第19話 理想の生活

朝霧が村を包み込んでいた。


 山あいの村には、ひんやりとした空気が漂い、草葉には夜露が滴っていた。鶏の鳴き声と、薪を割る音、井戸の水をくむ音――それらが混ざり合い、村の一日が始まる音楽となっていた。


 ルゼルは小高い丘の上に立っていた。


 村を一望できるその場所から、人々の営みがよく見えた。子どもたちが笑い、老人が畑を耕し、若者が協力して炊事や修繕をしている。


 その中央には――健司の姿があった。


 少年に薪の割り方を教えながら、笑っている。


 昔の彼しか知らない者が見れば、きっと信じられない光景だろう。

 だが、ルゼルはただ静かにその光景を眺めていた。


「……こういう顔を、私は一度も見たことがなかった」


 その声に、アイリが後ろから近づいてくる。


「そうかもね。でも、私はずっと知ってたよ。健司が、こういう表情ができる人だってこと」


「アイリ……君は変わっていないな」


「ルゼルも。変わっていないけど、たぶん……気づいたんだと思う。“戦いの外”にも、真実はあるって」


 ルゼルはアイリの横顔を見つめた。


 その目はまっすぐで、決して揺らいでいない。王の側近としてではなく、一人の“人”として、健司の隣に立っている女性の目だった。


 丘を下ると、健司がルディオ、カリナと共に焚き火の周囲で朝の準備をしていた。


「おはよう、ルゼル。よく眠れたか?」


「……ああ。静かすぎて、むしろ落ち着かなかったくらいだ」


 そう言って椅子に腰を下ろす。


 カリナは氷を砕いて水を冷やし、ルディオはいつものように花を並べていた。咲き誇る小さな花々が、今朝も村の広場を彩っている。


 健司が湯気の立つ湯のみを差し出した。


「薬草茶だよ。ルディオが選んだやつで、落ち着く効果がある」


「……ふむ」


 一口すすると、淡い甘みと土の香りが広がる。戦場で飲んでいた黒いコーヒーとは、まったく違う味。


「驚いた。これは……良い」


「でしょ? この村の暮らし、悪くないだろ?」


 健司の無邪気な笑みに、ルゼルは肩をすくめるように微笑んだ。


「……まったく。君は変わりすぎた。けれど、ようやく理解したよ」


「何を?」


「君は、王ではなかった。いや、“王でいよう”としすぎた。私たちも……君をその役に押し込めていたのかもしれない」


 その言葉に、健司は目を伏せた。


「……俺も、みんなの理想に応えようとしてた。正しさとか、勝利とか、国のためとか――でも、そんな俺に、みんながついてきてくれたんだろ?」


 カリナが静かにうなずく。


「それは、健司が誠実だったからだ。理想に縛られていても、私たちに嘘はつかなかった」


 ルディオは笛を膝に置いて言った。


「けれど、今の君は、もっと“正直”だね。花に水をやる君の背中は……昔よりずっと軽い」


 健司は顔を上げた。そこには、懐かしい仲間たちの表情があった。

 そして、彼の前に座るルゼルが、ゆっくりと口を開いた。


「……私は、君を探していた。あの王城から消えたとき、君がどれほど“逃げた”と思っていたか、想像できるか?」


「できるよ。……でも、俺は“見つけた”んだ。俺にとっての、ほんとうの国を」


 ルゼルは少し考え込んでから、広場を見渡した。


「理想の国、か。王がいて、軍がいて、秩序があって、敵を排除して……。でも、この村にはそれがない」


「ないけど、生きていけるんだよ。誰も命令しないし、従わせない。でも、皆が自分で考えて、誰かを助けようとしてる」


 沈黙。


 やがてルゼルは、背を伸ばして立ち上がった。


「……理想の生活だな」


 その一言に、風が吹いた。朝の光が差し込み、花々がそっと揺れる。


「この村に“王”はいない。だが、中心には君がいる。君はもう、支配者ではなく、“導く者”になったんだな」


 健司は照れくさそうに笑った。


「導くというより、ただ一緒に生きてるだけだよ。みんなと」


「それが……一番難しいことだ」


 ルゼルは、ゆっくりと歩き出した。丘の上へ戻る足取りは、もう昨日までの重さがなかった。


 見送る健司に、背中越しに一言だけ返す。


「今夜、話をしよう。また一度、私たちの関係について」


 健司は微笑み、軽くうなずいた。


「うん。待ってるよ――友達として」

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