第2話:五年という空白

 団地の一室。薄暗い室内で、俺はコンビニで買ってきた弁当を黙々と口に運んでいた。電気は通っていたが、節約のため最小限の明かりしか点けていない。伯父が基本料金だけは払い続けてくれていたらしく、冷蔵庫も動いていた。だが、ガスと水道は完全に止められている。五年も主のいなかった家なのだから、伯父の配慮だけでも充分すぎるほどだった。


 静寂が、耳に痛い。壁一枚隔てた隣の部屋からは、家族の笑い声が微かに聞こえてくる。その温かな音が、俺の孤独を一層際立たせた。


 食事を終え、空になった容器をゴミ袋に入れながら、視線は自然と仏間へと向かう。伯父が新しく用意してくれたという仏壇に手を合わせ、心の中で呟いた。

 

(……母さん、父さん。ただいま)


 返事はない。この家にはもう、俺ひとりしかいないのだ。


◇  ◇  ◇


 翌朝、俺はまず、警察から教えてもらっていた伯父の連絡先に電話を入れた。公衆電話からかけたその声は、驚きと安堵に震えていた。詳しい話はできないと断った上で、無事に戻ったこと、そして家を管理してくれていたことへの感謝を伝えた。伯父は、「とにかく、生きていてよかった」と何度も繰り返していた。


 それから、俺はやるべきことを一つずつ片付けていった。


 まずは役所だ。戸籍の回復と、保険証の再発行。五年間も行方不明だった割には、手続きは想定よりスムーズに進んだ。どうやら、「記憶を失った長期失踪者」という扱いは、行政上の暫定的な枠組みとして前例があるらしかった。


「日向さん、手続きは以上です。何かご不明な点がございましたら、こちらの相談窓口へどうぞ」


 担当職員はマニュアル通りといった様子で、丁寧だが事務的に俺に対応した。彼らにとって俺は、数少ない「稀なケース」の一つに過ぎないのだろう。


 次に、役所で発行された身分証明の仮書類を手に、電気、ガス、水道の供給会社を回り、再契約の手続きを済ませた。それから銀行へ向かい、両親の遺産相続と凍結されていた口座の解除手続きを行った。弁護士だった父と、しっかり者の母のおかげで、当面の生活に困らないだけの蓄えが残されていたのは不幸中の幸いだった。


 最後に、新しいスマートフォンを契約した。異世界から持ち帰ったスマホは、とっくにバッテリーが死んでおり、ただの文鎮だった。ようやく手にした真新しい端末は、この五年で浦島太郎状態の俺にとって、世界と繋がる唯一の命綱だった。


 全ての手続きを終えて団地に戻ると、夕方には電力契約の切り替えが完了し、部屋の全ての明かりが灯るようになっていた。


 玄関には、警察から転送されてきた大きな段ボール箱が置かれていた。中を開けると、あの日押収された剣と装備一式が、検査済みのタグと共に収められている。


「危険物検査結果:異常なし。所有者へ返却」


 剣を手に取ると、魔王の炎に焼かれた痕が生々しく残っていた。もはや武器としては使い物にならない、ただの鉄くずだ。それでも、これが俺の五年間の証だった。

 

 蛇口をひねれば、当たり前のように水が出る。その一つ一つが、奇跡のように感じられた。


 その夜、俺は生まれて初めて、インスタントの味噌汁をこれほど美味いと感じた。電子レンジで温められた白米の湯気が、これほどまでに贅沢だとは思わなかった。


「……うまい」


 舌に乗るのは、人工的な旨味。だがその“偽物さ”が、妙に心地よい。あの世界で、どれだけ栄養満点の乾燥肉を口にしても、この味には届かなかった。

 

 だが、俺の心の奥底では、複雑な感情が渦巻いていた。


 温かい食事と、熱いシャワー。それだけで、強張っていた心と身体が少しずつ解けていくような気がした。


 布団に潜り込み、生きていることを実感する。あの場所では、明日の命を約束された者などいなかった。この世界の人間は、誰もそれを奇跡だと思っていない。“当たり前”という言葉の重さを、誰も知らない。


 だからこそ、俺はこの“当たり前”を、しばらくは受け入れられそうにない。生きることが、“戦い”だった日々を、まだ棄てきれない。


 けれど同時に――この穏やかで、当たり前な日常が、“心地いい”とも思っている。

 

 揺れる心のまま、俺は久しぶりに安らかな眠りについた。


◇  ◇  ◇


 社会復帰への手続きを始めて数日、俺は本当の問題に直面していた。

 ――これから、どう生きていくか。


 新しいスマートフォンで、この五年間の社会情勢を必死に調べた。そして知ったのだ。


 ――“ダンジョン”。


 五年前、世界各地に突如として出現した異空間領域。その経緯は、決して一朝一夕に整備されたものではなかった。


 最初の一年間は、世界中が未曾有の混乱に陥っていた。各国政府は状況を理解できず、軍事的脅威として警戒していた。ダンジョンから出現する魔物による被害も頻発し、初期の探索は軍隊や研究チームによって行われていた。当時の装備は既存の軍用品を改造したものが主流で、まだ魔石の利用法も確立されておらず、多くの犠牲を払いながら手探りで進むしかなかった。俺が駅前で着ていたような古風な革鎧は、まさにその黎明期の遺物だったのだ。


 転機となったのは帰還から一年半後。ダンジョンから採取された"魔石"に、既存のエネルギー源を遥かに上回る効率性があることが発見されたのだ。さらに、魔石を利用した技術が次々と開発され、社会インフラへの応用が始まった。


 二年目から三年目にかけて、各国で「ダンジョン管理法」が制定される。この頃から、魔石を動力源とする装備や、魔物の素材を使った特殊な武具が開発され始め、冒険者の生存率は飛躍的に向上した。


 そして四年目以降、ようやく現在のような包括的なシステムが確立された。ダンジョン庁の設立、冒険者ギルドの国家認定、安全基準の標準化――。


 魔石炉、魔導駆動車、魔導医療装置――俺がいた"あっちの世界"と酷似した技術が、この世界でも現実になり始めていた。ただし、その普及度は地域によって大きく異なり、都市部での実用化がようやく本格化したのは、ここ一年のことだった。


「……まるで、向こうの世界だな」


 俺が生き抜いた異世界でも、資源は常にダンジョンの奥深くにあった。魔物を倒し、素材を持ち帰り、飯を得る。それ“冒険者”という生業だった。


 じゃあ、普通の仕事は?

 俺は試しに求人サイトを開き、自分の履歴書を頭の中で組み立ててみた。


「最終学歴:高校卒業」

「職歴:なし」

「空白期間:五年間」


 理由? 「異世界で生きてました」――笑うしかない。人事部が卒倒する。

 

 そもそも、他人と足並みを揃え、机に向かう自分の姿が想像できなかった。命を賭けてきた人間が、今さら「いらっしゃいませ」なんて口にできるわけがない。


 無理だ。理屈じゃなく、身体が、魂が拒絶している。


 俺には、この道しかないのかもしれない。

 スーツを着て頭を下げるより、剣を手にして前へ進む。そのほうが、ずっと“自分らしい”。


 あちらは無法地帯だったが、こちらは違う。法があり、ルールがあり、管理がある。命のリスクはあるが、それでも"整備された探索"なら――。


 そんな考えを巡らせていると、ふと画面に表示された一つの記事に目が止まった。


『冒険者の社会的地位向上と課題について』


 記事によれば、冒険者という職業は社会的認知を得る一方で、多くの課題を抱えているという。高い死亡率、社会保障の不備、そして一般市民との意識格差。さらに、ダンジョンから戻れなくなる「行方不明者」の問題も深刻化していた。


 だが、同時に夢を追う若者たちにとって、冒険者は憧れの職業でもあった。従来の仕事では得られない高収入、冒険への憧れ、そして「英雄になれる」という幻想。


 俺は画面を閉じ、窓の外に目をやった。あの世界での記憶が、鮮明に蘇る。


 仲間たちと焚き火を囲み、明日への不安を語り合った夜。強大な魔物と対峙し、互いの背中を預け合った戦い。そして、最後の戦いで失ったもの。


(……ヌルゲーにもほどがあるな)


 思わず、乾いた笑いが漏れた。

 だが、悪くない。


 ――よし、決めた。


 俺はスマートフォンで、「冒険者 登録」と検索し、一番近くにあるダンジョン管理所の場所を確認した。正式名称は、「ダンジョン庁 東京メインダンジョン管理所」というらしい。

 

 日が傾きかけた街を歩く。スーツ姿の会社員、学校帰りの学生、買い物客。誰もが、俺とは違う"日常"を生きている。

 

 目指す建物は、思ったよりも近代的で、ガラス張りのエントランスが夕日に照らされていた。だが、その威圧感は俺が想像していたものとは大きく異なっていた。


 ここは確かに、この世界の"新しい常識"の最前線なのだ。五年前には存在しなかった職業、システム、そして生き方。俺が失踪していた間に、世界は静かに、しかし確実に変貌を遂げていた。


 エントランスの前で、俺は一度振り返った。街に溶け込んで生きる人々。彼らにとって、冒険者という存在はまだ「特別」で「異質」なものかもしれない。


 だが、俺にとっては、この道こそが「普通」だった。剣を持ち、未知に立ち向かい、生き延びる。それが、俺の知る唯一の生き方だった。


 俺は決意を固め、自動ドアに向かって歩き出した。新しい戦いの舞台へ。この世界での、俺なりの"帰還"への第一歩として。

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