第一部 シーン5
《翡翠》
冷たい闇の中で意識が遠のき、あらゆる感覚が失われたかに思われたその時、微かな光が、わたしの閉じた瞼の奥に差し込んできた。
暗闇の中からゆっくりと滲み出し、淡い光が視界にみるみるうちに広がりゆく。
全体に広がると、光は次第に強度を増し、わたしの意識を眠りから引き上げていった─────。
目を開くと、目の前には、白い光が広がっている。そして光がきえると、見覚えのある光景が展開されていた。長い和風の廊下が伸びている。
左側には、一面に広がる障子が白み、右側では二つの襖が少し沈んで暗く見えた。突き当たりは、前と同じように果てしなく曖昧で、光と影が混じり合って、その先を分からなくしている。
昨日の朝、微睡みの中で見た夢の中の場所とまったく同じだ。
ということは、これは夢なのだろうか。押し入れの奥で見つけた隠し扉も。その先の暗闇も。意識が遠のいたと感じた感覚も。
全てが、あまりにも現実離れしていた。恐らく雨漏りによる疲労と、精神的な重圧が、わたしにこのような幻覚を見せているのだ。そう自分に言い聞かせようとしていた。
けれど同時に、心臓が異常な速さで脈打っているのを感じた。呼吸は浅く、全身から冷や汗が噴き出している。今目の前にあるこの場所は、夢にしてはあまりにも鮮明だ。畳の匂いも木の廊下の感触も、肌を撫でる冷たい空気も、全てが、現実の質感を持って、わたしの五感に訴えかけてくる。
昨日とは違う。
昨日の夢が今日は現実となって現れたのだ。
わたしは、恐る恐る自分の頬に手を伸ばした。親指と人差し指で、皮膚を挟み、力を込める。チクリと、鋭い痛みが走った。
紛れもない、現実の痛みだ。
身体は、夢の中のような浮遊感もなく、しっかりと地面に立っている。これは現実だ。わたしの思考は、その一点に収束した。悪夢のような光景が、現実として目の前に突きつけられている。その事実に、わたしの内側で何かが崩れ落ちる音がした。
どこから、ここに来たのだろう。押し入れの奥にあった隠し扉からか。あれの先は、どこにも繋がっていなかったはずだ。暗闇が広がっていただけだったように思う。
だが、わたしは今、この長い和風の廊下に立っている。この洋館の中に、このような場所は存在しないと、母は言っていたはずなのに────。
いや、存在しないと、母とわたしは思い込んでいただけなのかもしれない。この洋館は、わたしが知らない部屋を隠し持っていたのだろうか。
わたしは、廊下を昨日のように行き来していた。前に進み、後ろに戻る。しかし、どこまで歩いても、この廊下の景色は変わらない。どこかへと繋がる扉も、出口も見当たらない。右側の障子は、ただ光を透過させているだけで、その向こう側は、まるでこの場所とは別の次元であるかのように、ぼんやりとした光の膜で覆われている。突き当たりの曖昧な空間は、わたしを嘲笑うかのように、その先を一切見せてくれない。
昨日と同じ。
夢と同じ。
けれど現実だ。
昨日の夢は、現実になるということを予知していたのだろうか。
混乱が、わたしの思考を支配した。頭の中が真っ白になり、何も考えられない。まるで、脳の機能が停止してしまったかのようだ。
何が起こっているのか。
なぜ、わたしはここにいるのだろうか。
どうすれば、この場所から抜け出すことができるのだろうか。
あらゆる問いが、わたしの頭の中で、答えを見つけることなく、ただ虚しく木霊している。
そして、混乱に隠れた深部から絶望の感情が這い上がってきた。
出口はどこだろうか。
入口すら分からない。
永遠に、この廊下をさまよい続けることになるのだろうか。
その可能性すらある。
家族は、今頃どうしているだろう。母は、雨漏りのひどい部屋で、一人で不安に耐えているのだろうか。父も母も、わたしがいないことに、いつ気が付くのだろう。
わたしのことを、誰も心配しないのでは無いか。
色々な考えが、次々と脳裏をかすめ、わたしの胸を締め付けた。
足元に伝わる木の感触が、冷たく硬い。それは、この場所が、幻覚ではないことを、執拗にわたしに突きつける。この和風の廊下は、まるで生きた存在であるかのように、わたしを捕らえ、その中に閉じ込めている。
外の雨音は、もう聞こえない。この廊下には静寂だけがある。その静寂は、わたしの混乱と絶望を、一層深いものにするだけで、安息の影も見えない。
わたしは、ただ歩き続けることしかできなかった。どこへ行くとも知れず、ただ、この終わりのない廊下を彷徨う。ひだりの障子や右の襖、果てしなく続く曖昧な突き当たりがただただ強固にひろがっていた。
時間という概念も、もはや存在していないようだ。いつからここにいるのか。これから、どれくらいの時間を、この場所で過ごすことになるのだろうか。全く見当がつかない。
乾いた喉の奥から、小さな声が漏れた。
けれどそれも助けを求める叫びにはならず、、ただの、空虚な音であった。わたしの存在そのものが、この広大な廊下の中で、あまりにも小さく脆いものに感じられた。
続いて孤独感が襲う。
誰もいない。
わたし以外。
洋館のどこかに隠された、この廊下の存在が残酷に、わたしを現実から切り離している。
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