転生タンクは父となる

ふぃふてぃ

第1話 からっぽ

 玄関に残された一足の革靴。妻のものでも、子どものものでもない。

 榊原剛志の足にぴったり合うそれは、彼が会社員として働くことだけに身を捧げる、日々を逃げてきた結果だった。


 夕暮れの光がカーテン越しに部屋を照らす。テレビは点いていない。冷蔵庫の音が妙に大きく響く。

 家の中には、音がなかった。子供達の笑い声混じりの戯けた声も、それを叱る妻の声も、食器の音も水音も足音も何もかも……


 ソファには、歪んだクッションが一つ。


 テーブルの上には、飲みかけのコーヒーと、妻が残していった離婚届。家族の写真はすべて、なくなっていた。


 剛志はその場に立ち尽くしていた。


 何か言葉を吐こうとして、喉の奥でくぐもる。


 「……そうか。行ったんだな」


 子どもがいた気配は、もうどこにもない。


 生活の音。小さな笑い声。些細な喧嘩のあとに響く謝罪。そのすべてが、剛志の記憶の中でのみ生きていた。


 仕事に没頭していた。

 それは正しいと思っていた。


 働けば、家族は幸せになれると信じていた。

 

 家族のために働いていた。けれど、気づけばその“ために”の中に、肝心の「家族たちの声」は入っていなかったのだ。


 後悔したところで時計の針が巻き戻る事はない。


 熱も、言葉も、何もかもがすり抜けていくこの部屋で、剛志はソファに腰を下ろした。

 机の上のマグカップを手に取り、ぬるいままのコーヒーを一口飲む。


 味が、しない。


「……まいったな」


 思い出すように笑うが、その笑みもすぐに消えた。


 窓の外で救急車のサイレンが遠くに響く。

 そして、剛志の視界がぐらりと傾いた。


 呼吸が浅くなるのを感じたが、抵抗や抗いはしなかった。やがて、視界がかすみ、身体がソファから崩れ落ちていく。


「……ああ……」


 誰に向けたものでもない言葉が、ただこぼれ落ちた。


 暗闇が、静かに彼を包み込んでいく。


 それが、榊原剛志の“終わり”であり、“始まり”だった。

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