクのような衛星通信ならアップリンクの遅延がもっと大きくなるはずだし、地下にデータセンターがあるなら排熱が赤外線サーモに映るはずだ。だが、何もない」


カイトの声に、エンジニアとしての本能的な恐怖と、未知への興奮が入り混じる。

「レイヤー1、物理層が存在しないのに、通信だけが成立している……。『ゴースト・サーバー』とでも言うべきか」


カイトの目つきが変わった。焦燥感の中に、獲物を追い詰める狩人のような鋭い光が宿る。彼は乾いた唇を舐め、再びキーボードに手を伸ばした。


「物理的に存在しない場所からデータが来ているなら、答えは一つだ。『インターネットの地図』そのものが嘘をつかされている」


「地図が……嘘?」 リリィが問う。


「ああ。BGP……ボーダー・ゲートウェイ・プロトコルだ。世界中のルーターが『ここを通れば目的地に着く』と教え合う仕組みだが、こいつを悪用した『経路ハイジャック』の可能性がある。誰かが偽の経路情報を全世界にばら撒いて、砂漠の真ん中を発生源だと誤認させているんだ」


カイトの指がキーボードを叩く速度を上げる。 「並の偽装じゃねえぞ。IX(インターネット・エクスチェンジ)のログごと書き換えてやがるのか? 論理的な矛盾がねえように、世界規模で経路を騙すなんて芸当、国家レベルのサイバー部隊でも不可能だ。……だが、俺ならその『偽の地図』のほころびを見つけられるはずだ」


「……もう少し深く潜る。ルーティングテーブルの『アップデートメッセージ』を洗って、偽装パケットが注入された瞬間を……」


カイトがエンターキーに指をかけた、その時だった。


ズレレレ……ッ!


耳障りなノイズと共に、部屋中のモニターが一斉に明滅し始めた。スピーカーからは、ガラスを爪で引っ掻くような不快な音が漏れる。


「なっ……! 逆探知された!? いや、違う、これは……!」


通常のハッキングによるブルースクリーンではない。画面全体が雪原のように白く発光し、そこにノイズ混じりの文字列が、まるでインクが滲むように浮かび上がる。

カイトがこちらを覗いていることに気づいた「何か」が、画面の向こうからこちらを覗き返してきたかのように。


『ノエル、私の選んだ道を、見ていてね』


「イリス……!」

ノエルが思わず叫び、画面に駆け寄る。モニターの冷たい光が、彼の蒼白な顔を照らし出す。


「クソッ、VRAMへの直接書き込みか!? ファイアウォールのアラートも無しにかよ!」

カイトは即座にサブマシンのコンソールを叩き、この「割り込み」のパケットキャプチャを確認した。そして、息を呑んだ。


「……嘘だろ」


「どうしたの、カイトさん」


「このパケット……TTLが減ってねえ」


カイトの指が微かに震えていた。

「TTL(Time To Live)ってのはパケットの寿命だ。ルーターを経由するたびに数字が減っていく。アメリアの砂漠の彼方から送られてきたなら、ここに着くまでに相当減っているはずなんだ。だが、こいつの値は『255』。つまり……」


「つまり?」


「ルーターを一台も経由していない。『発生した瞬間』に『このPCの中にいた』ってことだ」


カイトは脱力したように椅子に背を預け、天井を仰いだ。

「砂漠の幻影に、ルーティング無視のパケット転送……。これが『魔法』の力か……。オレの知ってる技術じゃねえ。これじゃあ、ログを追跡するなんてレベルじゃねえぞ」


科学と論理の完全な敗北。

部屋に、重く、冷たい静寂が満ちた。モニターに浮かぶ文字だけが、静かに脈打っている。


『見ていてね』


その短い言葉が、ノエルの胸を鋭く刺した。

それは「助けて」でも「一緒に来て」でもない。

「私はもう決めた。だから、あなたはそこで見ているだけでいい」という、優しくも残酷な決別の言葉だった。


彼女は知っているのだ。ノエルが探していることも、心配していることも。

その上で、彼女はもう自分たちは違う道を歩んでいるのだと告げたのだ。


「……見ているだけなんて、できないよ」


沈黙を破ったのは、震える、しかし芯のある少年の声だった。

ノエルはモニターに浮かぶ文字を、強く見つめ返した。


(爆破事件……あれをイリスがしたなんて、まだ信じたくない。でも、もしそれが君の選んだ道だと言うなら……)


「世界のどこにいようと、どんな魔法を使おうと、必ず見つけ出す。もしイリスが間違った道を選んで、一人で傷ついているなら、それをただ安全な場所から『見ている』だけなんて……僕には絶対にできない!」

ノエルは拳を強く握りしめた。


デジタル時計の数字が変わり、新たな時を刻み始めていた。それは、彼らの本当の旅の始まりを告げているようだった。


──


その頃。

サンタクロース協会にも似た静寂だが、どこまでも冷たく、漆黒の闇が満ちた部屋。

イリスは「世界を見渡す目」と呼ばれる水晶玉に向かい合っていた。


球面に映る無数の光は、街の灯りではない。世界中の子どもたちの涙だった。

瓦礫の下で震える幼子、凍えた路上で眠る少女、戦火に怯える子供たち──。その一つ一つの輝きが、イリスの心を締め付ける。


「もう、誰も泣かせない」


イリスの掌から、どろりとした黒い光が零れ落ちる。

禁書から紡ぎだした「負の魔法」。本来なら罪人の魂を告解へ導くはずの神聖な魔力を、彼女は強制的にねじ曲げ、世界を暴く鍵へと変えた。


水晶玉の表面が波打つように揺れる。

そこに映し出されるのは、戦争を操る者たちの素顔。利権に群がる政治家、兵器を売り込む商人、民を扇動する指導者──。彼らの隠された欲望と罪が、イリスの魔法によって強制的に引きずり出され、白日の下に晒されていく。


「これが、私の選んだ答え」


震える指先で、イリスは魔法を紡ぎ続ける。

指先が焼けるように熱い。心臓が早鐘を打つ。禁忌の力を行使する代償が、彼女の体を蝕んでいく。

かつて協会で過ごした穏やかな日々、暖炉の温もり、クッキーの香り……それらが遠い夢のように思え、胸の奥で軋むように痛んだ。


(ノエル……)


親友の笑顔が脳裏を過る。

『見ていてね』と送ったメッセージ。あれは、彼への精一杯の優しさであり、同時に自分自身への戒めだった。

もう、あの温かい場所には戻れない。戻る資格はない。


水晶玉に映る光は、やがて世界中のネットワークを飲み込んでいく。

スクリーンは暗転し、人々の携帯電話は一斉に鳴動を始めた。そこに浮かび上がったのは、ただ一つのメッセージ。


『私は、真実を告げる者』


イリスは静かに目を閉じる。

これから始まる混乱も、向けられる憎悪も、全て覚悟の上だった。

ただ、彼女の瞳の奥に映るのは、遠い日の約束の言葉。


──ねぇイリス、僕たちはきっと、世界中の子供たちを笑顔にできるよね?


「そうね。ノエル……私は、私なりのやり方で、その約束を守るわ」


月明かりに照らされた水晶玉が、静かに、そして禍々しく輝きを増していく。

それは、世界という巨大な闇にたった一人で立ち向かう少女の、儚くも強烈な、覚悟の光だった。

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