《八重》
薄鈍色の空が、今日も洋館の庭に重く垂れ込めている。六月の半ば、雨は降らなくとも、湿気を含んだ空気が肌にまとわりつき、何もかもが重苦しい。けれど、わたしにとって、この洋館の空気は、既に呼吸の一部となっている。朝食の食卓には、厳格な秩序が刻まれている。黒塗りの長いテーブルの奥に夫が座り、その右手にわたし、左手には愛娘である桔梗がいる。銀食器が鈍く光り、磁器のカップから立ち上る湯気が、僅かに空気に溶けてゆく。
食卓の端、窓から最も遠い場所には、小さな木製の椅子が引き寄せられている。そこは、陽の光の恩恵を受けることもなく、常に薄暗い影に覆われ、陰湿だ。そこに座る娘、舞蝶の姿を認めるたびに、わたしは胸の奥に、得体の知れない澱のようなものを感じる。温かいパンの香りが漂う中で、使用人はまず夫の皿に、次にわたしの、そして桔梗へと丁寧にパンを配膳してゆくが、舞蝶の皿に置かれるのは、いつも冷え切った残り物だ。
彼女は無言でそれらを口に運ぶ。その姿を見るたびに、わたしは無意識のうちに目を逸らしてしまう。なぜだろう。彼女の存在は、まるでこの洋館の奥深くに潜む染みのように、わたしの心をざわつかせるのだ。
食事が終わると、桔梗が、新しい刺繍糸を手に、楽しげに針を進める傍らで、舞蝶は部屋の片隅に静かに座っている。その姿は、まるで、影のようだ。何の感情も読み取れないその顔は、わたしにとっては常に不可解なものだった。
「あの本を取りなさい。」
桔梗の短い指示に、舞蝶は無言で立ち上がり、指定された本を運んでゆくがその一連の動作には、何の感情も伴わないようだ。もっと桔梗に忠誠心を持つべきだ。
ただの道具のように、彼女は動く。
わたしは、そんな舞蝶を見るたびに、胸の奥で冷たいものが広がるのを感じた。なぜ、舞蝶はこうなのだろう。桔梗のように、明るく、華やかで、わたしたちの誇りとなるような存在であってほしかった。
舞蝶がこの家に生まれた時、わたしたちは、彼女の中に特別な何かを見出そうとした。けれど、どれだけ目を凝らしても、そこにあったのは、ただの平凡な存在だった。桔梗が持つような、眩いばかりの輝きは、舞蝶にはなかった。むしろ、彼女は、生まれながらにして、この洋館の薄暗さと共鳴するような、陰鬱な気配を纏っている。
わたしは、舞蝶が幼い頃、一度だけ、彼女に笑いかけるよう促したことがある。その時の彼女の顔は、ひどく歪んで見えた。まるで、笑顔という仮面が、彼女の顔には重すぎるかのように。それ以来、わたしは彼女に、感情を表に出すことを求めなくなった。彼女の無表情は、わたしにとっての安寧であり、この家の平穏を保つための、唯一の術であった。
だが三年前、わたしは耐えられなくなり、親戚の家から養子を迎えた。それが桔梗だ。桔梗の方が、我が子のように可愛らしい。
桔梗と舞蝶が、誤って花瓶を倒したことが何度かある。鮮やかな花が散乱し、水が絨毯に染みを作った。舞蝶は震えながら、すぐにそれを片付けようとしているが、わたしは迷わず彼女を叱責した。彼女の失敗は、この家の秩序を乱す行為であり、その代償は、彼女自身が負うべきものだった。一方で、桔梗が同じ過ちを犯した時、使用人が静かに片付け、わたしが叱責することもなかった。その差は、わたしたち夫婦がこの家で築き上げてきた、揺るぎない階層を示すものだ。
舞蝶は、その時も無言で、ただわたしの叱責を受け入れていた。彼女のめには、何の反省の色も見えない。まるで、それが当然の事だとでも言うかのように。
わたしは、そんな彼女の姿を見るたびに、諦めにも似た感情が胸をよぎる。彼女は、わたしたちの期待に応えることのできない、失敗作なのだろう。
わかりきってはいるが、憎らしくなり、期待してしまい叱責する。
夜の帳が降りる頃、再び食卓が用意されると、昼食のない舞蝶は、わたしたちの食事が終わるのを、居間の片隅で待っている。遠くで響くわたしたちの笑い声や、楽しげな会話は、薄い壁を隔てて微かに彼女の耳に届いているのだろう。それは、彼女が属することのできない、別の世界の音なのだ。やがて使用人が、冷え切った残り物を盛られた皿を彼女の前に置く。舞蝶が独り、冷え切った空間でそれを食むという事実が、彼女の孤立を一層際立たせる。
舞蝶の部屋は、屋敷の二階、北側にある。窓の障子は厚く塞がれ、一日中、陽の光が差し込むことはない。常に薄暗く、ひんやりとした空気が淀んでいる。まるで、彼女の存在そのものが、この洋館の陰に隠されることを宿命づけられているかのようだ。わたしは引っ越してきてから、ずっと変わらぬその粗末な部屋を見るたびに、奇妙な安堵を覚える。彼女がそこにいる限り、桔梗の光は、より一層輝きを増すのだ。
舞蝶は、桔梗という光を際立たせるための、ほの暗い背景なのだ。彼女の存在は、わたしの心に常に重くのしかかっている。けれど、彼女が、わたしたちの期待する桔梗の影であり続ける限り、この洋館の秩序は保たれる。それが、わたしにとっての真実だった。彼女がそこにいること自体が、わたしにとっての重荷でありながら、同時に、桔梗の輝きを守る盾でもある。
わたしは、今日もまた、舞蝶という存在から目を逸らし、桔梗の明るい未来だけを見つめる。この洋館の静寂の中で、舞蝶は、ただ息をしている。明日も、明後日も、そしてその先も、何も変わることなく、この重い静寂の中で、彼女は彼女のままで居させる。そして、わたしもまた、彼女をその場所に置くことで、この家の秩序を守り続けるのだ。
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