《承己》

普段のように、わたしはリビングで一人、読書をする予定であったが、心が落ち着かない。先ほど、布団を取りに自室へそそくさと去っていった翡翠のことが、気がかりだ。彼女は冷たい廊下で、眠ることになってしまう。


やはり彼女も、俊蔵には背けない。

翡翠の諦念、絶望、無力感に歪んだ顔が目の裏によぎる。


わたしも背けなかったのだ。

わたしは悪くない。

そう考えようと思えど、やはり自分を責めてしまう。なぜわたしは彼に抵抗できないのだろう。


しばらくして、時計の針が示す時刻が、わたしの不安を募らせた。彼女が布団を取りに行ってから、かなりの時間が経っている。

それなのに、一向に戻ってこない。


何か手伝うことはないかと先程声をかけるべきだったかと、後悔が募る。しかし、俊蔵が隣にいる手前、彼女の辛い状況にこれ以上言及することも憚られた。

一体、何をしているのだろう。布団の準備に手間取っているのか。それとも、部屋の荷物が気になり、片付けているのだろうか。

普段の行動から予測できるものとは全く異なる娘の行動に、漠然とした疑問と違和感が募ってくる。

わたしはなかなか立ち上がれずにいたが、しばらくしてようやく立ち上がれた。

思考に手一杯になり、立ち上がるのが緩慢になってしまった。

あまりに遅ければ、俊蔵に叱りつけられる可能性が高い。

そうなる前に手伝い、急いで終わらせなければならない。

俊蔵に一言告げようと思ったが、「甘やかしている」などと言われかねないため、彼には言わずわたしはリビングを出て、翡翠の部屋へと向かった。廊下は、日中の湿気を吸い込んで、ひんやりとしている。足音が、静かな廊下に吸い込まれてゆく。



長い廊下を歩いて、翡翠の部屋の引き戸の前まで来た。扉が、僅かに開いている。中から、音は聞こえない。静まり返っている。


静寂がわたしの心に不穏な影を落とす。

布団を引き出したり、荷物を片付けたりしていたら、どんなに静かにやろうとも、音がするはずだ。今はどんなに耳を済ませても無音だ。

わたしは不安になり、扉を押し開けた。ガラガラ、と鈍い音が空間に響く。

サーっと血の気が引いて行くのを感じた。

部屋の中を瞬時に見渡すが、がらんとしていた。荷解き途中の段ボール箱は、押し入れにしまったのか、完全に片付けたのか。


今は、部屋の隅に積まれていなかった。

だがその代わりに畳の上には、雨漏りを受け止めるための容器がびっしり置かれている。

時折、金属を雨が打つ音が聞こえる。



翡翠の姿がどこにも見当たらない。

そして先程までなぜ気づかなかったのだろうか。


彼女の布団が、電灯の真下に広げられていた。黒い染みが無数に着いている。

彼女の言っていた「黒い雨漏り」だ。

部屋の隅から隅まで、視線を巡らせる。

押し入れの引き戸も、僅かに開いていた。

さすがに居ないだろうと思いながら、押し入れを覗いてみる。

いない。

暗がりでよく見えないが、人の気配は感じられなかった。

一瞬人がいたような熱気を感じられたが、何度観ても

いない。

いない。

いない。

どこにも。


わたしの呼吸が、急に浅くなった。心臓が、異常な速さで脈打ち始める。手のひらから、血の気が引いてゆくのが分かる。

一体、どこへ行ったのだろう。廊下で寝るために布団を取りにゆき────。

それから────。



廊下を見渡したが、彼女の姿は見当たらない。もしかしたら、廊下で寝るのが嫌になって、別の場所へ行ったのかもしれない。

わたしは、ひとつの希望に縋るような思いで、部屋を飛び出した。

ばたばたと、廊下に足音が大きく響く。

俊蔵は怒るだろうか、今はそんなことを気にしている場合ではない。

部屋の扉を次々にあけ、一つ一つ隈無く見ていった。


いない。

クローゼットの中にも。

いない。

荷物の暗がりにも。

いない。

どこにも────。


急いで階段をかけあがり、再び翡翠の部屋に向かった。

部屋を見渡す。押し入れも開け放つ。

けれど見つからない。

わたしの思考は、完全に停止した。頭の中が真っ白になり、何も考えられない。ただ、身体が、勝手に震え始めるのを感じた。足元が、ぐらつく。全身の血液が、逆流してゆくような、冷たい感覚に襲われた。

心臓の鼓動が、耳の奥で、ドクン、ドクン、と大きく響く。呼吸は、もはや正常なリズムを保てない。喉の奥が乾き、息が詰まる。

窒息するように苦しい。悪寒が全身に走る。

わたしの口から、小さく声にならない声が漏れた。


翡翠の名前を呼び探そうとするが、まともな声が出ない。喉が、締め付けられているかのように、硬直している。

窓の外からは、相変わらず雨音が降り続き、その音が、わたしのパニックをさらに煽る。この洋館の静寂が、突然、底知れない恐怖を孕んだものに変わった。


廊下の冷たさが、肌にまとわりつく。冷たさが、わたしの心の奥底にまで染み渡ってくる。わたしは、部屋の中を何度も見回した。もう一度、押し入れの中を覗き込む。しかし、そこにも、彼女の姿はない。ただ、暗闇が、口を開けているだけだ。

どこにもいない。その言葉が、わたしの脳裏を、幾度となく駆け巡る。これまで経験したことのない、底知れない恐怖が、わたしの心を支配した。身体が、勝手に震え続け、呼吸が乱れる。この洋館のどこかに、彼女はいるのだろうか。

外に出てはいないだろうか。

わたしの全身は、硬直したまま動かなくなった。

目の前にあるはずの景色が、歪んで見える。

俊蔵に伝え、警察に捜索願いを出すのが賢明な方法だが、動けない。呼べない。叫べない。

だがその瞬間、押し入れの暗闇の中に、一枚の木板が見えたような気がした。

ひすいではなかった。

翡翠はいなかった。

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