第5章「分かりやすさの告白」|七希の過去
📘5-1『兄は完璧だった』
兄は、完璧だった。
誰が見てもそうだった。
テストの点数は常に学年トップ。
全国模試でも名前が載るほど。
ロジカルに物事を分析し、感情に流されず、無駄のない思考と行動。
「AIに近い」と言われることが、当時は褒め言葉だった。
兄自身も、それを目指していた。
「人間は不確かだから、整える必要がある」とよく言っていた。
それが、“進化”だと信じていた。
私も──そう思っていた。
桜木 朝陽(あさひ)。七つ上の兄。
幼い頃の私は、兄の背中ばかり見て育った。
兄は、いつも静かだった。
でも、必要なことは正確に伝えてくれた。
「その問題の答え、ノートの3ページ目にまとめておいたよ」
「この参考書より、こっちの方が効率的だよ」
「人に感情をぶつけるのは、ロジックの破綻を証明するようなものだ」
そう言って、笑うことなく私の頭を撫でていた。
中学に上がる頃、兄は特区のAI特進コースに進んだ。
AIとともに学び、思考を最適化し、感情の起伏を“自己制御”するプログラム。
感情波形を抑えるトレーニング。
“感情の安定度”が、通知表に並ぶ時代のはじまりだった。
兄は、その波形が見事に“安定”していた。
「すごいね」と、みんなが言った。
けれど、私は──
その波形が“平らすぎる”ことに、どこか息苦しさを感じていた。
高校に進学した私が、ある日、兄の部屋を訪ねたときのこと。
兄は机に向かっていた。
ディスプレイには、AIの感情認識シミュレーションが流れていた。
人間の表情を分析し、感情を判定するAI。
喜び、悲しみ、怒り、恐怖──
兄はそれを眺めながら、メモを取っていた。
「これ、すごいよ。人間が感じる“感情の構造”を数値化できるんだ」
「でもそれって、感情を“分かりやすくする”だけじゃない?」と私が聞くと、兄はこう言った。
「感情は“分かりやすい”方がいい。
誰も誤解しないし、余計な軋轢も生まれない。
わかりづらいものは、誰かを傷つけるから」
それを聞いたとき、私は返す言葉を持たなかった。
でも──なぜか、悲しかった。
その数ヶ月後。
兄は突然、口数が減った。
笑わなくなった。
“正しい”ことしか言わなくなった。
そしてある夜、私の前でぽつりとこう言った。
「最近、自分の気持ちが“正しいのかどうか”わからなくなるんだ」
「怒ったとしても、“それは適切?”ってAIが分析する。
嬉しいと思っても、“演出かもしれない”って思ってしまう。
何か感じた瞬間に、自分の中で誰かが“ジャッジ”してるみたいなんだ」
その声は、震えていた。
完璧だった兄が、初めて“曖昧な言葉”を使った夜だった。
それから兄は、ゆっくりと変わっていった。
感情を語らなくなり、誰とも目を合わせなくなり、
気がつけば──人とのやりとりを“全部テキスト”に置き換えるようになった。
会話も、表情も、間も、温度も──
すべて、AIのフィルター越し。
兄は、感情の“翻訳装置”の中で生きるようになってしまった。
私は、心のどこかでこう思っていた。
兄を壊したのは、“分かりやすさ”だった。
すべてが明快に、すべてが整理され、
言葉にできないものが、ノイズとして扱われる世界。
兄は“複雑さ”の中で生きることを、やめた。
でも私は──
そこにしか、“人間らしさ”はないのだと思っていた。
今の私は、感情を表に出すのが怖い。
言葉を選ぶのに、すごく時間がかかる。
でも、わかっている。
その“怖さ”の正体は、兄と同じ道を歩くことへの抵抗だ。
ノートを開き、私は書く。
『兄は完璧だった。
でも私は、“壊れた兄”の記憶からしか、愛を学べなかった。』
『だから私は、感情に傷ついても、
その“揺れ”を誰かと共有する言葉を、いつか持ちたい。』
ページを閉じると、
私は少しだけ、呼吸が深くなった気がした。
兄には届かなかった言葉を──
私は、誰かに伝えるために持っていたい。
それが、私の“告白”の始まりだった。
【To be continued...】
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