再会

 翌日。火頭軍の隊長さんの話によれば、昨日の酸菜さんさいの効き方は人によって分かれたという。


「見違えるほど手足に力が出た、と言う者もいれば、それほどでないと言う者もいた。ただ、効能がまったくないという者はいなかったようだ」

「つまり、私は――」


 お力になれそうなのですね、と私が言う前に、隊長さんは頭を下げた。


「蘭どの、正式に依頼する。我らはいま窮地にある。陣中に女人を入れることには、いまだ抵抗があるが、この事態ではそうも言っておられぬ」


 もちろんです、と答えかけて疑念が湧いた。この急激な態度の変化は、どうしたのだろう。


「はい、全力で協力いたします。……大きな情勢の変化が、あったようですね」


 言ってみれば、隊長さんは自嘲気味に笑った。だがそれ以上、何も話してはくれなかった。




 食料庫から、あるだけの酸菜がかめごと持ち出された。まな板の横に大量に並ぶ、色も大小も様々な甕。「酸味で発酵させた」という以外に共通項のない、それら雑多な漬物を、端から調理していく。

 蓋を取れば、つんとくる酸味が立ち上る。包丁で刻めば、さらに香る。煮立てれば、蒸気と共に広がる。たちまち辺りは、むせかえるほどの酸菜の香気でいっぱいになった。

 今日、私は調理に専念し、分配は火頭軍の隊員さんにお任せする手筈になっていた。隊員さんたちが配るスープの様子を横目で見れば、列に並ぶ前線の兵士さんたちは、多くが負傷していた。切り傷ばかりでなく、火傷の痕に見える怪我もあった。

 何があったのだろう――と考える暇は、今はなかった。私にできることは、ただ手を動かし、できるかぎりの「徳」を料理に籠め、傷ついた兵士さんたちに届けることだけだった。




 異変が起こったのは、酸菜の三分の二ほどを調理し終え、兵士さんたちに配り終えた頃だった。

 酸菜の甕を開け、次の調理に入ろうとした時、突如轟音が耳をつんざいた。

 はじめ、雷だと思った。けれど空は青く晴れ渡り、一片の雲さえ浮かんではいない。いぶかっていると、二度、三度と、同じ轟音が鳴り響いた。

 敵襲――と、叫ぶ声が聞こえた。

 兵士さんたちが一斉に踵を返し、城門へと駆け出していく。その間にも轟音は、間断なく城市を揺るがし続けた。

 何もできず立ち尽くしていると、護衛武官さんに強く手を引かれた。


「安全なところへ。早く」


 促されるまま駆け出したのと、同じ瞬間。遠くから、すさまじい鬨の声が聞こえてきた。

 城門、突破――そんな声が、確かに、混じっていた。


「早く!」


 武官さんの鋭い声に、従う。他にできることは、今の私にはない。

 大通りへ行こうとすると止められた。人目につくところは危険かもしれないと。では裏通りを行けばいいのか。武官さんに連れられて、知らない道を走る。

 行く手に人が現れた。赤い甲冑に赤い兜だ。どちらに属する兵か、訊ねずともわかる。

 あわてて踵を返せば、背後にも赤い兵。

 横へ進む道はない。進退、極まった。極まってしまった。

 武官さんが剣を抜いた。けれど敵は前後にふたり。ひとりで相手できるのだろうか。

 ――そう、思った瞬間だった。


「うぁ、っ……!」


 前側の敵兵が、目を押さえてうずくまる。

 私の背後が、強烈に輝いていた。おそらくは昼の陽光並の、だとしたら直視できないほどの、光。

 後ろで何が起きているのか。けれど、振り向けば目をやられるかもしれない。立ち尽くす私の耳に、聞き覚えのある声が響いた。


「ここにいたのか、蘭」


 涼やかで、不思議な力のある声。再び聞くことは叶わないのだと、諦めていた声。

 けれど私の中にあって、折に触れて励ましてくれた声。窮すれば変ず、変すれば通ず……との言葉で、力を与えてくれた声。


「凌雲……さん?」


 話しかければ、光は急速に引いていった。周りを確かめれば、私のほかの人間たち――赤の兵ふたりと、護衛武官さん――は、気を失って地に倒れていた。そして私の背後には、一頭の馬が静かに立っていた。

 いや、よく見れば、私が知る馬ではない。毛並は白いが、胴には虎のような縞があり、尾は真っ赤だ。強い霊気が辺りを圧する。けれど悪い気配はない。とすれば、神獣か霊獣の類か――考える私の目の前で、馬はまばゆい輝きに包まれた。

 光が去った時、そこには見覚えのある、茶色と緑のぼろ布が立っていた。


「凌雲さん!」


 私が叫ぶと同時に、ぼろ布が払われた。下から、白玉はくぎょくの肌と黒絹の長髪が現れる。


「おまえの匂いがした。『青』の、香りが」


 凌雲さんは、大きく手を開いて歩み寄ってきた。そして、私を力強く抱きしめた。

 胸の奥がどきりと鳴る。頬が、熱くなるのを感じる。

 言葉を失っていると、凌雲さんは私の髪を撫でながら、優しく声をかけてくれた。


「ああ、いい匂いだ。美しく萌ゆる、青き春の霊気……『木』徳の香り」


 なぜか、ほんの少しだけ落胆した。私は何を期待していたんだろう?

 我に返れば、今はまったく、こんなことをしている場合ではない。


「凌雲さん、ここは危険です! こんなこと、している場合じゃありません!」


 抱き締める腕を、ほどこうとするも逃れられない。凌雲さんの怪訝な声が降ってきた。


「どうしたのだ」

「敵に、街が滅ぼされそうなんです。早くどこかに逃れないと」

「敵とは」

「李長風将軍。『赤』の帝の、手の者です」


 ふむ、と、凌雲さんは鼻を鳴らした。


「つまり、この城市を取り巻いている赤い者たちのことだな?」

「そうですよ。城門もすでに突破されて――」

「その者たちを、追い払えばよいのだな?」


 食事の品を確かめる程度の気安さで、凌雲さんは言う。

 どう答えればよいか、迷う。追い払えるのなら、もちろんそうしてほしい。けれど、そんなうまい話があるわけはない。返事を考えていると、凌雲さんは不意に、私を抱く手に力を籠めた。


「承知した」


 凌雲さんは私から手を離すと、目を細めて天を仰いだ。視線の先を確かめれば、青い空に穴を開けたように、黒い異形の鳥たちが輪を作って羽ばたいている。目がひとつだけの鷲、足が一本だけの水鳥、他にも多数の奇怪な鳥たちが、私と凌雲さんをめがけて舞い降りてきた。


「皆、腹は満ちたか?」


 凌雲さんの呼びかけに応え、いくつもの名状しがたい鳴き声があがる。甲高い声があり、地を震わすほどに低い声がある。けれどどれも、不思議なことに不快を催さない。


「そうか。ならば応えようぞ、大恩ある娘の求めに。この城市より、恩人の敵を打ち払う!」


 言葉と共に、凌雲さんの身体が白い光に包まれた。そうしてまた、あの虎模様の白馬になった。馬は、人が歌うような美しい声で一声啼くと、空をめがけて駆け上がっていった。

 そこから先は、あっという間だった。

 凌雲さんの白馬は、群れ飛ぶ怪鳥たちを率い、城壁の外へ飛んで行ってしまった。ほどなく激しい光と共に、人の叫び声が重なって響いてきた。

 呆然としながら、護衛武官さんを助け起こす。守備隊の屯所へ戻ろうとすると、市中は得体のしれない獣だらけだった。狐の尾を持つ狸、巨大な牙を持つ豚、その他何頭もの名状しがたい獣たちが、侵入した赤の兵士たちを襲っていた。

 ようやく屯所へ帰れた頃、日は西の空へわずかに傾きかけていた。「李長風軍、撤退」の第一報がやってきたのは、私が火頭軍の隊長さんと再会し、無事を伝え合ったのとほぼ同時だった。

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