酸菜香る

 守備隊屯所の食料庫に、漬物の甕が並ぶ一角があった。

 かめの蓋を開くと、酸味を含んだ香気がふわりと立ち上る。爽やかな香りだけれど、かつて宮中で神獣のために用意されていた酸菜さんさいには遠く及ばない。漬かっている菜も雑多で、宮中で使われていた最上級の芥子菜からしなではない。質は、かつて使ったものよりずっと落ちるだろう。

 けれどそれでも、貴重な酸味の源だ。私は菜を大皿に取った。

 傍らから声は聞こえてこない。「お持ちしましょうか」と優しい言葉をかけてくれた誰かは、もういない。


「……だから、断ち切るんだ」


 声に出して、自らに言い聞かせる。

 救えなかった麒麟も、去ってしまった懐信も、なくしてしまったなにもかもを、今なら振り切れるように思った。同じものを使って、誰かを救うことができたならば。




 引き上げた酸菜を、調理場へ持って行く。

 汚れと傷が目立つ、けれどしっかり洗われてはいる様子のまな板に、薄黄に染まった菜を並べる。包丁を持つ前に、軽く瞑目していつもの祈りを。


 ――天の上帝じょうていよ、地の后土こうどよ、吾が一言を聴きたまえ。吾、今、百味の精をもって五行の気を調ととのえ、もって衆人のもとめに供せんとす。願わくは天、憐れみを垂れ、地、誠心を納め、万霊安寧にして、邪を退けんことを。


 包丁は大きく重く、宮中にいた頃の私なら手に余っていたかもしれない。けれど私は日々、体を使った仕事をこなしてきた。このくらいはなんでもない。

 くったりした質感の酸菜を、厚い包丁で細かく刻む。黄金の山が積み上がったところで、大鍋にお湯を沸かす。本来なら肉や魚でだしを取るところだけれど、あいにく今は足りていない。酸菜の汁だけでどうにかする。


「これで、本当にどうにかなるのかね」


 飛んでくる揶揄の声には、返事をしない。ただ笑って返す。効能は、なによりも現物が語ってくれるだろうから。

 煮上がったところで、わずかに塩を入れて完成。宮中で作った炒め煮と比べ、あまりにも質素な品だけれど、気持ちは、「徳」は、籠められるだけ籠めた。


「できました! 皆さんを呼んでください」


 完成を告げると、たちまち大鍋の前に列ができた。

 兵士さんたちに振舞う前に、火頭軍の隊長さんが味見、いや毒見をする。私が渾身の力と想いを籠めたスープを、ひと匙口に運び、隊長さんは口を開く。


「問題ない」


 それだけ言い残し、去ってしまった。

 しかたがない。皆、忙しいのだ。私は私のできることをするだけ。

 酸菜入りのスープを汲み、列の先頭で待つ兵士さんに渡すと、疲れた目が少し見開かれた。


「……女の子?」

「はい、そうですが」


 しばし目を泳がせた後、次の兵士さんに小突かれて、彼は列を離れていった。

 次の人も、その次の人も同様に、程度の差こそあれ、私に好奇の目を向けていく。無理もない。この場に女が紛れていることは、それほどに珍しいのだから。

 中には怪我を負った兵士さんもいた。痛々しく巻かれた血染めの包帯は、間近で見るとやはり辛くて、つい目を逸らしかけてしまう。けれどそれでは、城市を守るために勇戦してくださった方に失礼だ。しっかりと目を見開き、まっすぐ前を見る。


「お勤め、ありがとうございます」


 軽く頭を下げつつ、椀を渡す。

 ほどなく大鍋は空になった。火頭軍の隊長さんへ報告に行き、追加が必要か訊ねると、逆に問いが返ってきた。


「五味の均衡を整える術とやらは、いつごろ効き目が見えるのだ?」

「おそらく明日には。汗が減り、手足の筋に力が湧き、緩んだ身が引き締まるはずです」

「ならば明日、様子を見よう。おまえが言う通りの効能があるようなら、より多くの調理を依頼しよう」


 隊長さんの淡々とした声色に、期待の色は感じられない。

 もどかしさを感じる。今日私が作れた食事は、大鍋たった一杯分だけだ。城市の守備隊全員に、とても行き渡る量ではない。一日も早く正式な依頼を受けて、もっとたくさんの人を元気にしたい。

 けれど今日は、これ以上話を続けることはできそうにない。明日の判断がよいものであることを願いつつ、私は護衛武官さんと共に、いちど屋敷へ戻ることになった。




 屋敷へ戻ると、落ち着かない様子の周媽媽おかみと鉢合わせた。媽媽おかみは私を見つけると、駆け寄ってきて甲高い声で叫んだ。


「あんた、どこへ何しに行ってたんだい! この大変な時に――」

「守備隊のお手伝いに行っていました」


 叫び声を遮って言えば、媽媽おかみは目を丸くした。


「嘘ならもっと上手くつくんだね。女ひとり、あんなところに――」

「間違いございません。蘭どのは守備隊屯所にて、食料配給の手助けをしておりました。私が確かめております」

「……っ……」


 二の句が継げない様子の媽媽おかみは、すさまじい目つきで私をにらんだ。けれどそれ以上は、何もできないようだった。

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