14
「ホテルの一室に、男女の変死体があったの」
「なんだ腹上死か」
「そんな優しい死に際じゃなかった」
ミックスベリーの風味が鼻をつく。好きな香りではあるし、好きな飲料でもある。けれど甘ったるくて、自分で望んだのに救いようのない甘ったるさは、変死体が身につけていた香水の香りによく似ていた。
いやいや、変死体になったからこそのにおいかもしれない。死をまとった人間のにおい。血のにおい。女のにおい。――ああ、そう。女の血のにおいだった。
「経血のにおいが充満した部屋だったの」
血と羊水が混じった、強烈な女のにおい。悪臭ではない。それは新たな人の命を作り出せる臓器が行う生理現象で、けれどそのくせ人の死を彷彿とさせる血をだらだらと流す。
だらだら、流れていたのはよだれだったのかもしれない。獲物を前にした女が、下半身にある口をぽっかり開いて、獲物の侵入をたやすく受け入れ、飲み込むための唾液。そこは口じゃないから、それは唾液ではなくて、膣分泌液と呼ぶべきだが。仰向けになって死んでいた女性の最大の特徴は、そこに集約されていた。自らの死が信じられないと、目を見開き、舌を突き出した驚愕の表情なんて、取るに足らない。
ましてや、彼女の陰部に陰茎を挿入していただろう男性なんて、もってのほか。
「挿入していただろうって、それはどういう意味で?」
「たぶん、そういうことをしていたんだろうっていう……想像。二人とも裸だったし、繁華街のラブホテルだったし、使用済みのコンドームだってあったし」
女の携帯端末には、セックスを商売としていた連絡先があった。だから、その夜もまた仕事をしていたんだろうって、威月が変死体に嫌みったらしく漏らしていた。文句を返してこないと分かっている相手に悪口を言うもんじゃないと、与識先生にたしなめられてからは静かになった。父親に頭の上がらない男はけっこういる。
「なんで想像なのかって言ったら、うん……まあ、想像じゃないんだけど……」
言葉を止めて、私はカップに残っていたティーを飲み干した。蜜緒はそれをきちんと見ていておかわりを注いでくれるし、優しい優しい長男様は円花さんのように、私の背中に手をあててくれた。あたたかみはないけれど、不思議と感じられるぬくもりがある。
だから悪いけれど、話は続けさせてもらう。食事時の話題じゃないことは重々承知で、つがるもまだ卵以外のお寿司に手を出していないけれど、緑茶をすすりながら続きをどうぞと促してくれた。
「陰茎がね、女性器に入ったまま根本から切断されていたの」
「思いのほか耳にしたくない話だったな」
心人さんの一声に、つがるもお手本のような同意の文字を見せてくれた。心なしか、二人とも内股になって一瞬で五キロくらいやつれた顔をしている。
「切断ってなんだ。切ったのか。女が? 女が切って男を殺したのか? いたな、昔にそんな女が。けれど女も死んだんだったな。となると心中か?」
怖い怖いとつがるがお寿司に手を伸ばして、恐怖なんて胃酸で溶かしてやろうとばくばく食べ始めた。怖いわりに元気だ。
「愛理、つがるの言うとおりだよ。女が男の陰茎を切って殺して、自分も死んだ。それなら心中ってことでカタはつくし、愛理や珠貴が気持ち悪くなるほどの変死体じゃないだろう。それにそんな話なら、俺たちにする必要はないよね」
「うん、まだ続く」
続くのか! つがるは端末に書くと、蜜緒におかわりを要求した。ローストビーフ巻き漬け卵黄の贅沢お寿司が板の上に六つも並べられる。それを右端からばくばくと食べるつがるは元気だ。
「男の性器は根本から切断って言ったけど、でも切断はちょっと語弊があったかもしれない。切れていたっていうよりは、ちぎれていたって感じで」より正確性を求めるのならそれは。「食いちぎられたっていうの?」
「食われたって、何に」
「死んだ女の性器」
ベッド上にあった、男女の遺体。話だけを聞けば、ああ心中か。ああ腹上死か。それで終わる。
でもそうじゃない。あの死んだ男女は、そうじゃない。
「女の方の性器は陰茎を食いちぎったあと、体から引きずり出された形だったのよ」
その光景はまるで、何か巨大な力に、お前たちにこれは必要ないだろうと笑われて、おもちゃの部品を取ってしまったような単純な暴力の跡形だった。
「……ああ、ようやく分かったよ」
私が、変死体の報告のためにつがるに話があると言った理由。それを先に理解したのは心人さんだった。
「その二人の体には痣があったの」
小指ほどのサイズの赤黒い痣が無数に、二人の体に散らばっていた。死体を見慣れている警察関係者でさえ、これは死斑ではないと即座に判断できる。しかし、痣にしてはあまりにも鮮明で、なぜか痛々しさは感じられない。思うところは、まがまがしさ。
「呪詛返し、母親だけじゃなくて父親にも効いたのね」
「当然だ」
ローストビーフを咀嚼しながら、つがるは書いた。
果たして女が、どうしてわが子をそこまで憎まなければならなかったのか。セックスを売りにしていた女だから、中絶という道もあっただろう。それをしなかったのか、できなかったのか。理由は定かではない。ただ、彼女は腹の子どもを恨んでいた。
つがるいわく、具体的な祭礼を行わないで呪いと化したそれは妖術と呼ぶ。そして女の妖術は、生まれてきた子どもの命をむしばむ呪いとして発露した。ロッカーに入れられた子どもはそのまま死ぬはずだった。拾う神がいなければ、母親の愛情に抱かれなければ今頃、無縁仏として寺社の隅っこに葬られておしまい。
「母親は子に死ねと呪いをかけた。子は体に死ねと呪いを受けていた。その死ねという呪いを、オレは親に返したまでだ。母親と限定した覚えはない」
だから、二人死んだ。母親と父親。セックスを売りにしている女とセックスを買う男。その男女がもう一度出会った過日、呪詛返しが発動した。出会ったから発動したのか、出会わなければどうなっていたのか、今となっては知れない。
「親になるってのはやっかいなもんだ」
「ああ、子どもの責任をすべて負わなきゃならない」
二男と長男は天を仰ぐ。その視線は店の天井を突っ切って夜空を駆けて、そして最上医院に向かって落ちていくのだろう。白衣の父親は今きっと、くしゃみを二回繰り返し、そしてその原因である二人の息子に対して悪態をついているに違いない。父親の勘で、どの息子がもたらしたくしゃみか、あの人は必ず当てる。
「だとしたら与識先生は、いい息子と娘に囲まれて幸せね」
私のこの言葉もたぶん、先生のくしゃみの種になっているだろう。息子三人と娘一人、看護師一人と受付嬢一人の笑いの種になっている先生は今、さてどうしているのだろうか。
「蜜緒、カラオケの用意をしろ。今日はオレの美声をとどろかせる」
上機嫌のつがるに、弟である蜜緒ははいはいと付き合ってくれる。つがるはカラオケでいかに気持ちよく歌うか、そのために普段から声帯を極力使わないよう心がけている。本業である呪文を唱えるためになるべく声を出さない、という建前付きで。
「あの親子には幸せになってもらわないと、オレの仕事の割にあわないからな」
死んだ子どもと生き抜く子ども、その二人の子どもを愛する両親。彼らに捧げる曲を、つがるが歌い出す。
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