《千歳》

九月下旬、家は、真新しい外観とは裏腹に、わたしを深く冷え込ませていた。夫は相変わらず多忙な日々を送っていて、わたしが口にする「音」や「気配」のことには、合理的が過ぎる説明しか与えない。彼は、わたしの訴えを「疲労」や「気のせい」として処理し、わたしの精神状態に微かな懸念を抱いているようだった。しかし、彼には、この家でわたしが感じている不穏な現実が、まるで理解できていないのだ。

朝、目覚めると、枕元に置いていたはずのガラスのコップが、床に落ちて割れていた。昨夜、確かに寝台の脇に置いたはずなのに。その破片が、朝日に鈍く光り、まるでわたしを嘲笑っているかのようだ。

心臓が、ドクン、と大きく脈打つ。

何かが、この家の中にいる。

そう確信した瞬間、全身に鳥肌が立った。

だが、夫に告げたところで、彼はきっと「寝相が悪かったのだろう」と言うだけだ。

彼に言っても無駄だ。そう思いわたしは、割れたガラスの破片を震える手で拾い集め、何事もなかったかのようにゴミ箱に捨てた。


日中の孤独は、耐え難いものになっていた。夫が出勤すると、家の中は、わたし一人だけになる。その静寂は、もはや安らぎではなく、わたしを閉じ込める檻のように感じられた。耳を澄ますと、聞こえるのは、自分の呼吸の音と、心臓の鼓動だけだ。だが、その静寂の奥から、常に何かが蠢いているような気配がしてしまう。

廊下の、寒い部分の扉から入る部屋には、近づくことすらできなくなった。二階の奥にある部屋だ。そこは、扉を開ける前から、ひどい冷気を放っている。まるで、その部屋だけが、この世のものではないかのように、空気の質が違う。

その部屋の前を通るたびに、わたしは足早に駆け抜ける。

その冷気に触れると、身体の芯まで凍り付くような感覚に襲われ、吐き気が込み上げた。

夜になると、わたしの恐怖は頂点に達した。夫が帰宅し、電気が点き、声が響く間は、かろうじて正気を保っていられる。だが、彼が書斎に籠もり、わたしが一人で過ごす時間になると、家は再び、あの不気味な静寂に包まれる。

音は、より一層、明確に執拗に聞こえるようになった。

ギィ、ギィ、と何かが引きずられるような音。それは、家のどこかを移動しているかのようだ。最初は遠くで聞こえていた音が、ある日は階段を上り、またある日は、すぐ下の階から聞こえてくる。まるで、何かが、わたしに近づいてきているかのように。

夜中に、ベッドの中で目を覚ますと、天井から、トントン、という規則的な音が聞こえることがある。それは、まるで誰かが、指で軽く天井を叩いているかのように不自然な程に自然だ。その音が、わたしの頭上を移動する。徐々にわたしの寝台へと近づいてくる。わたしは、息を潜め、毛布を頭から被り、その音が過ぎ去るのを待つしかなかった。心臓の音が、ドクドクと耳元で響き、全身から冷や汗が噴き出した。

夫に訴えても、彼はいつも同じ答えを繰り返す。

「気のせいだ」

「疲れているんだ」

彼の言葉は、わたしを安心させるどころか、わたしが独りでこの恐怖と向き合わなければならないという現実を、突きつけているだけだった。彼には、何も聞こえないのだ。彼には、何も感じられないのだ。わたしだけが、この家に巣食うかもしれない「何か」の存在に、気づいてしまっている。

午後、わたしは庭に出た。新鮮な空気を吸い、心を落ち着かせようと努めた。しかし、古い木々の向こうから、冷たい風が吹き付け、わたしを震え上がらせる。

その時、背後から、微かに、少女のすすり泣く声が聞こえたような気がした。

ヒック、ヒックと子供が声を殺して泣いているような細い声だ。わたしは、ハッと振り返った。そこには、誰もいない。だが、その声は、確かにわたしに届いた。それは、どこか遠くから聞こえる幻聴ではない。まるで、わたしのすぐ背後で、誰かが泣いているかのように、鮮明に聞こえたのだ。

わたしは、恐怖のあまり、その場に立ち尽くした。足がすくみ、動くことができない。そのすすり泣きは、次第に大きくなり、わたしを呼ぶかのように、ヒック、ヒックと繰り返される。

「そこにいるの……?」

わたしは、震える声で尋ねた。だが、答えはない。ただ、すすり泣く声だけが、わたしに纏わりつく。それは、悲しいというよりも、わたしを誘い込むような、不気味な響きを持っている。

わたしは、叫び出しそうになるのを必死で堪え、家の中へと逃げ込んだ。玄関の扉を閉め、鍵をかけた。

だが、この扉が、わたしを本当に守ってくれるのだろうか。外の風の音、鳥の声、不自然な音でなくてもすべてが、この家の中では、異質な音に聞こえる。

夜、夫が帰宅した時、わたしは彼に、すすり泣く声が聞こえたことを告げた。夫は、わたしの顔をじっと見つめ、そして、深くため息をついた。


「千歳。君は、少し疲れているんだ。病院に行くべきだ。」


彼の言葉は、冷たく、わたしの心に突き刺さった。彼は、わたしの訴えを、もはや幻聴としてしか捉えていない。わたしが、精神的に病んでしまったと、決めつけているのだ。そのことに、わたしは絶望した。彼は、わたしの最も信頼する人であるはずなのに、わたしが直面している恐怖を、一切理解してくれない。

わたしの心は、次第に孤立し、追い詰められていった。夜ごとの不審な音。原因不明の冷気。常にまとわりつく湿気と古びた木の匂い。誰も信じてくれないという現実。

この家は、もはやわたしにとって、安らぎの場所ではなかった。

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