限りなく透明な

N氏@ほんトモ

第1話


「限りなく透明って事は、それはもう透明だろ」

「だな」

「止まない雨はないって事は、その時点では雨が降ってるって事だし、もうすぐ春ですねって事は、その時点では冬だし」

「そりゃそうだろうけど、お前、何かあったのか?」


 タカシの言葉が、喫茶店のガラスに映る雨粒みたいに、ぽつぽつと落ちてきた。音もなく、でも確かにそこにあるように。俺は冷めかけのミルクティーを前に、スプーンをくるくると回し続けた。


 あぁ、雨。降ってる。降っているという状態は進行形、つまり、今も、まだ、ずっと、続いている。止まない雨はないって言うけど、じゃあ今この瞬間だけを切り取れば、雨は「止む前」であり「終わらない」ものであり、つまり「永遠」だ。言葉ってのは見えるようで見えない。見えないようで見えている。ぐるぐるの罠。トラップ。言葉の迷路。出口のない言い回し。



「いや、別に。何かあったわけじゃない。たださ、言葉って、なんか変だなって」


 言葉。音であり、意味であり、罠であり、希望。

 タカシは眉を上げて、コーヒーを一口すすった。


「変って、どんな風に?」


「ほら、例えば『限りなく』ってさ。この言葉自体、限りがあることが前提の言葉だろ? 『限り』がなければ『限りなく』なんて言葉は生まれなかった。でも『限りなく』は『限り』が無いって意味だろ」


「ハハ、禅問答みたいだな、お前」


 タカシは笑った。でも、笑いの奥に小さな沈黙が見えた。言葉じゃなく、気配の沈黙。タカシは少し真剣な目で言った。


「でもさ、言葉ってのはそもそも矛盾の塊だろ。『愛してる』って言っても、愛が消えることだってある。『永遠』って言っても、永遠なんてない。言葉はただの影だよ。実物じゃないさ」


 影か。俺は窓の外に目をやった。雨が街灯の光を弾いて、路面がキラキラしてる。まるで液体の鏡。もし影が光の存在を証明するなら、この雨はきっと、見えない何かの存在を証明してる。


 俺はスプーンを止めた。冷めかけのミルクティーは、いつの間にか冷めたミルクティーになっていた。冷たい。でも、どこかぬくもりが残っている気がした。って事はまだ冷めかけのミルクティーか。ぬくもりってのも曖昧だ。手のひらの温度の記憶なのか、心の奥の錯覚なのか。


「じゃあさ、『雨が上がる』ってどういう意味だと思う?」

 唐突に、俺は聞いた。

 タカシは顎を撫でる。「んー、雨が止むってことだろ、普通に」

「でもさ、『上がる』って、上に行くイメージだろ? 雨が空に戻っていく感じ。なんか、昇天みたいじゃん」

「ハハハ、昇天! じゃあ、雨が降るのは堕天か。天使が空から落ちてきて、地面に涙を落としてるみたいな」

「堕天……。じゃあ、俺たちがこうやって喋ってるのも、言葉が堕天してるってことかもな。頭の中のキラキラした思考が、口から落ちて、音になって地面で跳ねる」

「跳ね返って、それをまた誰かが聞いて、別の意味で拾っていく。言葉の伝言ゲームか。どんどん意味が変わって、最後には何言ってたか分かんなくなる。だから言葉って、裏切るんだ」

「でも、裏切るからこそ、信じられる瞬間がある」


 俺はそう言って、雨粒を数える。数えきれないほどの言葉が、空から落ちてくる。ふと思い出すのは、昨日、駅のホームで見た女の子。


 透明な傘を持って(透明って言うが、見えてる時点で透明ではないのか)、濡れた髪を払う仕草。首をかしげて、笑う口元。あの一瞬だけ、時間が止まった気がした。いや、止まったんじゃない。ゆっくりになった。スローモーションの感情。再生できない記憶の一枚。その後彼女、友達になんて言ったっけ「もうすぐ春だね」って。その言葉が引っかかっていた。もうすぐ春。でも今は冬。未来形の慰め。予告編の幸せ。透明じゃない透明な傘を持った少女の透明感ある笑顔。ん?透明感ある笑顔?透明なのに「ある」?


 喫茶店を出ると、雨は小降りになっていた。タカシは傘をさして、「じゃあ、またな」と手を振った。彼の傘は一切の迷いのない真っ黒だ。俺は傘持ってなかったから、フードをかぶって歩き出す。雨は冷たくて、でもどこか優しかった。まるで言葉みたいに、触れると消えるけど、ずっとそこにある。


 街のネオンが、濡れた地面でにじむ。「OPEN」の看板が、雨の滲みで「HOPE」に見えた。希望の“O”が開かれた扉に見えて、その奥に光があるような気がした。言葉ってのは、こうやって勝手に形を変える。もしかしたら「CLOSE」が「CLOUD」に見えたり、「EXIT」が「EXIST」になったりする日もあるかもしれない。言葉は風景の中で変幻する。読まれることを前提にしながら、読む者によって姿を変える、液体文字。


「限りなく透明な雨」


 呟く。見えないけど見える。俺はこの雨を確かに見てる。感じてる。音もある。触れると冷たい。なのに、透明。


 じゃあ、透明って何だ?


 見えてるのに見えないもの。存在してるのに、存在を否定するもの。言葉にすればするほど、実体が遠のいていく。言葉とは、つかめない真実の代用品。


 ふと、昨日ホームで見た女の子を思い出した。彼女の笑顔も、限りなく透明だった。あの笑顔は、俺にとっての「もうすぐ春」だったのかもしれない。でも、今はまだ冬だ。雨が降ってる。止まない雨はないって言うけど、じゃあこの気持ちも、いつか止むのか?


 その夜、部屋に帰ってからも、俺の頭の中には透明が居座っていた。居候のようにちゃっかり居座り、しかも家賃を払わないくせに、俺の心の片隅でやけに大きな存在感を放っていた。


 スマホの画面に、あの子の笑顔はない。写真を撮ったわけでもないし、連絡先を交換したわけでもない。つまり、記録はゼロ。でも記憶はある。たった数秒の、視線の交差。その一瞬の視交差点が、俺の心を全部書き換えてしまったような気がした。


 カーテンを開ける。まだ雨は降っていた。いや、雨というより言葉の粒が空から落ちてきているようだった。


 次の日、俺はまた同じ喫茶店にいた。タカシはいない。壊れかけのラジオから懐かしのJ-POPが流れる。いや、ちゃんと流れてるって事は「壊れかけ」ではないか。窓の外では、雨が上がっていた。空は灰色。白でもなく、黒でもなく、その中間。グラデーションのような曖昧な空気。


 俺はノートを開いて、ペンを走らせた。


「限りなく透明な雨は、限りなく堕天する。

言葉は影。でも影があるから、実物が輝く。

『もうすぐ春だね』なんて言葉に、俺はまだ冬を感じる。

でもその冬の冷たさが、春を信じさせる。

未来形の慰め。予告編の幸せ。」


 言葉はいつか消える。けれど、消えるからこそ、美しい。残らないからこそ、残る。俺が書いたこの言葉も、紙の上にある間だけの命だ。でも、その命がある限り、俺はそれを信じる。限りなく透明で、限りなく本物の、矛盾のかたまり。


 そんな言葉に、俺は今日も少しだけ、救われる。


<了>


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