さよなら、私の心のクローバー🍀 ─ 失われたものたちの訪れ ─

月影 流詩亜

第1話 安心の存在

 窓の外では、春の柔らかな日差しがアスファルトを温めている。


 けれど、教室の隅で小さくなっている詩乃しのの心には、その暖かさは届かない。

 十歳の少女、詩乃にとって学校は時折、冷たく、息苦しい場所に変わる。


 特に休み時間の喧騒の中で投げかけられる、一部のクラスメイトからの心無い言葉や視線は、彼女の胸を針で刺すように痛めていた。


「ねぇ、詩乃ちゃんって、まだアレ、持ってるんでしょ?」


 クスクスと笑い声が背後から聞こえる。

 アレとは詩乃が片時も離さずにいる、三毛猫のぬいぐるみのことだ。


 名前は『ミケ』。

 それは、二年前、大好きだったおばあちゃんが最後にくれた贈り物であり、今はもう会えないおばあちゃんの温もりを伝える、たった一つの形見だった。


 ミケは少し色褪せて、毛並みもくたびれている。けれど、その柔らかい感触と優しい刺繍の目は、詩乃にとって何よりも確かな安心を与えてくれていた。


 不安な時、悲しい時、ぎゅっと抱きしめれば、おばあちゃんの優しい声が聞こえるような気がするのだ。


「大丈夫だよ、詩乃」と。


 今日も、算数の時間に先生に指されて答えられなかったことを、クラスの男の子たちにからかわれた。


 帰り道、うつむいて歩く詩乃のカバンの中には、もちろんミケがいる。

 指先でそっと、カバン越しにミケの耳の感触を確かめる。

 それだけで、ささくれ立った心が少しだけ凪ぐのを感じた。

 家に帰っても、安らぎが待っているわけではない。

 最近、お母さんは仕事で疲れているのか、些細なことで詩乃を叱ることが増えた。今日も、


「テストの点がまた下がったじゃない。

 いつまでもおばあちゃんのぬいぐるみに頼ってないで、しっかりしなさい」と、ため息混じりに言われてしまう。


 お母さんが心配してくれているのは分かる。

 けれど、その言葉は詩乃の心をさらに重くした。


 自分の部屋に戻り、ドアを閉める。

 ようやく一人になれる時間。詩乃はカバンからミケを取り出し、ベッドの上でぎゅっと抱きしめた。


「ミケ……どうしてみんな、わかってくれないんだろうね…」


 ミケはもちろん答えない。

 けれど、その変わらない存在感が詩乃の孤独な心をそっと包み込んでくれる。


 ミケがいれば、大丈夫。

 そう思うことで、詩乃はなんとか明日を迎える勇気を得ていた。


 でも、心のどこかで小さな声が聞こえる気もするのだ。


(このままじゃ、ダメなのかな…?)


 鏡に映る自分は、ミケを抱きしめたまま、少し不安そうな顔をしている。


 ミケは確かに安心をくれる。でも、ミケがいないと何もできない自分になっているのかもしれない。


 友達の輪にも、うまく入れない。

 勉強だって、なんだか集中できない。


 ミケの温もりは、心地よい毛布のようだ。

 ずっとくるまっていたいけれど、いつまでもこの毛布の中にいてはいけないのかもしれない。


 そんな予感が、春先の少し冷たい風のように、詩乃の心に吹き込んできていた。


 それでも今はまだ、ミケを手放すことなんて考えられない。

 詩乃はもう一度、古びたぬいぐるみを強く抱きしめ、その柔らかな感触に、束の間の安らぎを求めるのだった。



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