《時継》

わたしの中で、空の色と言えば、薄鈍色だ。

青い空は、わたしの目には映らない。見た覚えすらなく、わたしは暗い空の中に生きてきた。

街灯がアスファルトを滑り、影を刻むように、暗闇と薄闇の中を交互に停滞する。

わたしの中の空気は停滞し、一瞬変わっても、喜びを感じない。

常にぼんやりと、視界は霞み、どこからか澱みがわたしを雁字搦めにしていた。


ふともの思ひから冷めると、洋館の窓を叩く雨音だけが、やけに鮮明に耳に届く。わたしにとって、この洋館の時間は、常に一定の、緩やかな速度で流れている。書斎の奥、重厚な革張りの椅子に深く身を沈め、わたしは手元の書類に目を落とした。インクの匂いや、紙の乾いた感触、どこからか漂う古い木の香りが、わたしの思考を包み込む。外の景色も、季節の移ろいも、遠い幻のように、わたしの意識には届かない。

苦しい。常にもがいてきた。

昔のことを考えると、震えが止まらない。だが、具体的な映像は浮かばない。

ただ白く、霞んだ景色が流れるだけだ。



朝食の食卓は、毎日変わらぬ配置で、その中央には、わたしが座る。右手に妻の八重、左手に長女の桔梗が座り、豪華な朝食を食する。銀食器の微かな輝きが、鈍い光を反射し、湯気が立ち上るカップからは、薄い紅茶の香りが漂うのが普段の光景だ。彼女たちの会話は、ほとんどわたしの耳には入ってこない。必要最低限の言葉しか交わさないのが、この家の流儀だ。ただ、食器が触れ合う微かな音と、時折聞こえる使用人へのわたしの指示の声だけが、空間を満たすのだ。

食卓の端、窓から最も遠い場所には、小さく粗末な木製の椅子が引き寄せられている。そこに座る次女、舞蝶の存在は、わたしの視界の隅に、常にぼんやりと映ってはいる。だが、彼女が何を考え、何を感じているのか、わたしは知る由もないし、知ろうとも思わない。彼女の皿に盛られる食事が、他の者たちと異なることにも、わたしは関心を払わない。それは、この家における、揺るぎない秩序の一部であり、わたしが築き上げた、無駄のない摂理である。



食事が終わると、わたしはすぐに書斎に向かう。家族の、特に舞蝶の顔を見たくないため、日中の時間は、書斎で過ごすのが常だ。仕事の書類に目を通し、経済の動向を分析し、時には遠方からの客人を招き淡々と商談を進める。わたしの意識は、常に、この家の外にある、広大な世界に向けられている。家庭内の些末な出来事や、娘たちの成長など、わたしの関心の範疇ではない。

八重が、桔梗を伴い、応接間へと移動する足音が、絨毯の上で微かに響き、やがて遠ざかる。彼女たちが何を話し、何をしているのかも、わたしは知らない。そして、知る必要もない。彼女は、この家を管理し、わたしの後継者である桔梗を育てるという、役割を全うしている。それ以上のことは、わたしにとって、ただの余分な情報に過ぎない。

時折、桔梗が書斎を訪れることがある。彼女は丁寧な言葉遣いで、学業の進捗や、稽古の成果を報告する。彼女の声は、控えめでありながら、確かな知性を感じさせる。わたしは、ただ黙ってその報告を聞き、必要であれば短い言葉で指示を与える。彼女は、わたしの期待に応えるべく、着実に成長している。それで十分だ。彼女の将来は、既に定められている。

舞蝶が書斎を訪れることはない。それは好都合だ。彼女の部屋がどこにあるのかも、正直なところ、定かではない。おそらく、日当たりの悪い、薄暗い部屋だろう。そうであってほしい。彼女の存在は、常にこの家の陰に隠されているべきだ。外にも出さないようにし、誰にもみられないように気をつけている。そして、彼女が、わたしや桔梗の光を遮るようなことがあってはならない。彼女には、彼女なりの存在理由があるのだろうが、それをわたしが理解する必要はない。

この洋館は、広大でありながら、わたしにとっては、ただの機能的な空間に過ぎない。どの部屋にどんな家具が置かれているのか、庭にはどんな木が植えられているのか、そのような細部に、わたしの意識が向かうことはない。この家は、わたしが仕事に専念するための場所であり、家族がそれぞれの役割を全うするための器だ。ほかに意味はない。


夜になり、再び食事が用意される。わたしは、普段と変わらぬ場所に座り、変わらぬ食事を口にする。八重と桔梗の声が、遠くで微かに聞こえることもあるが、その内容はやはり、わたしの意識には届かない。食事が終わり、書斎に戻ると、わたしは再び、夜更けまで仕事に没頭する。書斎の窓から見えるのは、漆黒の闇に包まれた庭と、遠くで瞬く街の灯だけだ。

時折不安に陥るが、集中はできる。

舞蝶が、どのような一日を過ごしているのか、わたしは想像することもない。彼女の存在は、常にわたしの意識の外にある。彼女の感情、彼女の思考、彼女の苦悩────それらすべてが、わたしにとっては、遠い星の瞬きと同じくらい、無関係なものだった。わたしは、彼女に何の期待も抱かない代わりに、何の感情も抱かない。

だが、例外はある。八重に言い付けられた時だけ、容赦のない折檻をする。

その時だけは、怒りという感情を覚える。

それが、わたしが彼女に示す、唯一の「関わり」なのかもしれない。

この洋館は、まるでわたしの無関心を具現化したかのようだ。すべてのものが、規則正しく配置され、それぞれの役割を全うしている。そこに、感情や個人的な繋がりが入り込む余地はない。わたしは、この冷徹な秩序の中で、ただ己の道を歩む。舞蝶の影が、この洋館のどこに落ちていようと、それは、わたしの歩みを妨げるものではない。わたしは、この家を動かす歯車であり、その歯車は、無駄なく、滞りなく、回り続けることだけが求められているのだ。

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