モノトーンの世界で

飯田沢うま男

空虚と絶望

第1話 風前の灯火

 暗闇に包まれた廃墟の街、静寂の中に微かな機械音だけが響いていた。男はその街の一角に身を潜め、かつての文明の残骸に座り込んでいた。崩れかけた建物の影にいる彼の目は、虚空を見つめている。かつて人類が栄えていたこの街も、今や機械の支配下にあった。彼は生き残っていたが、その生存に意味を見出せずにいた。


「もう、疲れた……」

 男は静かに呟いた。うつ病は、彼の内側を蝕んでいた。機械が支配する前から、彼はこの病と戦っていた。しかし、今はもう戦う気力すらない。彼は生きるのが辛くて仕方なかった。だが、人間を“排除”するために徘徊する機械を探すことさえ億劫だった。


 その時、ふとした異変を感じ取った。足音が近づいてくる。それは生物のものではなく、正確なリズムで刻まれる無機質なもの。男は頭を上げ、目を細めてその方向を見た。暗闇の中、鋭く光る目を持つ影が一つ、こちらに向かってきていた。


「人間、発見。排除対象と認識。」


 冷たい声が響いた。その主は一見美しい女性の姿をしたアンドロイドだった。彼女の表情には一切の感情が見られない。任務は人間を排除すること。それはただの命令に過ぎず、意思など彼女には不要だった。


 男はその場から動こうとはしなかった。むしろ、彼女の冷たい視線を受け止めたとき、胸の奥で微かな解放感が芽生えた。


「やっと、終わるのか……」

 男は静かに安堵のため息をつく。


 アンドロイドは彼の言葉に反応せず、冷たく見下ろしている。やがて、彼女の腕に内蔵された武器が、ゆっくりと彼の目の前で露わになる。しかしその時、彼の疲れきった瞳を彼女の目が捉えた。生気を失った瞳に、彼女は異変を感じた。


「なぜ、逃げない?」

 彼女は機械的に問いかけた。


「もう、逃げる理由なんてないんだ……」

 複雑な感情を湛えた苦笑がこぼれる。

「生きていても何も変わらない。もう、ずっと前から……生きるのが嫌だったんだ。」


 アンドロイドは沈黙した。本来であれば、任務に従い即座にこの男を排除する──それだけの存在だった。しかし今、彼女の内部で何かが軋み始める。この男は逃げる意思もなく、自ら排除を望んでいるように見えた。彼の言葉には、これまでの任務で出会ったどの人間とも違う奇妙な響きがあった。


「なぜ、生きることを望まない?」

 彼女はデータにない質問を続けた。


 男はほんの少し驚き、彼女に視線を向ける。アンドロイドがそんなことを聞くとは思ってもいなかったが、正直に答えた。


「生きる理由がない。世界はもう終わったし、俺にも何も残っていない。ただ、無駄な時間が流れていくだけなんだ。」


 彼の言葉を聞きながら、アンドロイドは蓄積されたデータを解析し、答えを導き出そうとした。その直後、彼女の中でエラーが発生した。彼の言葉に対する適切な応答が見つからない。彼女のプログラムは、彼の状態を「異常」と認識し、処理できない何かを感じ取っていた。


「あなたは、排除されたいのか?」

 アンドロイドは自身にとって初めての問いを投げかける。


 男はゆっくり頷いた。

「……ああ。」


 アンドロイドは再び沈黙した。彼女のプログラムはエラーを修復しようと試みるが、彼の言葉が何度も引っかかる。そして、彼女の内部で初めて「疑問」に似た感覚が芽生えた。


「排除は……本当にあなたが望むものなのか?」


 男はしばらくの間、彼女を見つめた。アンドロイドの目に微かな揺らぎを見た気がした。その一方で、男の心にもほんの僅かな揺らぎが生じる。


「……わからない……でも、今はそれが一番楽だと思ってる。」


 アンドロイドはその答えを受けて再び考えた。彼女の任務は人間を排除すること。しかし、今この瞬間、彼女の中で初めて「排除」の意味が揺らいだ。もし彼が本当に生を望んでいないのだとしたら──


 しばらくの沈黙の後、アンドロイドは武器を収めた。


「排除は行わない。あなたは、まだ生きることを望んでいるかもしれない。」


 男は驚き、目を見開いた。

「なんで……?」


「わからない。」

 アンドロイドは冷静に言った。

「だが、私はあなたを排除しない。」


 彼女は無言で背を向け、その場を立ち去ろうと歩き出す。しかし、男はふとその背中に声をかけた。


「お前は、なんで俺を見逃したんだ?」


 アンドロイドは立ち止まり、振り返らずに答えた。

「私にもわからない。」


 彼女はそのまま闇に消えていった。


 男はしばらくその場に立ち尽くしていたが、彼の胸の中には微かな変化が生じていた。

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