豆の教室 12
休み明けの月曜。楓華ちゃんは普段と同じ時間にリビングに現れ、トーストの香りが漂う中、学校を休むと宣言した。
唐突だったそれに、しかし侑子さんは驚くでもなく「いいんじゃん」と返し、煙草に火を宿した。予想していた上での静かな肯定だった。
それから日々はどんどん流れ、ついに青嶺学院高等部は文化祭の日を迎える。
人気の出店は開幕30分で長蛇の列。チュロス片手に写真を撮る子。目当てのクラス展示に駆け込む子。
何より目立つのは、瀬戸君を探し回る情熱的なファンだろうか。瀬戸君は校内のどこかで雲隠れ中らしい。というか、もしかしたら登校さえしていないかもしれない。
二日間にわたる祭典のうち、誰もが首を長くして待っていたのは、もちろん二日目。クイーン・セレクションのファイナルが開催される日だ。
ステージ上では笑顔。外では火花。本番を前に、誰に票を入れるかなんて話が飛び交い、空気はすでに選別の熱で満ちている。
そんな熱狂を一身に浴びるファイナリストが控えるバックステージ。そこで私は、着せてもらったばかりのドレス姿で鏡の前に立っていた。
檀君が選んでくれた純白のドレスは、背中をレースで覆いつつ大きめに露出している。品を損なわない綺麗な一着であるが、その美しさは私の輪郭にいまいち馴染んでいなかった。
近くにいるファイナリストたちが、傍目に私を見ては、そっと冷笑を吐く。似合ってない──沈黙の中で突き刺さる、正当な評価だった。
「間もなく本番です。準備ができた人は舞台袖へ。スタッフがイヤモニをお渡しします」
賑わう部屋にスタッフが声を響かせる。私は戸口へ向かい、ドアレバーに手を伸ばした。しかしそれをつかむ前に戸は向こうから開かれ、目の前に天吹さんが現れる。
「スペシャルな日にはね、ランテルディって決めてるの。私は誰も触れられない聖女のように、孤高の気高さを纏うのよ」
アシスタントの阿万田さんに語る天吹さんは、戸を開けた先にいた私に気づいて入室の足を止めた。視線が、私の頭の先から爪先までゆっくり辿る。そして訝しげに歪んだ。
「鏡は見た?」
陰日向なく毒牙を見せる彼女はいっそ清々しい。次には私に興味をなくして、横を過ぎる。
舞台袖は照明の熱とBGMが交錯する、落ち着かない空間だ。複数のスタッフが慌ただしく動いていて、私はどこにいればと戸惑う。
しかし視界の端に入り込んだ仁田さんの姿に気づき、唯一の顔見知りである彼女の姿に、ようやく少し胸が緩んだ。
「あの。イヤモニを受け取るように言われたんだけど」
「あ。イヤモニ? それだったら、そこに」
舞台袖の一角へ歩き、パイプ椅子に置かれたカゴから、仁田さんはイヤモニを一つ手渡してくれた。
やはり彼女も忙しいらしく、お礼を言う私からすぐに離れて次の作業へ向かう。その背中を見送っていると、不意に背後から声を投げられた。
「そういえばアンタら二人って、最初仲良かったよね」
振り向くと、スタッフTシャツを着た折笠さんがいた。細い片眉を上げて、ラズベリーのリップの唇が艶然と弧を描いている。その笑みは、親しみよりも冷ややかさを含んでいた。
「なんか途中から仁田さんは聡美と一緒にいるようになったけど。つまんなすぎて捨てられた?」
声音は軽く、口調は柔らかい。けれどその中身は鋭く、選ばれた言葉の刃が私の胸元をなぞるようだった。
私は彼女から視線を外し、言葉を返さなかった。その沈黙に、折笠さんの眉がわずかに歪む。
「アンタってさ、見た目よりずっと強かだよね。瀬戸のことが好きなら最初からそう言えばいいのに。あくまで自分は何とも思ってませんみたいな顔して」
VIPでずっと私の記事を追っていたのだろう。彼女の双眸には最早疑心しか残されていない。
「アンタみたいに計算高い女、大嫌い」
クラブの写真のことは誤解だと伝えたはずだ。それでも彼女はいつまでも私に肩をぶつけてきたり、今もこうして噛みついてくる。
もうこの人には、何を言っても無駄なのかもしれない。それならば仕方のないことだと、不満を押し込む。それが普段私がしてきたことだ。
それなのに今日は、どういうわけか、その手順が上手くいかなかった。
瀬戸君に言われたことが脳裏をよぎった。同時に、蟻を踏み潰す靴の裏が。弾むランドセル。犯人捜しのプラカード。楓華ちゃんと食べたパピコ。
──そう。私はいつだって。
「私も、アンタ嫌い」
言葉が口をついて出た瞬間、折笠さんの表情が止まった。その目がわずかに見開かれる。
「は? 豆。アンタ今何つったの」
「豆じゃない。私の名前は豆じゃない。やめて。その呼び方も嫌いなの」
声は震えていなかった。胸の奥で何かが軋んでいる。折笠さんは唇の端を吊り上げ、嘲った。
「何? 呼び方ぐらい何だっていいじゃん。こんなのノリで呼んでるだけなんだからさ」
「アンタたちはまるで免罪符みたいにそう言うね。ノリだって。確かに、みんな深くは考えてないのかもしれない。傷つけようと思ってるわけじゃなく、ただ何となく流れに乗ってそう呼んでるだけって人が大半なんだと思う。そうやって、誰も分かりやすくいじめたりしないから、何も起こってないって、何もないことになってた。だから私は、今ちゃんと言ったよ。やめて。嫌なの」
言葉にして初めて、胸の奥に沈んでいた怒りが輪郭を持った。
私を誰より蔑ろにしていたのは、私を見下す人たちではなかった。
見下されている怒りを自覚しているのに、何も手を打たない。自分の価値を守ろうとしない。そうやって私を見放す私自身だった。
舞台袖で睨み合う私たちのことなんて、誰も気にも留めていない。ようやく舞台袖に姿を現した天吹さんなんて、BGMがうるさいと早速スタッフに文句を言っている。
折笠さんは鬼の憑いた形相で私を射抜き、コツコツとルブタンを鳴らしながら去っていった。
そして照明が落ち、場内が静まり返る。ファイナルの幕がいよいよ上がる。
照明が色鮮やかにステージを照らすと、最初のファイナリストが優雅に登場した。ドレスの裾を揺らしながら、ポージングは完璧。客席からは歓声とフラッシュが飛び交い、彼女はその光を浴びながら微笑む。
次に登壇した子はシルクハットを手にしていた。軽やかな手つきで何も入っていない帽子を見せてからステッキを振ると、帽子から白い大輪の花が取り出される。花びらは照明の光を反射し、観客が一斉にどよめいた。魔法のように彼女も輝く。
どのファイナリストも、それぞれに工夫を凝らした演出を用意していた。誰もが自分の見せ方を心得ている。ステージはただの選別の場ではなく、自己演出の戦場だった。
舞台袖では、次に上がるファイナリストが静かに呼吸を整えている。スタッフが彼女に開始のタイミングを告げている。
私の番は、彼女の次。
「お願いします!」
一つ前の彼女が戻るタイミングで、スタッフが私に合図を送った。
パフォーマンススタート。私は途中だった深呼吸を止め、慣れないハイヒールでステージへ踏み出す。
足元がぐらつく。ファイナリストの中で、唯一私にだけエスコートがいない。
一人で登場した私の姿に、客席がイロモノを見る目つきになっているのが分かる。歓声が上がってこない。
お母さんがどこにいるのか、眩しい照明と観客の多さで見つけられなかった。けれどきっと、思いきり心配した面持ちで私を見ているだろう。そう思うと恥ずかしかった。
私たちは、教室に入った瞬間から値踏みされてきた。
あの女子グループは華やか。あの男子グループはオタク。あの子は可愛い。あの子はダサい。私たちの値段はそんな風に設定され、それらは教室での地位の差を生んだ。
見た目が良かったり気が強かったりする類は地位は上。反対に、地味だったり教室の隅で口も開かないような類は地位は低いと見なされる。
私はそのカーストの底辺にいる。
「私には友達がいません」
まばらな拍手で迎えられたステージに、マイク一本を握る私の声が響いた。静かだった客席が、一瞬だけ失笑でわく。
だけど笑いを取ったぐらいでは私の緊張はまるで解けず、ふるふると手が震えている。手の平は汗ばみ、照明が背中をじりじりと焼いていた。
「だけど心配されるのが嫌で、学校では上手くやれているとお母さんに嘘をついていました。自分が恥ずかしかった。恥ずかしい自分を知られたくなかった。──他のファイナリストだけでなく、この学校は全部輝いて見えます」
自分とは正反対の、明るくて華やかな存在。私はそこで豆と呼ばれていた。
「小さくて、目立たなくて、主役になれない地味な存在。豆の由来はそれです。的確だと思いました。ありのままの私では主役になれない。だって私はオシャレでもないし、先生に信頼して作文の代表を任せてもらえるような強い生徒でもない。おどおどしてて、自信がなくて、友達一人繋ぎ止められないぐらい冴えない退屈な私を変えない限り、あなた達のようにはなれない。だけど」
ふと、会場の立見席に黒と赤の色彩が見えた。照明も届かず、暗く沈んだその簡素な場所に瀬戸君がいる。他に客の姿はなく、そこだけが舞台の熱から切り離されたように静かだった。
彼は手すりに肘をついた手に顎を乗せ、ステージを見ていた。その姿勢はどこか退屈そうで、けれど目だけは逸らさずにこちらを見据えている。あなたはやはり、どこにいても一等眩しい。
──あなたの存在、そのものが光。
昔、何かの本で読んだことのある言葉が、保健室で彼と話した時、そのまま胸で息を吹き返した。
酸素が久しぶりに肺を通る感覚に満たされた。長く枯れていた花が再び色づき始めるような生気の煌めきが、ぱちぱちと瞼の裏で弾けた。
あの時、私の名前を呼んでくれたから。
早口だった言葉を止めた。呼吸を置く。落ち着いてもう一度、お母さんを探してみる。
すると、やはりめちゃくちゃな心配顔で私を見ている姿を見つけた。その双眸と、今度こそ向き合う。胸の中に熱が灯る。
「だけど、それが何だっていうのか。だからって引け目を感じるのはおかしな事だったと、最近ようやく気づきました。私はもう自分を見下したりしない」
言葉を終え、沈黙が続く。マイクを下ろすと、誰かがゆっくりと拍手を始めた。大きな音ではなかった。けれど確かに耳に届いている。
退場する間際、もう一度だけ瀬戸君を見上げると、彼は変わらない姿勢でステージを見ていた。けれどその目が、何かを肯定するように、ほんの少しだけ細められた気がした。
クイーン・セレクションのグランプリ──すなわちクイーンの座には、誰もが予想した通りに天吹さんが輝いた。完璧にドレスを着こなし、スポットライトを浴びて微笑む彼女は、まさに戴冠式のクイーン。
アワード・セレモニーの終盤には、観客が好きなファイナリストと記念撮影をする時間が設けられている。そのため、戦いの幕が下りたとはいえ、ファイナリストはまだまだ大忙し。暇なのは、指名が入るはずもない私ぐらいだ。
私は一足先に舞台袖から降りることにした。照明の熱が離れていく。脇にある階段を、ドレスの裾を持ち上げながら慎重に下る。通路に出ると、空気はひんやりとしていて、照明も歓声ももう届かない。ようやく息を深く吸った時に途端に拍手が響いた。
「お疲れ様」
そう一言発したのは侑子さんだった。グレーのスレンダーなパンツスタイルに身を包み、すっと伸びた背筋はいつも通りの佇まい。
隣には、今日も学校を休んでいたはずの楓華ちゃんと、私のお母さんもいた。
「やるじゃん。正直、出てこないんじゃないかなって思ってたの。見直した」
楓華ちゃんはそう言って、私のそばまで来ると、私の腕に手を添えた。それは小さい頃、私たちが並んで歩く時によくした仕草だ。
あの頃と比べるとすっかり成長した彼女の笑みに、それでもどこか変わらない懐かしさを感じる。
「写真撮ってあげる。並んで並んで」
侑子さんに促され、私を挟んでお母さんと楓華ちゃんが立つ。肩を寄せるお母さんの耳には、小粒のダイヤのピアスが煌めいている。
「恥ずかしくないよ」
侑子さんの携帯のレンズに向けて微笑みながら、お母さんが呟いた。一枚、私たちが画像として携帯の中に収まる。
私がお母さんを見ると、お母さんもまた私を見た。もう一枚、と侑子さんが告げる。安堵が広がるように私は笑っていた。
「そう?」
問い返す私にお母さんは頷き、私の背に手を添える。その手に促されるように私もレンズに向き直り、今度は少しだけ胸を張って立った。
クイーン・セレクションが終わると、学院の空気からはその熱が抜け、日常の落ち着きを取り戻していた。
ステージの照明も、拍手も、ファイナリストの名前を叫ぶ声も、全てがもう過ぎたもの。青嶺は明日から夏休みに入る。
終業式が終わった昇降口は、まるで空港のラウンジのような期待に包まれていた。
ロイヤル・オペラ・ハウスでのバレエ鑑賞。伊勢志摩の高級リゾートに長期ステイ。都内の会員制プールでナイト・パーティー。そんな輝かしい夏休みの予定を競うように語り合っている。
そんな賑わいの中、一人だけ違う空気を纏った少女が下駄箱の前に現れた。楓華ちゃんだ。
白けた顔で、誰とも目を合わせず、シアー素材のミュールを取り出す。しばらく休んでいた彼女だが、今日は通知表を受け取るために渋々登校したのだ。
ミュールを足元に落とすと、少し雑な仕草で足をはめる。その途中、彼女のそばに誰かが立った。気配に気づいてゆっくりと姿勢を起こした楓華ちゃんは、無表情に見つめてくる桃子と向き合う。
「……何? 心変わりでもしたの?」
「心変わり? そうだね」
肯定しながらも、桃子の目には敵意が宿っていた。つまり、心変わりして和解しに来たわけではない。
「今までは天吹先輩の指示だったけど、これからは私の意思で楓華を省くから。今までみたいに無視だけじゃ済まないと思ってて」
宣戦布告を突きつけると、桃子は踵を返して去っていった。楓華ちゃんは息をつき、エントランスを出ていく。
盛夏の光が容赦なく降り注ぐ。それは彼女の影を黒々と伸ばしていた。
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