第7話 遺された記録
エリア・ゼロからの脱出は生還だった。忌まわしい「世界の傷跡」から離れた山陰に身を潜め、短い休息を取る。肉体的、精神的な疲労は想像を絶した。脳裏には、歪んだ空間、蠢く影、そしてあの研究施設最深部の記録の断片がこびりついて離れない。特に僕にとっては、エリア・ゼロでの体験は自己の存在を揺るがすものだった。右腕が意思を持たないかのように熱を帯び、周囲の歪んだエネルギーに引きずられて暴走しかけたあの瞬間。施設から離れるにつれて力の奔流は収まりつつあったが、体の奥底にはまだ奇妙な違和感と不安定さが残っていた。
「…ガストさん、本当に大丈夫ですか?」
焚き火の光の中、キーシャが心配そうに僕の顔を覗き込んだ。瞳にはエリア・ゼロで目の当たりにした恐怖と僕の状態への深い懸念が浮かんでいる。
「あなたのマナの流れも、まだ少し…不安定です」
「ああ、大丈夫だよ…少し、疲れただけだ」
僕はできるだけ明るく振る舞ったが、声はかすれていた。眠れば悪夢を見る。右腕にはまだ微かな痺れと熱感が残っている。
「本当に…? あなたの意識が、時々、どこか遠くへ行ってしまっているように感じますわ。まるで、あの場所の歪んだエネルギーが、まだあなたの中に残響しているかのように…」
キーシャの言葉は鋭く、僕の不安の核心を突いていた。
「……心配かけてごめん。それより、あの記録…キーシャが回収したデータチップは?」
僕は話題を変えた。
キーシャは少し躊躇したが、頷き、ポーチからデータチップを取り出した。
「はい、ここに。ですが、暗号化とプロテクトが非常に強固です。それに、記録されていた言語も現代のものでは解読できない部分が多い。今のわたくしたちの設備では、完全な解析は難しいかと…」
彼女は悔しそうに唇を噛んだが、それでも諦めずにポータブル端末にデータチップを接続し、解析を始めた。画面にはノイズ混じりの文字列や破損した図形が明滅する。僕とデアジュは固唾をのんで見守る。
しばらくして、キーシャが「…!」と息を呑み、画面を食い入るように見つめた。
「断片的ですが…見てください!」
彼女が指さした画面には、複雑なエネルギーパターンを示す図と「O-Core」 という文字、そして南方の険しい山岳地帯を示す座標が表示されていた。
「『オリハルコン・コア』…エリア・ゼロの記録にあった、あの制御不能なエネルギー源…それが、この南の座標に存在すると…? さらに、このコアを運用していた施設のコードネームらしき記述も…『オリハルコン・フォージ』…! エリア・ゼロと技術的に深い繋がりがあった場所のようですわ…!」
キーシャはさらに端末を操作する。今度は、禍々しい非対称な幾何学模様と、「監視プロトコル」「存在固定フェーズ」といった不穏な単語が断片的に浮かび上がった。
「…これは…エリア・ゼロの記録で一瞬だけ確認された、あの『シファーグ』に近い波長をもつ存在…? その反応が、オリハルコン・フォージでも記録されています…! シファーグの波長とは複素共役的な位相をもっています。いうならばシファーグβ」
キーシャの顔から血の気が引いていく。情報は断片的だが、その一つ一つが僕たちの理解を超えた、不吉な可能性を指し示していた。
「またヤバそうな話だな。コアだのシファーグもどきだの…聞いただけで頭が痛くなるぜ」
デアジュが腕を組み、忌々しげに吐き捨てる。僕は、「オリハルコン・コア」という言葉に胸の奥がざわつくのを感じていた。エリア・ゼロで僕の力が暴走しかけた恐怖が蘇る。
「…あの場所で、俺の力が暴走しかけたのは、きっと偶然じゃない。このままじゃダメだ。またいつ、誰を傷つけるか分からない…。自分の力のことを、ちゃんと知って、制御できるようにならないと…!」
あの無力感と恐怖を、もう二度と繰り返したくなかった。
「ガストさん…」
キーシャが僕を案じるように見つめる。そして、彼女は強い決意を目に宿して続けた。
「わたくしも、看過できません。あのシファーグβ…記録の特徴からすると、シファーグと同等の脅威である可能性があります。そして、ゼヒラ・シグ博士…彼は、エリア・ゼロでのガストさんの『共鳴』を予測していた節があります。彼の目的は、本当にわたくしたちのためなのでしょうか…? それとも、ガストさんを利用して、何か別の…恐ろしい目的を達成しようとしているのでは…?」
彼女の声には、ゼヒラ・シグへの明確な疑念と、僕への強い責任感が籠っていた。
「決まってんだろ」
デアジュが、焚き火に枝をくべながら低い声で言った。
「あのクソ爺は信用できねえ。最初からな。俺たちを便利な駒か、実験動物くらいにしか思ってねえよ。ガストの力も、お嬢様の知識も、全部自分の『観測』とやらのためだ。エリア・ゼロから生きて帰れたのだって、運が良かっただけか、あるいは、まだ『データ』が足りなかっただけかもしれねえ。次も奴の言う通りにしてたら、今度こそ用済みでポイ捨てだ」
彼の言葉は辛辣だが、真実味を帯びていた。
「…ああ。もう、誰かの指示で動くのはやめよう」
僕は拳を握りしめた。エリア・ゼロでの経験、犠牲になったアッシュヒルの人々、そして親方の顔が浮かぶ。
「僕たちの問題は、僕たちで解決するしかない。それに、そのシファーグβがアッシュヒルを襲った奴らや、これまでの悲劇に関係があるなら…僕自身の手で終わらせる」
「…ええ」
キーシャも力強く頷いた。
「わたくしも、ゼヒラ・シグ博士に頼らず、自分たちの手で真実を突き止めたい。アカデミアで学んだ知識も、この魔法も、そのためだけに使います。そして、ガストさん、あなたの力を制御する手助けも…わたくしにできる限りのことをしますわ。決して、あなたをゼヒラ・シグ博士の実験道具にはさせません」
「へっ、やっと話が分かってきたじゃねえか、二人とも!」
デアジュが立ち上がり、ニヤリと笑った。
「よし、決まりだ! オリハルコン・フォージとやらに殴り込みだ! 観測者だろうがコアだろうが、俺たちの手でぶっ壊して、ついでにあのイカサマ博士にもデカい貸しを作ってやろうぜ!」
ゼヒラ・シグへの疑念は、エリア・ゼロでの過酷な経験を経て、僕たちの中で確かな警戒心へと変わっていた。彼に頼れば、あるいは安全に情報を得られるのかもしれない。だが、それは同時に、彼の掌の上で踊らされ続けることでもある。僕たちは、自分たちの意志で未来を掴むことを選んだ。たとえそれが、より険しく、危険な道だとしても。オリハルコン・フォージへ。
僕たちは、互いの目を見て頷き合い、新たな決意を胸に、再び立ち上がった。夜明けの光が、遠い南の山々を微かに照らし始めていた。僕たちの、本当の意味での反撃が、今、始まろうとしていた。
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