第二部 シーン5

《千歳》

九月も終わりが近づき、日中の光にも冬の気配が混ざり始めた。家は、相変わらず真新しい顔をしていたが、わたしにとって、もはや安らぎの場所ではないことは変わらない。

夜ごと聞こえる不審な音も、特定の場所から漂う底冷えする空気や、肌にまとわりつく湿気と古びた木の匂いは、わたしがどんなに目を背けようとしても、わたしの五感を苛み続けた。夫は、そんなわたしの訴えを、一貫して「疲労」や「気のせい」として処理した。彼の合理的な世界に、わたしの感じる不穏な現実が入り込む余地はない。

「また、あの音がしたんだ。今度は、もっとはっきり。すぐ上の部屋から、何かを引きずるような音が…聞こえて…」


夕食の席で、わたしは震える声で夫に告げた。今日、わたしは一日中、その音に怯えていた。家の中を歩き回るたびに、背後から音の気配が追いかけてくるような錯覚に陥り、何度振り返ってもそこには何もない。

夫は、スプーンを持つ手を止め、顔を上げた。彼の顔は、疲労の色が濃く、その口元には、諦めにも似た微かな笑みが浮かんでいた。


「千歳。僕には、何も聞こえない。君が疲れているだけだろう。無理をして、幻聴を聞いているんだ。」


彼の言葉は、わたしを気遣うようでいて、その実、わたしを深く突き放すものだった。幻聴。やはり彼は、わたしが精神的に病んでいると、そう決めつけているのだ。彼の言葉を聞くたびに、わたしの心は、深く、深く沈んでゆく。

「でも、本当に聞こえるの。この家の中に、何かいると思う。きっと、昔から……」

わたしが、前の住人のことを口にしようとすると、彼は即座にわたしの言葉を遮った。

「千歳。もうその話はよしてくれ。昔何かあったかはこの家とは何の関係もない。この家は新築だ。そこに何かがいるなんてありえないだろう。」

彼の声は、静かだったが、そこには一切の妥協を許さない、硬質な拒絶が含まれている。拒絶が、わたしの心を凍えさせ、わたしは絶望を深めた。わたしが感じている恐怖を、彼は一片も共有してくれない。それどころか、わたし自身の感覚を、否定するのだ。

それ以来、わたしたちの間に、見えない溝が生まれ始めた。

食卓での会話は、次第に減っていった。わたしは、自分の感じることを口にすることを躊躇するようになった。どうせ理解されない。どうせ、気のせいにされる。そう思うと、言葉を発する気力が失せてゆくのだ。夫は、わたしが話すのを待つことなく、黙々と食事を摂るようになった。隣に座っているのに、わたしたちの間には、厚い壁が立ちはだかっているようだ。

夜になると、その溝はさらに深まった。夫は、書斎に籠もり、僕の仕事に没頭する。わたしは、リビングで一人、静まり返った家の中で、音に怯えながら過ごす。寝室に入っても、夫はすぐに寝息を立て始める。彼が深い眠りについている間も、わたしの耳には、絶えず不審な音が響いていた。

ギィ、ギィ。

トントン。

子供のすすり泣くような声が、時折、微かに聞こえる。

わたしは、寝台の中で、夫に背を向け、一人、毛布を頭から被った。彼の隣にいるのに、これほどまでに孤独を感じたことはなかった。彼の穏やか寝息が聞こえるたびに、わたしは、この恐怖を共有できないことへの絶望を深めた。彼は、この家が孕む闇から守られている。だが、わたしは、たった独りで、その闇と向き合わされている。

わたしたちの触れ合いも、次第に減っていった。いまは、温かい触れ合いはほとんどない。彼のわたしへの配慮は、わたしの「精神的な問題」に対する、事務的な対応へと変わっていった。まるで、わたしを、愛情を注ぐべき「妻」ではなく、「治療すべき対象」として見ているようであった。

わたしの心は、彼に対する不信感と、深い孤独に蝕まれていった。彼は、わたしにとっての唯一の理解者であり、支えであるはずだった。だが、今、彼は、わたしの恐怖から目を背け、わたしを孤立させている。この家で起きている異変は、もはやわたしだけの問題ではなかった。それは、わたしたち夫婦の関係そのものを、破壊してゆく毒のように作用していた。

翌日の朝、夫が出勤した後、わたしは無意識のうちに、二階の奥にある、あの冷気を放つ部屋の前に立っていた。固く閉ざされた扉からは、相変わらず冷たい空気が漂っている。わたしは、震える手で、その扉に触れた。ひんやりとした木の感確が伝う。その奥から、微かに、何かの気配が押し寄せてくるような錯覚に陥った。音や匂いとは異なる、もっと直接的な、しかし漠然とした「存在」の感覚だ。

わたしは、もう、夫に何を言っても無駄だと悟った。この家で何が起きているのか。その真実を突き止めるには、わたしが、たった独りで、この闇の中へ足を踏み入れるしかないのだ。夫は、わたしの味方ではなかった。いや、彼は、わたしが見えているもの、聞こえているものを、最初から信じていなかったのだ。

この溝は、もはや埋められるものではないのかもしれない。

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