透明を照らす色

「久志ってさ、文化祭の時どういう係になるのが正解なんだろ?」

「いや、看板とか? あ、でも絵も苦手そうだし……」

「あー、クイズ作るのもガチ勢怖そうだしなー……あれ? どこ入れる?」


 文化祭の係ぎめに交わされた言葉を思い出していた。

 無力感を実感し、胸が刺されたような気分になった。


 本当に俺には何もないって思い知らされている――


 文化祭準備が始まり、クラスでは出し物として「クイズ&展示ブース」が企画されていた。


 放課後の今、作業装飾担当、パネル製作、クイズ作り、掲示物の印刷――それぞれの作業がばらばらに進んで、指示が飛び交っている。


 けれど、教室の空気には、どこか疲れと苛立ちが漂っていた。


「え、これ……間違えて印刷してない? レイアウトずれてるし」

「は? 俺、言われた通りにやったんだけど」

「いやいや、だからちゃんと確認してって言ったじゃん!」


 怒気まじりの声が上がり、近くにいた男子が舌打ちをした。その音が教室に妙な静けさをもたらす。


「……そんなに言わなくてもよくない?」


 別の女子がぽつりとつぶやいた。


 その言葉に、また別の誰かが「いや、だってさ」とかぶせてくる。

 言い合いというほどじゃないけれど、ちょっとした不協和音が、教室の空気にピリッと緊張感を走らせていた。


 こういう雰囲気が、苦手だった。


 俺はいたたまれなくなって、黙って後ろの準備室へ移動した。


 物陰に隠れるように、道具の片づけや、机の絵の具汚れを黙々と拭いていく。

 誰にも頼まれていない作業しか出来ない。

 それでも、何かしていないと、心が落ち着かなかった。


 ふと、外から明るい笑い声が聞こえた。

 教室であんな空気の中、あんな声を出せる人なんて一人しかいない。


 ――時波さんだ。


「ねーねー、そんな怒らなくても大丈夫だってば。ほら、私も失敗したことあるし! この前なんて、張り紙逆さに貼っちゃってさ~!」


 明るく笑い飛ばす声。けれど、その声の裏にあるかすかな張り詰めた音に、気づいてしまう。


 無理してる。

 笑顔も、冗談も、空気を変えるために演じてる。

 本当は疲れてるはずなのに。

 誰にもそれを気づかせないように、皆が気持ちよく動けるように、空気を持ち上げている。

 俺だったら、絶対できないことだ。


 ――だから、すごいって思う。

 でも、心配にもなる。


 準備室の奥で、俺は雑巾を絞りながら、机の汚れを黙々と拭いていた。


 そのときだった。後ろのドアが軋む音がして、反射的に振り向くと――時波さんだった。


 時波さんは、少し驚いたような顔で俺を見て、すぐに柔らかく笑った。


「……あ、久志くん。もしかして、同じこと考えてた?」

「え?」


 雑巾を持ったまま固まる俺に、時波さんはそっとドアを閉めてから、道具棚の近くに腰を下ろした。


「空気、ちょっと……疲れるよね。

みんな頑張ってるからこそ、余裕なくなっちゃうの、分かるけどさ……。私、ちょっと苦手」


 淡々とした口調だけど、どこかポツリとこぼすような言い方だった。

 その言葉だけで――さっきの、明るく皆を和ませていた姿が、すべて彼女なりの努力だったんだとわかった。


「……時波さんも、休憩?」


 なんとか言葉を返すと、時波さんは少しだけ驚いたように目を丸くして、ふわりと微笑んだ。


「うん。あんまり言えないけどね。

『疲れた』って口にしたら、場を冷やしちゃいそうで。だからちょっと休憩」


 時波さんは照れ恥ずかしそうに、「内緒だよ」と舌を少し見せ、茶目っ気たっぷりに微笑む。


 俺はその仕草にドキリとして、体を背け、掃除に集中するフリをする。


「……前さ、久志くんがアニメの話してたとき、実はすごく印象に残ってたよ」


 その言葉に、俺の手が止まる。


「作品の奥にある思いとか、偏見のこととか……。すごいなって思った。

私、そういうふうにちゃんと考えたことなかったから。

なんていうか、久志くんの感じ方って、ちゃんと“自分の言葉”なんだよね。

……そういうの、良いと思う」


 心臓がドクンと鳴った。


 誰にも分かってもらえなかった言葉が、今、ようやく“誰か”に届いた気がした。


「……だから、聞けなくなって、ちょっと残念だなって、思ってた」


 時波さんは少し照れたように笑って、膝を抱える。


 その姿は、いつもよりずっと素直で、優しさにあふれていた。


 嬉しかった。何か返したくなった。


「……俺、飲み物買ってくるよ」

「え?」

「さっき、机の上のコップ殆ど空になってたし。

今日暑いからみんなも少し冷たいの飲んだら、落ち着くかなって」


 時波さんは、ほんの一瞬きょとんとしたあと、目を細め笑った。


「……ありがとう。やっぱり優しいね、久志くん」


 胸がじんと熱くなった。

 自分の小さな行動が、ほんの少しでも誰かの助けになれた気がして。

 そして――こんなふうに「ちゃんと見てくれる人」がいるなら、また頑張ってみようって、そう思えた。


 買い物袋を両手に提げて戻ってくる頃には、腕がぷるぷる震えていた。想像以上に重かった。持ち手が食い込んで、指が感覚を失いかけている。


(な、なんであんなに買っちゃったんだ俺……)


 冷たい飲み物ならきっと喜ばれる、そう思っていろいろ手に取っていくうちに、数が倍に膨れ上がっていた。


 準備室の扉をくぐった瞬間、机を動かしていた時波さんが俺を見つけて、駆け寄ってくる。


「わっ、大丈夫!? ちょっと待って、持つから!」

「だ、大丈夫、たぶん、あと少しで――」


 言い切る前に袋を一つ取り上げられて、肩の力が抜けた。


「……大丈夫って顔じゃないよ、それ」


 時波さんは笑いながら、袋を覗き込む。


「わ、こんなにいっぱい買ってくれたんだね! ありがとー!」


 麦茶にスポーツドリンク、微炭酸レモン、アイスティー……そして。


「……って、あれ? これ……おしるこ?」


 時波さんが袋から缶を取り出し、不思議そうに首を傾げた。


「あ、あー、それは……間違えて入っちゃってて。たぶん、棚の奥の方にあったやつで……」


 本当はウケ狙いで買っていた。ごまかすように笑う。

 滑ったと思い、俺の顔が赤くなっていく様に感じる。


 時波さんは数秒、缶を見つめたあと、ふっと笑った。


「……じゃあ、私がもらうね、おしるこ」

「えっ? いや、無理しなくていいよ!? 喉乾くし、今日暑いから……」

「ううん。久志くんが“がんばって運んできてくれた”中の一つでしょ?」


 そう言って、時波さんは缶を胸の前で持ち上げた。


「“優しさ”がぎゅっと詰まってる気がする。

おしるこの半分は――優しさでできてる!」


 真面目な顔で、誇らしげにそう言い切った。


 ぷっ、と吹き出してしまった。

 バ◯ァリンかよ。必死で口元を押さえたけど、だめだった。肩が震える。


「やば……ちょっと今の……ツボった……!」


 顔を伏せると、時波さんもつられて笑った。


「ね、効いた? そういう顔するんだね、久志くん」


「……や、今のはずるいって……」


 笑ってる自分に気づいて、笑いながら驚く。

 でも、それを否定する気はなかった。

 この空気が、すごくやさしかったから。


「んっ、んーっ! これ控えめで優しい甘さしてる! 喉もすーって通って潤ってくよ」

「え? おしるこって、甘ったるくてベトってしてて喉乾くイメージだったけど……?」

「ううんそんなこと無いよ! ね、ね、飲んでみて?」


 時波さんが缶を少し傾けて、俺のほうに差し出してきた。

 その缶の口は、さっきまで彼女が飲んでいた場所。


 一瞬、頭が真っ白になった。


「えっ……いや、それ、飲んだやつじゃ……」

「え? そうだけど? どうかした?」


 時波さんはきょとんとした顔で笑っている。


「ダメ?」

「……いや、ダメじゃないけど……っ」


 手が、勝手に缶を受け取っていた。


 缶はまだほんのり温かくて、ほんの少しだけ、さっきまで彼女が触れていた温度を残していた。


(やば……心臓の音、聞こえてないよな……)


 一口、そっと飲む。

 甘さ控えめで、するっと喉に流れていった。


「……ほんとだ、意外と飲みやすい……」

「でしょでしょー? もう好きになっちゃいそうー! もっとちょうだーい♪」


 時波さんが缶を持つ俺の手に掌を重ね、体に引き寄せ

、そのまま缶を傾けると、笑顔を近付けおしるこを飲む。


 手の甲だけじゃなく、体中が熱をもった気がした。


 こんな状況で「好きになっちゃいそう」なんて言葉……ずるいって……。


 「んっ? あっ、ごめん全部飲んじゃった! ふふ、乾いてたのかな。いっぱい充填。ありがとう、ごちそうさま!」


 おしるこを飲み終えた時波さんが、もう中身が無いことに気が付き、恥ずかしそうにはにかむ。


 感謝をされることは少ない。それなのに、こんなに温かくなり、胸が苦しくなる記憶は思い出せない。

 俺はそのまま、言葉も出せずに立ち尽くしていた。


「あ、ぬるくなっちゃうね。みんなに差し入れしに行こ!」

「あ、う、うん……」

「ん? どうかしたの?」


 時波さんは、抱えていた飲み物を落ちないように直しながら、首を傾げて振り返る。


 その瞬間、想像してしまった。

 ――今から教室に戻って、あまり話したことのないクラスメイトに、飲み物を渡して歩く自分の姿を。


 想像すればするほど、どう渡せばいいのかわからなくなっていく。

 いきなり渡したらびっくりされるんじゃないか。

 俺より、時波さんが渡した方が自然だし、嬉しいだろうし。

 でも、それを言ったら、じゃあ運ばせたのは誰?ってなるし、手伝うのをやめるのも変だし――


 ぐるぐる、ぐるぐる、頭の中で言葉が回っていく。

 目の前のたったひとつの行動が、ぐらぐらと揺れて、決めきれない。


 目線は飲み物に落ちたまま、言葉を探すように、口を開いた。


「……あんまり話したことない人に、俺から急に飲み物渡してもさ……驚かせるかもしれないって思って……」


 ぽつりと漏れた言葉。恥ずかしさと迷いがにじんでいた。


「……俺なんかがって、思われないかなって……。

ちゃんと受け取ってもらえるのかなって、なんか……」


 途切れがちに呟いた俺に、時波さんはすぐに言葉を返さなかった。

 ただ、時波さんは、ふわっと笑った。


「……大丈夫だよ」


 それだけを優しく言って、彼女はそっと、俺の手を取った。

 その温かさに、心まで包みこまれるような気がした。


「久志くんの優しさは、ちゃんと伝わるよ。見ててあげるから、行こ?」


 不安も、迷いも、ゆっくりと溶かされていく。


 気がつけば、手を引かれるままに、俺は一歩を踏み出していた。


 教室の扉を開けると、クラスメイトが黙々と作業をしていた。

 たまにため息が聞こえたりする。表情も皆険しく疲れているように見える。

 ざわついていたさっきと比べると、より険悪な空気に感じる。


(うっ……こんな空気の中で、俺なんかが何か出来るわけ……)


 でも、その空気を破ったのは、やっぱり――時波さんだった。


「みんなー! お疲れさま! 久志くんがね、疲れてるだろうからって飲み物運んできてくれたんだよー!」


 明るい声が教室に響く。


 そして時波さんは、まるで何でもないことのように、机の上に飲み物を並べていった。


 数人が「あ、まじ助かる」「え、やば、喉渇いてたー」と立ち上がって集まってくる。


「スポドリもあるじゃん、神かよ」

「わ、麦茶もあるー! さっぱりしてるの地味に嬉しいやつ!」


 次々に手が伸びて、自然と笑い声が戻ってくる。


 俺は入り口で立ち尽くしたまま、少しずつ、胸の奥がじわっとあたたかくなっていくのを感じていた。


 皆、集中してピリピリしたかった訳じゃなかったんだ。ホッとした。


「久志くん、ほら」


 時波さんが手招きしてくれる。


 その視線に背中を押されるように、俺はおずおずと近づいた。


「……ありがとう。おかげで、空気ちょっと軽くなったね」


 小さく、でもはっきりと、そう言ってくれた時波さんの横顔を見て――

 感動のあまり身体が震えた。

 嬉しさが込み上げて、思わず掌で顔を隠し、こくりと頷いた。


 俺はその時、勇気をもらい、勇気に憧れた。

 少しだけ、前を向けた気がした。


準備が終わると、教室には少しだけ拍手と笑い声が広がった。


 やっと、終わった。


 あのピリピリした空気が嘘みたいに、みんなの顔がやわらいでいる。


 俺も、自分の中にあった緊張がふっと解けたのを感じていた。


「久志くん、今日ありがとね」


 教室の隅で飲み物のゴミを片付けていた俺に、時波さんが、小さく笑いかけてくれた。


「あ……うん。こちらこそ……」


 どんな顔をして返したのか、自分でもわからなかったけど、たぶん――笑ってた。

 “ありがとね”なんて、言われ慣れていない言葉に、心がふわっと浮き上がるような感じがした。


 少しして「また明日ねー!」という声が飛び交う中で、それぞれが帰り支度を始める。


 俺も鞄を肩に引っかけ、昇降口を抜けて校門を出た。


 夕焼けの下を歩きながら、思わず口から漏れた。


「……楽しかったな、今日……」


 独り言なんて、外ではしないのに。今日は、気が緩んでる。


 顔が緩みそうになって、慌てて口元を引き締める。

 でも誰も見てないって気づいて、また緩んでしまう。


 ――時波さんの笑顔。


 ――「優しさはちゃんと伝わるよ」の声。


 ――そっと握られた手の温度。


 思い出すたび、胸の奥がふわっとあたたかくなる。

 まるで、今日一日で心の中に小さな火が灯ったみたいだった。


 家の近くまで来た頃には、思い返すのに夢中になって

、いつの間にか歩く速度もゆっくりになっていた。


 玄関の扉を開ける。


「ただいま」

「おかえりー、今日遅かったね?」


 奥から母の声。いつもの会話。


「うん、文化祭の準備で、ちょっと」


 そう返すと、母が振り返り俺の顔を見る。


「ふーん。なにか……いいことでもあった?」

「……なんでもいいだろ」


 ありすぎた。でも、嬉しいと思ったことをどうせ聞かれるし、恥ずかしくてそっぽを向いた。

 ほら、にやにやとする。母は俺が嬉しいのを見ると喜んでくる。それが恥ずかしかった。


 ドアを閉め、自室に入る。


 そして。


「~~っ……はぁ……!」


 布団にダイブ。


 顔を伏せて、掛け布団の中に包まる。


「……今日の全部夢か? やばすぎだろ……」


 声に出すたび、照れがこみ上げる。


「“優しさでできてる”、‘好きになっちゃいそう’って……なにあれ、ずるすぎだろ……」


 笑い声が漏れる。

 嬉しさで身体がくすぐったくて、丸くなりながら、ガチョウの抱き枕をぎゅうっと抱きしめる。


 こんな感情、いつぶりだろう。


 心が揺れて、踊って、何度でも思い出してしまう。


 時波さんのこと。


 あの手のぬくもり。


 ――明日も会えるんだ。


 思った瞬間、また笑いそうになってしまう自分がいた。


(こんな姿見られたら、嫌われるだろうな)


 落ち着いてくると、恥ずかしくなり悶える。


 俺なんかが、人気者の時波さんと話せただけでも奇跡と思えるのに、また話せるなんて考えているのがおこがましく感じた。


 「俺に自信が、あったらな……」


 自惚れかもしれないが、時波さんは俺に興味を持ってくれていた気がした。

 でも、期待に応えられる自信がなかった。

 人を楽しませる話も出来ないし、何かで一番になったこともない。顔に体だって脂肪がぶよぶよだ。俺みたいなのが、横にいちゃだめだよな……。


 さっきまでの満たされ溢れたため息と違い、胸のもやもやを吐き出すための大きな息が漏れる。


 (俺も……変われんのかな……)


 その時、具体的にどう変わるかなんて思い付かなかった。

 ただ一つ、変わりたいという強い思いが、渦巻いていた。

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