第3話:ダンジョンと資源社会

 都心から少し離れた、俺の住む団地からも比較的近い一角に、それは存在していた。幹線道路沿いに並ぶビル群のなかで、明らかに他と空気を異にする建物。外見は無機質なコンクリートとガラスの公共施設といった佇まいだが、その入り口には、「ダンジョン庁東京メインダンジョン管理所」と記された金属プレートが掲げられていた。


 だが、建物の周囲には警備員の姿があり、入り口には金属探知機が設置されている。まだ社会に完全に溶け込みきれていない、この「新しい職業」への警戒心を物語っていた。


 自動ドアの前で、俺はふと立ち止まる。ガラスに映るのは、黒の革ジャケットにジーンズを履いた、どこにでもいる青年。高校卒業直後に姿を消し、五年を経て戻ってきた、現在二十三歳の俺の姿だ。とても昨日まで剣を振るい、魔物と死闘を繰り広げていた人間には見えないだろう。


 だが——胸の奥では、確かに何かが静かに目覚めかけていた。


 あの時、警察に預けた剣や装備は、数々の検査を経て手元に戻ってきた。だが、それらはすでに原形をとどめていなかった。魔王の炎に焼かれ、幾度もの戦いで傷つき、今ではただの"思い出の品"であり、武具としては死んでいた。この世界で再び戦うには、新たな武具が必要だった。


 自動ドアが音もなく開く。中に一歩足を踏み入れると、空気が切り替わった。受付ロビーは明るく清潔で、白を基調とした壁と木目調の床が近代的な印象を与える。しかし、この場所を訪れる人間たちが秘める覚悟のせいか、空間の隅々には確かに"異質な空気"が漂っていた。


 声をかけてきたのは、落ち着いた雰囲気の女性職員だった。肩まで伸ばした黒髪をラフに束ね、公務員らしからぬ親しみやすさを感じさせる。


「いらっしゃいませ。冒険者の新規登録でよろしいですか?」


「はい。初めてです」


 俺は少しぎこちなく頷いた。


「では、こちらの用紙にご記入をお願いします。お名前、ご住所、生年月日……それから、"空白期間"の理由ですね。可能な範囲で結構ですよ」


 彼女は慣れた手つきで登録用紙を差し出す。その瞳の奥に、わずかな好奇心の色が宿っている。俺が先日保護された「帰還者」であることは、おそらく事前に情報として伝わっているのだろう。


 ボールペンを手に、申請用紙に向き合う。


 名前:日向蓮

 年齢:23歳

 学歴:高校卒業

 職業歴:空欄


 紙面に文字を走らせながら、この世界では記録されていない五年間がじわじわと胸にのしかかる。あちらの世界で剣を取り、Sランク冒険者として魔王軍と戦い抜いた日々。しかし、この世界では証明のしようがない。戻ってきた瞬間から、あの五年は"無かったこと"になっていたのだ。


(もう一度、ここで"冒険者"になる。今度は、この世界で——)


 それは、失われたものを取り戻すためでも、過去に囚われるためでもない。ただ、自分がこの世界に"居場所"を作るために。


 書類を書き終え、受付に提出すると、女性職員が微笑んだ。

 

「ご記入ありがとうございました。それでは、奥の部屋で適性検査を受けていただきます」


女性職員は書類を確認しながら、補足するように言った。


「ちなみに、当庁の冒険者ランクは、実績に応じてFからSまでの七段階に分かれています。新規登録者は、全員Fランクからのスタートとなりますので、ご了承ください。適性検査の結果が特に優秀な場合は、Eランクからの特例スタートとなることもありますが……」


 彼女はそこで言葉を濁し、俺の「五年間空白」という経歴に目を落とした。言外に、「あなたには関係ないでしょうが」と語っているようだった。そして、さらに重要な規則について続けた。


「このランクは、ダンジョン内で活動できる階層に直結します。ロビーの奥にある『階層転移ゲート』をご利用いただく際、IDカードのランクに応じてアクセスできる階層が制限される仕組みです。これは、経験の浅い冒険者の方が無謀にも深層へ立ち入り、命を落とすのを防ぐための安全措置でもあります」


 彼女はロビーの奥、近未来的なアーチがいくつか並んでいる方へと視線を向けた。


「Fランクの冒険者様がご利用になれるのは、『第一層』へのゲートのみとなります。そして、次の階層へ進むためには、もう一つ条件があります。それは、現在挑戦中の階層をクリアし、『踏破記録』をIDカードに残すことです」


「踏破記録ですか?」


「はい。例えば、第二層へ挑戦するためには、まず第一層のボスを討伐していただく必要があります。その記録が認められて初めて、第二層への道が開かれる、という仕組みです。つまり、『ランク』と、『踏破記録』、その両方を満たして、一歩ずつ進んでいただくことになりますね」


(Fランク、か。異世界では、ギルドに登録したての子供がもらうランクだな)


 俺は内心で自嘲気味に呟いた。ランクと実績で厳格に管理するとは、いかにも現代らしいやり方だ。あの世界では、自分の実力だけが唯一の通行証だった。生きて帰れるならどこまで行ってもいいし、死ねばそれまで。その殺伐とした自由さに比べれば、ずいぶんと生ぬるい。


 だが、悪くない。誰にも注目されず、自由に動ける。その方が好都合だ。システムがあるということは、ルールがあるということ。ルールがあるなら、その中で最も効率の良い動き方を見つければいいだけだ。


◇  ◇  ◇


 案内されたのは、白を基調とした無機質な個室だった。中には、魔力測定器と反応速度測定装置が並んでいる。


「こちらの機械で、魔力値と身体反応速度を測定しますね」


 "魔力"という言葉に、内心驚きが走る。この五年で、世界は本当に変わってしまったらしい。


「この五年間のエネルギー革命は、国家主導で急速に進められましたから。科学では未だ解明できないことも多いのですが……」と職員は補足した。どうやら、魔石という規格外のエネルギー源の登場が、社会構造を無理やりにでも変革させたようだ。


 俺は言われるがまま、透明なドームに手を差し入れた。何の反応もない——そう思った刹那、突如として甲高い警告音が鳴り響く。


 ピピピピピッ——!

 赤いランプが点滅し、ディスプレイには『ERROR: LIMIT OVER』の文字が表示された。


「あら……? ちょっと数値が高すぎて、セーフティがかかっちゃいましたね」


 職員の女性が困惑しつつも、どこか楽しそうに眉を下げる。俺は軽く笑ってごまかした。

 

「すみません、ちょっと機械との相性が悪いみたいで」


 異世界で鍛えられた俺の魔力量を、この世界の簡易測定器が正確に測れるはずもなかった。


 だが、それでも問題が生じた。測定器のエラーが頻発したのだ。魔力値は測定不能、身体能力測定でも規格外の数値が記録された。職員は困惑し、上司への相談を重ねることとなった。


 続いて、反応速度の測定に移る。結果は——


「……ええと、ものすごく速いですね。こちらも規格外の数値ですが、記録としては有効です。全体としては問題ありません。むしろ、優秀すぎて驚きました」


 職員は困惑した表情で、端末のデータを何度も見返している。


「あの、日向さん。規定では、新規登録者はFランクからとなりますが、これだけの数値ですと……上長に報告し、特例としてDランクから始められるよう申請することも可能ですが、いかがいたしますか?」


 彼女は、マニュアルにはない対応に戸惑いながらも、親切心からそう提案してくれたのだろう。だが、俺は首を横に振った。


「いや、結構だ。規定通り、一番下からで頼む」


「えっ……? よろしいのですか? ランクが低いと、受けられる依頼や入れる階層にも制限がかかりますが……」


「構わない」


俺の即答に、職員はさらに困惑した表情を浮かべたが、やがて諦めたように頷いた。


「承知いたしました。では、日向蓮様をFランク冒険者として正式に登録いたします」


 手渡されたIDカードの片隅には、確かに『Rank: F』という文字が小さく刻まれていた。

 このカード一枚で、俺は"国家公認"のFランク冒険者となった。


「初回の探索についてですが、まずは安全が確保されている浅い階層から始めていただくことになります。この管理所が管轄する『東京メインダンジョン』の第一層が、新人向けの推奨エリアとして設定されていますので、そちらをご案内できます。装備一式はこちらで貸与可能ですが、どうされますか?」


「……ああ、頼む」


 俺は即答した。まずはこの世界のダンジョンというものを、その肌で感じておきたかった。


 支給されたのは、いかにも初心者向けの防刃ベストと、使い込まれていない新品の武具。そのなかから、俺は迷わず一本のショートソードを選んだ。長さは50センチほど。手に持った瞬間、指先に懐かしい感触が蘇る。刃の重み、バランス、柄の握り心地。すべてが記憶の奥に眠る"戦場"を呼び起こした。


「登録完了、お疲れ様でした。お気をつけて、行ってらっしゃいませ」


 職員の明るい声が、俺の背を押した。ジャケットの下に軽装備を着込み、ショートソードを腰に差す。俺は他の新人たちに混じり、唯一ランプが点灯している『第一層』と表示された転移ゲートへと向かった。それは"新人"としての冒険の始まりであり、異世界から戻った帰還者としての再起の第一歩でもあった。


 ダンジョンへ向かう俺の足取りは静かで、誰の目にもただの新入りに見えたかもしれない。だが——その歩みの一歩一歩が、確かに"異質な何か"を孕んでいた。


 実際、この世界のダンジョンシステムは、俺が失踪した五年前には影も形もなかった。最初の一年間は世界各国で大規模な混乱が発生し、軍隊による探索と魔物の駆除が行われていた。多くの犠牲者を出しながらも、徐々にダンジョンの性質と魔物の生態が判明していく。


 転機となったのは二年目。魔石の有用性が発見され、各国が本格的な調査に乗り出した。三年目には「ダンジョン管理法」が施行され、軍事組織から民間組織への移管が始まる。そして四年目から五年目にかけて、ようやく現在のような体系的なシステムが完成したのだ。


 つまり、現在の完成度の高い管理システムは、決して一朝一夕に築かれたものではない。多くの犠牲と試行錯誤を経て、ようやく到達した社会的合意の産物だった。


 俺はその歴史を知らずに、完成されたシステムの中に足を踏み入れようとしている。


 エントランスで新人向けの説明を受けながら、俺の頭の中では別のことを考えていた。この世界の冒険者たちは、どの程度の実力を持っているのか。管理された環境で、彼らはどのような戦いを繰り広げているのか。


 そして何より——この世界のダンジョンには、俺が求めているものがあるのか。


 異世界で失った仲間たちとの絆の証。あの折れた聖剣を再生するために必要な素材や技術。それらを手に入れるためには、より深く、より危険な階層へと進む必要があるだろう。


 だが、今はまだその時ではない。まずは、この世界の"常識"を理解し、システムの中で効率的に力をつけていく。そのための第一歩として、第一層での探索が始まる。


 転移ゲートの前に立ちながら、俺は腰のショートソードに手を添えた。異世界で折れた聖剣の感触を、まだ覚えている。いつか必ず、あの剣を蘇らせる。


 そのために、俺は悪魔とでも手を組む覚悟があった。ただし、今はまだ、この世界のルールを学ぶ段階だ。


 ゲートが青白い光を放ち始める。第一層への転移が始まった。

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