豆の教室 11
朝、目覚めた瞬間から頭の中が霞がかったように鮮明さを欠いていた。布団から上体を起こしたまま、肌掛けの上に置いた自分の手を、しばらく動かすこともなく見つめている。
足に力が入らず、重だるい体を引きずるようにして洗面台へ向かった。冷たい水で顔を何度も洗い、皮膚の奥にまで冷気が届くように念入りにこすった。水を止めて鏡へ上げた自分の顔は、頬の輪郭が先週より痩せているように見えた。
朝食は白湯と無糖ヨーグルトだけを胃に流し込んだ。満たされる感覚はどこにもなく、ただ空腹ではないという状態を作るためだけの行為のよう。
馴染んだ手つきで昼食のチキンサラダを作る。レタスの水気を丁寧に切り、鶏むね肉をほぐす。塩分は控えめ。ドレッシングは使わない。
今朝チェックした檀君の「今日のメニュー」メールを思い出しながら、夕食と合計しておよそ何キロカロリーになるのか、もう檀君の計算に頼らずとも自分で計算できるようになっていた。
ダイエットを始めてから、朝早い時間に家を出ている。朝のホームルーム前に檀君と落ち合って、ランニングをするためだ。
檀君は、約束の時間よりもずっと早く待ち合わせ場所に来る人だった。ここ最近の付き合いでそれが分かったので、私も彼を待たせないよう待ち合わせ時間より30分早く学校に着くようにしたのだが、それでも檀君はすでにジャージ姿で私を待っていた。
「今日も早いね」
いつも自分より遅く来る私を責める影もなく、逆に気持ちのいい笑顔で驚いてみせる彼に、私も笑って頷き返す。
責任感の強い彼との毎日のやり取り一つ一つが、頑張らなきゃという私の意思を日々強くしていた。
ランニングには学校の外周を使っている。運動は不得意だけれど、長距離走だけなら比較的速いほうだった。
しかし最近は走り始めたばかりの頃にもう疲れを感じ始め、記憶の通りに足が動いてくれない。地面を蹴る感覚が鈍く、呼吸が荒くなっていく。
その遅さときたら、併走する檀君に「もっと早く。もっと早く」とせっつかれるほどだった。
汗が首筋を伝ってTシャツの襟もとに染み込む。息を吸うたびに胸が軋むように痛み、足の裏がじんじんと痺れた。視界の端がぼやけていく。
「あと半周。頑張ろう」
檀君の声が真横から届く。その声に答えようとする気持ちはあるのに、実際に声に出す余裕はなかった。黙って頷く。それだけで精一杯だった。
走り終えた後も私はすぐに話せない状態で、しばらく立ち止まったまま呼吸を整える。完走の達成感よりも、ふらりと体が横になってしまいそうな眩暈が強く、檀君が差し出してくれた水すらなかなか飲めない。
湯気が出ているんじゃないかというぐらい熱くなっている顔をぐったりと上げ、渇いた口のまま言った。
「あの。やっぱり、次から走るのは学校じゃなくてもいいかな。ちょっと、学校の人に見られるのが恥ずかしくて」
外周を走っている間、登校してくる人たちの視線が何度も突き刺さった。物珍しげな視線をいくつも集めていた。
中には「豆ちゃん可愛いよ」なんてからかってきた見知らぬ男子グループもいて、顔から火が出るほど恥ずかしい思いをした。
走る足が、周りの視線にさらされていると思うだけでどんどん気おくれしたのだ。
「うーん。気持ちは分かるけど。豆ちゃんみたいな人こそ、努力してる姿を見せた方が効果的だと思う。ベタかもしれないけど、ああいう子も頑張ってるんだなって思うと、人って応援したくなるものだから」
「……それは、そうかもしれないけど」
「僕は豆ちゃんを全力で引き上げてあげたいんだよ」
まっすぐ、強く伝える声音で言う。その声音に矛盾はないほど眼差しも真剣で、彼のひたむきさに私は弱音を封じ込めた。
午前中の授業はほとんど頭に入らなかった。黒板の文字が遠く感じられ、先生の話が耳の手前で空転している。
四限の授業中、問題を黒板で解くよう指名された。
私は席を立ち、黒板へ向かう。長い解答を書き終え、席へ戻ろうと踵を返したところで、視界がぐにゃりと歪んだ。急に床が近づいてくる。否。私が近づいているのだと認識する前に、とっさに両手を出していた。
びたん、というのか、ごとん、というのか、とにかくそういう音が骨に響き、頬も脛も冷たい床にくっついている。
クラスの人達がざわついている。机や椅子の動く音が耳元でした。先生が真っ先に駆け寄ってくる。声をかけてくれているが、起き上がるための力が入らない。体が自分の物じゃないみたいだった。
酷い脱力感だ。感覚が鈍り、唇がかさついている。空洞のまま軋んでいる胃の気持ち悪さに顔を歪めながら、私は必死のSOSを呟いた。
「おにぎり食べたい」
その言葉に、周囲が一瞬だけ静かになった。
「え?」と誰かが小さく漏らす。だけど私にはそれ以上何も言えなかった。
ただ、おにぎりの塩気とふっくらとした温かい食感が、舌の上で幻のように広がっていた。
「これからは、ダイエットはほどほどにせにゃいかんよ。特に、成長期なんだから」
先生によって保健室に運び込まれ、私はベッドに沈んだ。不甲斐なく瞬きする視界に、天井の模様がぼんやりと浮かんでいる。
養護教諭の
「今、先生の食べかけしか無いんだよ。売店で買ってきてあげるから」
その言葉に、私は目を閉じそうになりながら、ほんの少し頷いた。至急用意してもらえたスポーツドリンクで潤った喉が、先生おにぎりがいいです、というセリフを辛うじて飲み込む。
海苔を張りつけた三角形の米の塊。それが頭の奥であまりに神々しく輝いているのをながむ私に、乙女先生がもう一度言葉を投げてきた。
「瀬戸君がお見舞いに来てくれたよ」
私は飛び起きた。なぎ倒すようにカーテンを開けると、今まさにこちらへ向かってきている瀬戸君とばっちり目が合う。形の良い猫目が、そのままきょとんとした顔の猫ちゃんを彷彿とさせた。
「立たなくていいよ。大丈夫?」
「あ。大丈夫……」
丸椅子を引っ張り、瀬戸君がベッドのそばに腰掛ける。かさりと彼の膝に触れたレジ袋がわずかな音を立てた。
扇風機の回る音に、私の焦った声音が重なる。
「ごめん、わざわざ来てもらってあれなんだけど、本当に大したことなくて。ごめんなさい」
申し訳なさに声が揺れる。座ったばかりの瀬戸君は私に目を上げ、月が浮かぶように笑んだ。
「それ知れただけでも来た甲斐あった。んでさ、今モノ食える?」
「……うん?」
「持ってきたの。これ」
彼がレジ袋を両手で開いてみせる。その中にはどっさりと、おにぎりやパンが集まっていた。
「えっ。え。ほんとに?」
「先生も食えってさ。何でもいいよ。食いな」
「えー……うわ、本当にありがとう」
「先生も食お。何がいい?」
「チャーハンがいいなぁ」
ツナマヨおにぎりと卵サンドを選び取った私のそばに乙女先生も座り、瀬戸君から貰ったチャーハンおにぎりの袋を早速開ける。
瀬戸君はドロリッチを取り出すと、ひとまず袋を近くのテーブルの上に置いた。
一方、私はツナマヨおにぎりの包装をゆっくり剥がした。馴染みのある海苔の香りが鼻に触れ、指先には米の柔らかさが伝わってくる。一口かじると冷たいツナマヨが顔を出し、塩気がじわりと広がった。
おにぎりを噛みしめるたびに、頬の内側が潤いを取り戻していくようだった。断食していたわけではないのに、久しぶりに食べ物を味わっている気さえする。「美味いなあ」と乙女先生がこぼした言葉に、私は一分の否定もなく頷いていた。
「人の体ってのは美味いもんで出来とるのが一番だよ。空っぽはいかん」
老齢を感じさせつつも、どしりと構えた先生の声音が、扇風機の風に押し出されるようにして私の胸に染み込む。
「空っぽはいかんですね」。ぽそりと返した私の相槌は、ただの頷きではなく、体の奥から滲み出た実感だった。
乙女先生は、チャーハンおにぎりの最後のひとくちを口に運ぶと、膝についた手の平で体を押し上げるようにしながら立ち上がった。
「ちょっと栄養吸ってくるから」
白衣のポケットからハイライトをのぞかせ、「東京ブギウギ」を鼻歌で歌いながら保健室を出て行く。
校内に喫煙場所は無いはずだけれど、愛煙家の先生たちが結託して隠し通している秘密基地でもあるのだろう。しゃがれ声のブギウギは、あっという間に遠くなっていった。
「ダイエットってさ、QSのため?」
私と檀君の今朝のランニングも、VIPですでに報道されている。冷笑が集まるコメント欄まで瀬戸君が目を通したのかは定かでないが、少なくとも今私を見据える彼の目に嘲笑の色は全くなかった。
「あ。うん。……みんな綺麗だし。せめて少しでも恥ずかしくないようにしないとって、張り切りすぎちゃって」
「そっか」
やはり彼はくすりとも私を笑わなかった。それどころか、私の言葉の端にある照れや焦りを、まるごと受け止めるような面差しですらある。
扇風機が首を動かしながら回り続けている。レジ袋の擦れる音が、風に押されてかすかに鳴った。
「俺が言ってもあんま意味ないかもしれないけど。別にそのままでも、俺だったら
保健室の窓の向こうに、正午を過ぎた夏空が広がっている。雲は薄く、陽射しは弓のように鋭く、そしてどこまでも突き抜けるような青さだった。見上げるほどに胸を貫くその青が、彼の瞳に映り込んでいる。
瀬戸君は不意に後ろへ振り返り、テーブルに置いていたレジ袋に手を伸ばした。その手は無造作に袋の奥へ突っ込まれ、ヤマザキのナイススティックを取り出す。ばりっと袋を裂く音が、保健室の静謐を一瞬だけ断ち切った。
「もう少し怒ったら?」
「え?」
「シカトしてるだろ。自分の中で思ってること全部。けどそれって自分を雑に扱わせてることになるって気づいてる?」
パンの先端を齧り取り、咀嚼もそこそこに、あっという間に飲み込む。
「踏むことに慣れさせると、踏む側はなんも思わなくなるぞ」
その語尾に重なるように、保健室の戸がノックされた。「失礼します」。礼儀正しく告げる声には覚えがある。予想の通り、開いた戸の向こうに現れたのは檀君の姿だった。
檀君と真っ先に目が合ったのは、ベッドに座る私ではなく、丸椅子に腰掛けて振り返っていた瀬戸君である。檀君は一瞬、動きを止める。そして瀬戸君を見る双眸に警戒の色を据えた。
それから私へ視線を移し、タオルケットを掛けた私の膝の上に、卵サンドが乗っているのを見咎めた。
「うそ。それ食べたの?」
「あ。ごめん。どうしてもお腹が減っちゃって」
「いやいや、信じられないんだけど。何で食べるの? せっかくここまでやってきたんじゃん」
「俺が食わせたんだよ。腹減って倒れたなら、もうちょい食った方がいいって」
詰問される私を瀬戸君が庇ってくれたが、檀君の面差しに怒りが引いた気色はない。それでも勢いのまま放り出しかけた言葉を喉の奥へ飲み込んだのが分かった。
私へ向けて、廊下へ顎をしゃくる。
「向こうで話そう」
「俺が出てくよ」
瀬戸君が腰を上げた拍子に、丸椅子が音を立てる。彼に気を遣わせてしまっているのは明らかで、申し訳なく見上げる私に気づき、彼はお大事にと一言残して出て行った。
「何で瀬戸総悟がいるの? 豆ちゃんのエスコートって俺だよね?」
檀君の声は、抑えたつもりの語気が、かえって圧を帯びていた。
──「瀬戸総悟」。わざわざフルネームで呼んだ言い草に、日頃から彼が瀬戸君に向けていた嫌悪を垣間見た気がした。
「瀬戸君は、ただ心配して来てくれただけだよ」
「はっきり言うけど、あんなのとは付き合わない方がいいよ。豆ちゃんの評価が落ちるよ」
「……何で? そんなことないよ」
「あのさぁ。あいつがどういう奴かくらい知ってるよね。豆ちゃんにだって面白半分で近づいてるだけだから。そのうち手出されて、その後は使い捨てみたいに捨てられるだけだよ。そんなことぐらい自分でも分かってるでしょ。ああいう下品な人種と関わってたら、豆ちゃんもそういう類だって思われるよ。QSでそういうイメージは絶対良くないから」
「心配しすぎだと思う。瀬戸君はそんなこと考えてないよ」
「だーかーらぁ」
言葉を交わすたびに、すれ違いは解消されるどころか、保健室の空気がじわじわと重く沈んでいく。
打ち捨てられた彼の声音は、語尾にかけて震えていた。その震えにはイラ立ちが滲み、鋭い棘を私たちの間に残した。
「何で? ちょっと考えれば分かることじゃん。瀬戸みたいなのが何の腹づもりも無しに豆ちゃんみたいな子に関わってくるわけないよ。普通は無視だから。ヤれそうって思われたんだよ。誤解してるかもしれないけど、俺、豆ちゃんのために言ってるんだからね。夢ばっかり見てもヤり捨てされるだけだから」
扇風機の風に押しやられ、隅に固められた間仕切りカーテンが静かに膨らみ、また萎む。窓の外を、ヘリコプターのごうごうと唸る音が通り過ぎていく中、私は膝の上のサンドイッチに目を落としていた。
「本当に、豆ちゃんのために言ってるんだよ。分かるよね」
檀君の声が和らぐ。心からの親しみを込めた口調で、私のそばまで歩を寄せる。
「ああいう顔だけの奴に騙されちゃダメだよ」
ヘリコプターは遠くなり、私たちの会話の隙間に静けさが戻ってくる。私は深く、一つ息をつき、サンドイッチを両手に包んだ。
「そんなことないよ」
「はあ〜?」
業を煮やした反応に、耳を塞ぎたくなった。人から向けられる批判や怒りは心を弱らせる。
彼のことも見れないまま唇を一文字に結ぶ私に、やがて彼が痺れを切らした。
「もういい。そこまで馬鹿だと思わなかった。俺降りるから」
「え? いや。降りるって困る」
「だって俺の言うこと聞けないなら仕方ないじゃん。こっちは真剣だったのに。大損だよ」
舌打ちにも似た息を吐き、保健室の扉へ向かって歩き出した。足音は速く、床板を荒々しく鳴らしていく。一度も振り返らない背中は、私を完全に見限っていた。乱暴に開けられた戸が、廊下に出た彼の背をばたんと大きな音を伴って遮る。
予鈴が鳴った。機械的に始まった電子音が、保健室の壁を反射していく。その音は何の感情も持たないまま、ただ時間の区切りを告げていた。
その日の道徳の授業は、楓華ちゃんにとって最悪だった。
ディベート形式のグループワークを行うという。まず男女別の三人で自由に組み、その後くじ引きで男女混合になるよう二組を合流させる仕組みだった。
当然のように、楓華ちゃんは清重と寺脇と組んだ。ここに男子のグループが合流するのだが、小橋川のいるグループとだけは組みたくない。同じ班になった場合どんな反応をされるかなんて、わざわざ超能力者に予言してもらわなくても、確信を持って分かるからだ。
それなのに清重が引いたくじは最悪の結果を告げた。すなわち小橋川のグループとの合流である。
「うわ、やったー。学校で一番可愛い三人じゃん」
四班と書かれた紙切れを手に自分たちの所に来た楓華ちゃんたちに、椅子にふんぞり返って脚を組んだ小橋川が、嫌味な笑みでそう言った。
残りの男子二人もにやにやと笑い、小橋川の肩を叩いたりして調子を合わせている。そろいもそろって不愉快な連中だ。
「アンタ達のそういうのってマジでウザい」
楓華ちゃんは言い捨てて、近くの椅子に乱暴に腰を下ろした。椅子の脚が床を鳴らす。
それを「怖ぁ」と嘲笑し、小橋川たちはまだ面白がっていた。
「梅尻さん。ごめんね」
その言葉を清重から聞いたのは、授業後、あまりの腹立たしさに教室を飛び出し、水道で意味もなく長く手を洗っていた時だ。清重はわざわざ楓華ちゃんを追ってきたらしい。
「……何? 何で謝るの?」
振り返り、蛇口を止めながら問い返す。
清重は言葉通り申し訳なさそうに、体の前で手を組んでいた。うつむいたり、楓華ちゃんへ顔を戻したり。その煮え切らない態度が、かえってイラ立ちを募らせる。
蔑みたくなるほどに弱々しい。
私は本来、こんな地味な子たちといるような人間じゃない。ファッションにもメイクにも疎くて、現実の男より二次元の男の話ばかりするようなこんな子たちとは立っているステージが違う。それなのにたった一度の失敗で、今では彼女も「ジミーズ」呼ばわりだ。
「私たちと一緒にいるから、梅尻さんまで馬鹿にされて。梅尻さんも、私たちとじゃ話が合わないし、つまらないよね」
「何? 自虐して、それを否定してほしいの?」
「……え?」
睨みつける楓華ちゃんに、清重は慌てて「ごめん」とうつむいた。
だから、そんなだから地味と呼ばれ、馬鹿にされるのだ。喉まで出かかった言葉を、なんとか防ぐ。
「ごめん。梅尻さんは私たちと一緒にいたくているわけじゃないだろうけど。でも、私たちは梅尻さんといるのが嬉しくて。可愛いし、いつもキラキラしてて、羨ましかったから」
耳を疑った。清重はいきなり何を言い出しているのか。予想外の言葉への不信感。
その一方で罪悪感が芽を出す。楓華ちゃんが清重たちに向けていた軽蔑の目。それとは真逆の目で、清重は楓華ちゃんを見ていた。
「憧れてたっていうか。だから、梅尻さんと一緒に行動できるようになって、嬉しかったの」
なのに私たちのせいでごめんねと、清重はもう一度謝って先に教室に戻っていった。
嬉しかった──清重のその言葉に、楓華ちゃんは清重と寺脇が初めて自分に声をかけてきた時のことを思い返した。
自分たちのグループに入らないかと言う二人に頷くと、二人は顔を見合わせて、楓華ちゃんが想像していなかった明るい笑顔を浮かべた。あんな笑い方をする子たちだとは思っていなかった。
ダサい──それだけの印象しか持っていなかったから。
やがて全校集会の時間がやってきた。集会は体育館で行われる。行こうと誘ってきた清重たちを、まだノートを書いているから先に行くよう断った。
その様子を、教室を出ていく桃子が振り返りながら見ていた。よろしくね、と目で念を押すように。
「ねえ。出てくれないと鍵閉められないんだけど」
鍵当番の日直が、ノートを書き続ける楓華ちゃんに声をかけてくる。
「置いていってよ。私閉めとくから」
日直は、じゃあ置いとくからねと鍵を置いて体育館へ向かった。ほどなくして、教室には楓華ちゃん一人が残された。清重の作文を盗むには、これ以上ないほどの好機だ。
廊下からも誰の声も聞こえなくなったのを確認すると、楓華ちゃんは静かに席を立った。清重の机へ歩み寄り、中を確認する。予想通り、作文はクリアファイルに収められていた。
少しだけ興味を抱いて目を通すと、確かに良い作文だった。こういう物の良し悪しはあまり分からないが、へえ、そう来たかと思わせるネタの持ち出し方があったし、意見も変に聖人ぶってなくて好感が持てる。最後まで綺麗にまとまめられていて完成度も高い。
先生に何度も添削を頼んでいたみたいだし、どこまでが清重自身の力量なのかは分からない。けれど、ここまで作品を磨き上げた努力は伝わる。
その努力を今ここで踏みにじれば──桃子が入選するにしろ、しないにしろ、それは清重の努力への明白な裏切りだ。
ふと、天吹さんのバッグを地面に放り投げた日のことを思い出した。
天吹さんに憧れて青嶺に入学した──あの日、天吹さんに直接伝えた言葉は嘘ではない。青嶺に惹かれた理由は他にもあるが、楓華ちゃんが一番夢中になって、追いかけたのは、VIPに投稿される天吹さんに関する記事だった。
憧れていたと、清重に言われた。何かに憧れた時の心の振れ方を楓華ちゃんも知っている。そしてその憧れの対象とすれ違ってしまった時の、遣る瀬ない失望も。
放課後、帰り支度を済ませてから清掃場所に行こうとすると、廊下のすれ違いざまに桃子から手紙を手の中に押し込まれた。
手紙と言っても、便箋などではなく、ルーズリーフの端を切り取ったお粗末な物だ。同じくお粗末な字で「掃除終わったら多目的室のトイレ」と記されている。よっぽどあのトイレがお気に入りらしい。
「盗ったんでしょ? 早く渡して」
楓華ちゃんが清掃後にトイレを訪れると、中で先に待っていた桃子は真っ先にそう言ってきた。
「盗ってない」
「……。は?」
桃子の得意そうな笑みが一瞬にして剥がれる。ミュウミュウは逃したが、桃子のその様を見るのも悪くないと思った。
「ちょっと。嘘でしょ?」
「嘘だったら、清重はとっくに作文が無いことに気づいて大騒ぎしてるはずだよ」
桃子が目つきを変えた。暗に楓華ちゃんの未来を予言している。ただじゃおかないからね、という予言だ。
しかしその予言を受けながら、楓華ちゃんは大したことはないと肩をすくめた。
「ロッカーの後ろ2桁は35。桃子一人で取りに行けばいいよ」
桃子を置いて、トイレを出ていく。くだらない事に知恵も時間も費やしてしまった。ケーキでも買って帰ろうと下駄箱へ向かうと、後ろから清重と寺脇がそろって追ってきた。
「梅尻さん。お疲れ」
「そういえば梅尻さんってさ、瀬戸先輩と仲良いよね」
「え? 別に」上履きを脱いで、コンバースのハイカットスニーカーと入れ替える。
「でも高等部に親戚の人がいるんでしょ。その人よくVIPで先輩と一緒にいるし。昨日も梅尻さん、先輩と話してたじゃん」
「一回クラブで会ったことあるから挨拶に行っただけで、全然覚えられてもなかったよ。従姉も、別に先輩と仲が良いとかそういう関係じゃないと思う。連絡先も知らないって言ってたし」
「……あ。そうなんだ?」
「じゃあ瀬戸先輩と遊んだりもしないんだね」
清重と寺脇が、立て続けに言葉をかけてきた。楓華ちゃんはそれに顔を上げ、並んで立っている目の前の二人に、何か妙な空気を感じる。
「そうだけど、それが何なの?」
尋ねると、清重と寺脇は初めて楓華ちゃんに声をかけてきた時と同様に二人で顔を見合わせる。そして、あの時の笑顔などカケラもない面持ちで、楓華ちゃんを見た。
「梅尻さんって、私たちが思ってた人とは違うのかも」
「……は?」
「瀬戸先輩と仲が良いのかと思ってたから」
楓華ちゃんはゆっくりと、彼女たちの言っていることを理解した。妙な空気のことも。そして憮然とする。
「何それ。先輩に近づくために私を利用するつもりだったの? 最初から」
二人はまた顔を見合わせて、何故か気を遣うような笑顔を寄越してきた。
「梅尻さん、私たちといても、いつもつまらなそうにしてるし。無理してウチらに付き合わなくていいよ」
「うん。無理に仲間に入れてごめんね」
笑えるほど息の合ったコンボだ。
二人は一言ずつそう言い残して、靴を履き替え、またアニメか何かの話をしながら生徒玄関を出ようとする。
その背中を追って、清重の襟首を思いきり引っ張った。
清重は急に後ろに引っ張られたためバランスを崩して転倒。尻を強かに地面に打ちつけた。寺脇が心配してしゃがみ込む。清重は楓華ちゃんを睨み上げた。
「痛い。何するの⁉︎」
正直なところ、転ばせたからといって何もすっきりしなかった。ただ腹立たしい。まだ怒鳴り散らして、睨みつけてやりたい。それでもそれ以上に呆れ果てて、何の言葉も出てこなかった。
ただ二人を見下ろして立っているだけの楓華ちゃんを、居合わせた生徒がこそこそ話したり、密かに笑ったりしながら見ている。
そこへ通りかかった丹原先生が、色をなして近づいてきた。
「そこ。どうしたの?」
楓華ちゃんは顔を向けたが、話す気力も失せている。その間に、地べたに尻餅をついたままの清重が、丹原先生に困り顔を見せた。
「梅尻さんが急に引っ張ってきて。そのせいで転んだんです」
先生の楓華ちゃんを見る目が一層厳しくなった。
楓華ちゃんが問題を起こしたらしい。VIPで急に彼女の名前を目にし、私は酷く驚いた。どうも学校の子に手を上げたというのだ。
帰っている最中に侑子さんから連絡があった。これから中等部に向かって先生と話をするとのことだった。ほとんどいつもと変わらなかったが、わずかに困惑を拭い切れていない声に、私は頷くだけに徹した。
そうしてしばらく一人で家で過ごした後、玄関の開く音がした。リビングのドアが開かれ、侑子さんが姿を現す。一方で楓華ちゃんの姿は見えず、侑子さんの後ろで部屋の戸が閉まる音が鳴った。楓華ちゃんは自分の部屋にこもったのだ。
「悪かったね。ご飯食べた?」
「はい。温め直しますか?」
「いい、いい。自分でやるから。ありがとね」
「……あの。楓華ちゃんは」
「取りあえず注意だけで収まった。服を引っ張って転ばせただけで、殴ったり蹴ったりはしてないって」
ダイニングチェアに掛けた侑子さんに合わせて、私も向かいの席に腰を下ろす。
「楓華も相手の子も、ただの喧嘩でいじめじゃないって言ってたけど。でも実際どうなのか。あの子が加害者かもしれないし、逆に被害者だったのかもしれないし」
伏せた侑子さんの目元に心労が浮かんでいる。いつもの明るい姿とは反対に、深いため息が吐かれた。
「楓華ちゃんは、誰かをいじめたりはしないと思います」
侑子さんが伏せていた顔を上げる。お礼を告げるように笑み、化粧を落としたいと洗面所へ歩いて行った。
一方、ダイニングに留まった私の携帯がメールを受信する。「お願い パピコ持ってきて!」。自室にこもる楓華ちゃんからの救援物資要請だった。
「楓華ちゃん。入るよ」
パピコを持って、部屋のドア越しに声をかけた。
取っ手をつかんで押し開いた戸の隙間から見える範囲に、彼女の姿は見えない。更に押し開いて見渡すと、彼女は開けた窓の下枠に腰を下ろして、ベランダに足を投げ出していた。
「ごめーん。ありがとう」
近寄ってアイスを差し出すと、楓華ちゃんはすぐに袋を開けた。
ももの上でファッション誌が広げられている。好きな物に触れて、気を休めていたのだろう。
「こっちあげる」
ぱきんと割ったパピコの片方を私に差し出してくれる。いいの? と言いながらも受け取り、輪っかのついた部分に指をかけた。
「ムカつくこと言われてさ。言い返せば良かったのに、先に手ぇ出しちゃった」
私と同じようにしてパピコの口を切り離している彼女の背中が、少し丸まって、普段より小さく見える。
そうなんだ、と私は頷き、彼女の後ろで腰を下ろした。
「そっちもVIPで見たよ。本番直前で決別だって。あれ、どうしたの?」
「あー。まあ、意見の食い違い」
「へえ。でも、いいんじゃない? 正直
しゃく、とパピコを齧る音が、彼女の小さな唇で鳴った。
「かわいそーって思ってたもん。亜子ちゃんって押し込められちゃうとこあるから」
檀君とのことを、楓華ちゃんに打ち明けたことはない。けれどVIPで私の情報を追いながら、彼女がそんな風に気にかけてくれているとは思わなかった。
「上手くいかんよねぇ」
甘いコーヒーの味がするアイスを吸いながら、少しおじさんっぽくぼやく彼女に思わず笑ってしまう。いかないね、と小さくこぼして、私もパピコを口に含む。
そういえば彼女は昔からパピコが好きだったなと、遠い昔のことを懐かしんでいた。
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