豆の教室 2

「絶対浮気だと思うんだよね」


 楓華ちゃんのお尻が断言する。もちろん本当は彼女の口が話しているのだけれど、今私に向けられているのは彼女の顔ではなくお尻なので、視覚的にはお尻が話している印象だ。


「あっ。あった。あったあった」


 クローゼットに掛けられている服を掻き分けて頭から体を突っ込んでいた楓華ちゃんは、直角に曲げていた背中を起こし、頭をすぽんと服の密林から抜いた。はい、とピンク色のハンドバッグを渡される。


「ありがとう。ごめんね」

「バッグくらい持てば?」

「白いのはあるんだけど」

「あんな型崩れしまくったの、もうバッグとは言わないよ。てかあれどこの?」

「どこ……どこのというか、ノーブランドだと思う」

「前から思ってたけど、全然ファッションに興味ないよね」


 笑いもしない彼女の頭上で冷房が吹いている。それが私にはまだ肌寒い。


「服選んだ?」


 床に広げられているピンク色の三着に目配せをした彼女に、私は慌ててそのうちの一着を返した。


「こっちのスカートとジャケットにする。ありがとう」

「メイクは? しないの?」

「あ。いや。私はいいや」

「ふうん。私はちょっとメイク直してから行くから、待ってて」

「うん。本当にありがとうね」

「いいよ。この前、財布届けてもらったし」


 ツインテールの片方のゴムを抜く楓華ちゃん。その横顔を最後に視認して、私は彼女の部屋を出た。


 上京して楓華ちゃんの家に預かってもらえるようになってからは、家の中に私の部屋も用意してもらえた。元々あった電子ピアノや、物置き化したクローゼットはそのままだけれど、机と布団を用意してくれただけで私には充分だ。


 自前のTシャツだけ加え、部屋で楓華ちゃんのジャケットとスカートに着替える。借り物のサマンサタバサのバッグに中身を移し、それで私の準備は終了。楓華ちゃんが準備を終えたのはそれから更に20分後で、「お待たせー」と部屋から出てきた彼女を廊下で迎えた。


「場所渋谷だよね? 駅からどれくらい?」

「歩いて十分ぐらいだって。地図もネットで調べたけど」

「まあ分かんなかったら交番とかその辺の人に聞けばいいでしょ。クラブって初めて。楽しみー」


 ピンク色のワンピースに合わせて、楓華ちゃんはパンプスもピンクのものを選ぶ。


 これから行くクラブでは、未成年オーケーの昼イベントを開いているそうだ。では何故そんな所に行くのかというと、発端は私が携帯を紛失したことである。


 楓華ちゃんの携帯を借りて自分の番号に電話してみると、男の人が出てくれた。だけど彼は今からクラブに行く予定だそうで、そこまで取りに来てくれるなら預かってくれると言うので、私はクラブへ携帯を取りに、楓華ちゃんはクラブに興味を示して付き添ってくれることになった次第だ。


 また、イベントのドレスコードが女性はピンク色を着ることだそうなので、私達はピンクに身を包むことにもなった。


 109に西武、パルコ、マークシティ。渋谷のシンボルをたくさん知っている楓華ちゃんのおかげで、さして苦労することなくクラブを見つけることができた。


「あ。着いたって電話しなきゃ」

「いいじゃん。どうせ中に入るんだから入ってからで」

「え?」

「え?」


 聞き返した私に楓華ちゃんも聞き返す。お互いきょとんとした顔をしている。


「入るの?」

「え? 入るよ。当然じゃん。だからドレスコード通りにしたんじゃないの?」

「いや……あ、そうか。そうだよね。ごめん、連絡して外に出てきてもらえばいいかなって考えてて」

「えー。嘘。冗談だよね。入ろうよ。私何のためについてきたの」


 がっかりした顔をされて、我ながら確かにこれはないなと反省した。


 私がドレスコード通りのピンクの服を貸してほしいと頼んできた時点で、それならクラブに入店するのだろうと楓華ちゃんが考えるのも当然だ。楓華ちゃんはイベントに参加するつもりで服もバッグも貸してここまでついてきたのに、中に入らず入り口の前で済まそうなんて、私は全く彼女のことを考えていなかった。


「ごめん。そうだよね。入ろうか」

「そうだよ。もー。ビックリした」


 しっかりしてよという声音でヒールを進める。うなじを覆う巻き髪を片手の甲で浮かせた楓華ちゃんの横顔には、自信たっぷりに大人の世界に踏み込む輝きがあった。


 一階のエントランスに入り、チケットを買うと、階段で二階へ上がるよう案内された。その時点ですでに上階の盛り上がりが振動になって届いており、私の体の中も、初めての世界に踏み込むドキドキで震えている。


 階段を上がってすぐに客席が広がっている。奥にはバーカウンター。未成年可のイベントなだけあって、クラブの様子はドラマや映画で観る妖しく艶やかな雰囲気とは異なっていた。


 ピンクやクリーム色の照明がフロアを可愛らしく照らし、カラフルなバルーンが遊び心たっぷりに飾られている。会場いっぱいに響いている洋楽のキャッチーなメロディーに乗せられて、自然と体を揺らしたい気分になる。


 お客さんも学校や家で遊んでいるような気楽さだ。ソーダとピザで談笑していたり、ボードゲームで大騒ぎしていたり。友達同士で笑い合いながらダンスフロアに向かう姿や、カラフルなドリンクを片手に写真を撮る姿も見受けられる。勿論そんな未成年客だけでなく、大人の客がお酒を飲んでいる席もあった。


「わ。見て。あの人、ここに全然似合ってない」


 楓華ちゃんが、フロアを歩いている男の人を指差した。「超おじさーん」。くすくす笑う彼女の声は、まるで小鳥のさえずりのように楽しげだ。


 私は上手い返答ができずに、ただ彼女の視線を追った。確かに、地味な色のくたびれた服を着て、ドリンクも持たずきょろきょろと辺りを見回しているその人は、場慣れしているとも、この場に似合っているとも言えなかった。


 だけど、楓華ちゃんの揶揄はそのまま私にも突き刺さっていた。彼女が意図したわけではないだろうけど、刃渡が思っているより長くて、あの男の人ごと私も貫かれたような気分になった。


「何か飲まない? フルーツカクテルもあるって」


 男の人から興味が失せたらしい。楓華ちゃんはもうバーカウンターに注目を移していた。


「え。カクテル?」


 ぎょっとする私に、楓華ちゃんが呆れ顔で「ノンアルだよ」と付け加える。


 カクテルって、ノンアルコールもあるんだ。全部お酒だと思っていたから少し驚いた。


「あ。じゃあ飲もうか」

「ポップコーンは? キャラメルの食べたい」

「あ。なら私出すよ」


 バーカウンタ―に近づくと、パステルピンクのTシャツを着たスタッフさんが「何にします?」とくだけた口調で聞いてきた。


 大してお腹は空いてなかったはずだけど、フルーツの甘い香りやポップコーンの香ばしさが空腹な気持ちにさせる。


「えっと。キャラメルポップコーンと、あと……カルピス」

「カルピスウォーター? ソーダ?」

「あ。じゃあウォーター」

「はーい。そっちのお姉さんは?」

「ベリー系のカクテルってあります?」


 カウンターに両腕を置いてスタッフさんに注文の相談を始める楓華ちゃんには、まるで場慣れしているみたいな貫禄があった。私のように緊張はしておらず、自然体で、常連客のように振る舞っている。


 彼女はもう昔のように私とカルピスを飲むような子ではない。歳は私が上なのに、私の方が彼女に置いていかれている。


「着いたって電話したら?」

「そうだね。ありがとう」


 楓華ちゃんから携帯を受け取り、自分の番号に電話をかけた。同時に、周囲を見渡して電話を始める人がいないか確認するけれど、なかなか見当たらない。


「何。出ないの?」

「うん。どうしよう。男の人ってことしか分からないんだけど」

「探したら? 私の携帯持ってっていいよ」


 言いながら、私が電話をかけている間に楓華ちゃんが代わりに受け取ってくれていたカルピスを渡される。白いカルピスの水面を、フロアの照明が色とりどりの蛍のように飛び回った。


「楓華ちゃんは? ここにいる?」

「うん。適当に遊んでる」

「ごめんね。なるべく急ぐから」

「いいよ。せっかくだから、ゆっくりしたい」

「あ、そう。じゃあ、えー……急がないで行く」

「うん。いってら」


 ひらりと手を振る楓華ちゃんの笑顔は、どこか子供じみていた。親の目を盗んでいたずらを始める前の、無邪気とは言い切れない、いたいけさを孕んだ悪意。


 私がその場を離れると、彼女はすぐにバーカウンターへ向き直る。背筋を伸ばし、声の調子をほんの少し整えた。


「それで、初心者でも飲めるけど、ナメられないお酒ってあります? 高すぎないやつで」


 グラスを磨いていたスタッフが顔を上げる。


「ん? 未成年の子にはお酒出せないよ~」

「分かってます。今飲みたいとかじゃなくて、ちょっと聞きたかっただけなんで」


 言葉の端に、演技のような笑みが混じる。それは嘘か本音か判別するには曖昧な笑みだったが、彼女の声音は、あくまで「聞いただけ」の体裁を保とうとしていた。


「可愛い子はナメられたりしないよ」


 不意に割り込んできた声に、楓華ちゃんは隣に立った男を見た。若く、メンズファッション誌から抜け出してきたような男の容貌に、彼女はゆっくりと笑む。幸運の兆しを噛みしめた。


 一方、楓華ちゃんには急ぐなと言われたものの、できれば早く見つけて帰りたいというのが私の本音だった。


 初めてのクラブ──体の中まで響いてくる音楽と、お祭り騒ぎの照明に包まれ、さっきからどうにも落ち着かないでいる。他のお客さんは楽しそうに踊り、笑い、それぞれが身を委ねているのに、私にはこの華やかな賑やかさが、まるで異世界の物事のように感じられた。


 携帯を拾ってくれた人は、電話の声の印象からして、わりと年上の人だろう。だからちょうどそれっぽい人に勇気を振り絞って声をかけてみたのだけれど、三人に聞いて三人とも、携帯なんて拾ってないと首を振られてしまった。


 こうも立て続けに空回ると、なんだか自分がおかしな人になったようで、だんだんと集まり始める怪訝そうな周りの視線に気が滅入った。


 そんな折、階段が視界に入った。そこは薄暗く、上に行くほど光が遠のいていって、この階の賑やかさからは隔離されている印象を受ける。


 手を壁につく。階段を半分上がると、途端に金属の咆哮が轟いた。けたたましく、音というよりは叫びに聞こえるそれに私は無意識に息を殺した。


 暗闇の奥底から、怪物が喚き散らしているかのような。階段の一段一段が、私を試すかのように重く感じる。近づけば近づくほど、音は濃密な空気の振動に乗って、鼓膜がビリビリと震える。だけどこれは知っている音だ。きっと誰だって聞いたことがある。──ドラムの音。


 演奏と言うにはあまりに狂暴だった。言葉も許されない抑圧された怒りが、体内で荒れ回っているかのよう。その苛烈さに恐怖心さえ抱く。肌は粟立ち、このまま逃げてしまおうかと気が潰されそうだ。


 階段を上がるにつれ、何か大きな生き物に飲み込まれるように、フロアの明かりが階段の闇に溶け消えていく。視覚の自由を奪われ、不安の中たどり着いた音源の正体──例えるならそれは、突風。絶景。白い閃光。


 叩きつけるように演奏を終えた。椅子に座ったまま、ぐったりと仰ぐ彼の姿勢。息。汗。疲労。体勢を戻す。肩の袖で口元の汗を拭う。──その瞳を宿した、暴力的なまでの存在感。


 稲妻に体を貫かれたようだった。私は何の抵抗もできずに目を奪われていた。


 彼は、衝撃だった。

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