第18話 夜の来訪者

夜の帳が村を優しく包んでいた。


 かすかに炊かれる夕餉の香りと、子どもたちの笑い声が、心地よい静寂に溶け込んでいく。山々に囲まれたこの村には、風の音も穏やかで、まるで世界の端にいるかのような安心感があった。


 だが、その夜は少し違った。


「帰ってこれて、よかった」


 村の広場で焚き火を囲みながら、健司はぽつりとつぶやいた。アイリがその隣に座り、赤い外套を肩にかけながら、いつものように微笑んだ。


「お疲れさま、健司。今日はちゃんと……君の言葉で話せてたね」


 「僕」は少し照れながら笑い、頷いた。


「ありがとう、アイリ。君がいてくれたから、話せたんだ」


 その言葉に、アイリの表情が一瞬だけ緩み、けれどすぐに落ち着いた調子でこう返した。


「ふふ。君は昔から、肝心なときに真っ直ぐになるんだから」


 焚き火の灯りに照らされて、2人の影が地面に揺れている。


 少し離れた場所では、ルディオが子どもたちに笛を聞かせていた。幻想的な音色が夜風に溶け、まるで夢のような空間を作っていた。


 カリナは木の幹に背を預けて、腕を組んだままじっと空を見上げていた。


 皆がそれぞれの時間を過ごしていた――そのとき。


 コン、コン。


 村の門を叩く音が、静寂を破った。


 それは大きな音ではなかったが、誰もが瞬時に気づいた。こんな時間に村を訪れる者などいないのだから。


 健司は立ち上がった。アイリもすっと横に立つ。すでに警戒心を高めたカリナは、腰の氷刃に手をかけていた。


 ルディオは子どもたちをやさしく下がらせ、手を広げて結界を張る準備をしている。


 そして――


 門の影から現れたのは、一人の女性だった。


「……ルゼル」


 健司がつぶやいた。


 鎧ではなく、今は軽装の外套に身を包み、仮面も軍の印もつけていない。ただの一人の女性として、そこに立っていた。


 だが、その背筋の伸びた立ち姿と、凛とした気配には、やはり“副官”としての風格が滲んでいた。


「夜分遅くに、申し訳ありません」


 静かな声が、広場に響いた。


 誰も動かなかった。いや、動けなかった。


 その場にいた誰もが、ルゼルの“意図”を探ろうとしていた。


 その中で、健司だけが一歩前に出た。


「……ようこそ。こんな山奥まで、わざわざ」


「あなたが“理想”と呼んだ村を、この目で見たかった」


 それだけ言って、彼女は村の奥を静かに見回した。


 畑の区画、子どもたちの小さな遊び場、焚き火を囲む仲間たちの姿――。


 ルゼルの目がほんの少しだけ細められる。


「不思議な場所だ。……戦争の香りがしない」


「ここには武力はない。ただ、みんなが助け合って生きてる」


 健司の言葉に、ルゼルはわずかに首を傾げた。


「だが、君がいる。それだけで、争いは寄ってくる」


「……その通りだと思う。俺は“元王”だ。その過去がある限り、ここは無関係ではいられない」


「なら、なぜこの村に根を下ろした?」


「ここには、俺が欲しかったものがあった。争いをなくす“力”じゃなく、“意味”があったんだ」


 ルゼルは沈黙した。


 健司が一歩、彼女に近づく。


「ルゼル。今日は来てくれてありがとう。もし、ここで一夜を過ごしてくれるなら――明日の朝、この村のことをもう少し知ってくれたらうれしい」


「……誘っているのか?」


「もちろん。だって、まだ俺たちは……友達になっていない」


 その言葉に、アイリがふっと笑った。ルディオは音を止め、カリナは口元をわずかに緩めた。


 ルゼルは黙って、しばらく夜空を見上げていた。


 山の稜線にかかった月が、静かに光を投げている。


「……では、一晩。滞在させていただこう。私は“客”として、この村を見る」


「歓迎するよ」


 健司は、そう言って手を差し出す。

 ルゼルは一瞬だけためらい――けれど、やがてその手を取った。


 その手の温もりが、冷たい氷を少しずつ溶かしはじめていた。


 それはまだ、和解ではない。

 だが、確かに歩み寄りの第一歩だった。

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