第2話 風が吹く

 男は薄暗い路地を歩き続けていた。先ほどのアンドロイドに見逃されたにもかかわらず、胸の重苦しい感情は消えない。むしろ、彼の心の中には奇妙な空虚感と混乱が渦巻いていた。


「なんで、俺はまだ生きているんだ……?」


 アンドロイドに見逃されるという予想外の出来事が、彼の中にわずかな希望を生むかと思われたが、現実は違った。心の深い部分に染み付いた絶望は、簡単には消え去らない。世界が壊れてしまったように、自身も壊れていることを男は痛感していた。


 疲れ果てた体を引きずるように歩くうちに、男は古びたビルの壁にもたれかかった。目の前がぼんやりと揺れる。抑えようとしていた感情が、ふとした瞬間に溢れ出してしまった。


「もう、どうしていいかわからない……」


 男は壁に背を預け、膝を抱えながら泣き崩れた。涙は止まることなく頬を伝い、彼の体はあらゆる感情に震えた。生きることが苦痛だった。未来がないとわかっているのに、なぜ自分はこの地獄にしがみついているのか──男には答えが見つからなかった。


 その時、近くで金属音が響いた。


 顔を上げると、再び冷たい視線が彼を捉えていた。目の前には、先ほどとは別の女性型アンドロイドが立っていた。だが、このアンドロイドの目は冷徹で鋭く、任務を遂行する者としての意志がはっきりと感じられた。


「人間、発見。排除対象と確認。」


 彼女の声が響く。男は涙を拭くことすらせず、ただその場にうずくまったままだった。今度こそ終われると思った。逃げる気はない。戦う気もない。ただ、静かにその瞬間を待っていた。


 アンドロイドは、鋭く光る目で彼を観察する。彼女のシステムは彼を即時排除すべきと判断し、腕に内蔵された武器が自動的に展開された。彼女は一歩、また一歩と彼に近づく。


「お前は、なぜ逃げない?」彼女は機械的に尋ねた。それは純粋な興味からのものではなく、プログラムに基づく疑問だった。


 男は涙を流しながら、かすれた声で答えた。「もう……生きてる意味が、わからない……」


 アンドロイドはその言葉に一瞬の間を置いた。彼女のプログラムは、彼の状況を「生存本能の欠如」として解析し、通常の人間の反応とは異なる異常な心理状態であると認識した。彼女の内部プロセスは処理を続けるが、それでも任務を遂行するために必要な判断が下されることに変わりはない。


 しかし、彼女が武器を構えた瞬間、何かが邪魔をした。彼の言葉の中に、機械的な判断では処理できない何かが引っかかったのだ。


「生きる意味を、知りたいのか?」彼女は再び尋ねた。それは、任務の進行上では不要な質問だった。


 男は「人間を排除する機械が『生きる意味』を問う」この状況に、思わず苦笑しながら顔を上げた。「『生きる意味を知りたいのか?』だって……? それさえも、俺にはわからないんだ。とにかく、もう疲れたんだ……」


 アンドロイドは彼の言葉を受け取りながら、システムの中で複雑な処理を進めていた。彼をただ排除するだけのプログラムは実行可能だったが、彼の言葉が引き起こすデータの混乱は、任務を遅延させていた。


「お前を排除することが、私の任務だ。」彼女は冷静に言った。「だが、お前は自身の生存を望んでいない。それは、私のデータには存在しない矛盾だ。」


 男はその言葉を聞いて、少し目を見開く。彼女もまた、機械でありながら何かを感じ取っているのかもしれないと、ふと思った。彼は立ち上がろうと試みたが、足元がふらつき再び倒れ込む。彼は既に体力も精神も、既に限界に達していたのだ。


「どうせ、俺なんて……」男は、目を閉じた。「もう……駄目なんだ。」


 その時、別の足音が近づいてくる。暗闇の中から再び現れたのは、先程出会ったアンドロイドだった。


「排除は、不要だ。」彼女は冷静な声で言った。


 二体のアンドロイドが向き合う。二体目のアンドロイドは、排除をためらう素振りもなく、ただ仲間を見つめていた。一体目のアンドロイドもまた、冷静な表情のまま彼女を見返した。


「任務は中止されていない。」二体目のアンドロイドが冷徹に告げる。


「この人間は、生存を望んでいない。」一体目のアンドロイドが淡々と応じた。「排除は意味がない。」


 男は二人の会話を理解できないまま、ぼんやりと彼女たちを見上げていた。


 その瞬間、何かが決定されたかのように、二体目のアンドロイドは武器を収めた。


「解析結果、排除は保留とする。」彼女はそう告げると、男に背を向けて静かに去った。


 一体目のアンドロイドは、再び訪れた沈黙の中に立ち尽くしていた。


「なぜ、俺を助けたんだ……?」男はゆっくり立ち上がり、ようやく口を開いた。


 アンドロイドは沈黙を続けた。彼女の目に揺らぎはなかったが、その様子にはどこか微かな変化があったように感じた。


「それは、わからない。」


 そう答えると、彼女は男に手を差し伸べた。男にとっては初めての救いのようにも思えたが、彼女にとっても未知の選択肢だった。

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