第23話「生き残る者、生き残れなかった者」

――そうしてまた、1年が過ぎた。


何事も起きず、平穏に“結婚記念日”を迎えられたことに、

ほんの少しだけ、私は胸をなでおろしていた。


(……たった1年。けれど、“無事”に過ごすのは、この家では難しいことなのよね)


あの式から丸一年。

私は十一歳に、アルディノンも同じく十一歳になった。


――そして、現在進行形で絶賛“夫婦喧嘩中”である。


きっかけは、ほんの些細なこと。


七日前――

私たちは、公爵家が所有する森の中にいた。


ロリエンヌ隊とアルディノンを連れ、サバイバル訓練を兼ねた野外キャンプを敢行していたのだ。


天幕も、装飾も、食材も、何もない。

ただ木々が生い茂り、獣道すらあやふやな深い森の中。


「いいですか皆さん。この訓練の目的は、“自分の身一つで生き延びる”ことです」


私の声に、隊員たちが一斉に姿勢を正す。


「まずは“水”の確保から。アルディノン、説明してみてください」


「なんで俺が……」


「言えないのなら、夕食抜きです」


「……湧き水……とか……木のくぼみに溜まった……雨水……?」


「正解です。けれど、それだけではダメ。必ず一度、煮沸すること。生水をそのまま飲んで、お腹を壊したらそれこそ死につながります」


そう説明しながら、私は地面にしゃがみ込み、落ち葉をどけ、

岩の間に溜まった水を見せる。


「ほら、ここ。石の下は湿気が残りやすいから、朝露を集めるには適しているわ」


「……じっとしてる石の下、掘ってまで探す奴なんていないだろ」


「生きるためには泥も飲みます。潔癖など、生死には関係ありません」


「うわ、怖……」


ロリエンヌ隊の数名がうっすら引いた顔をするのを無視しつつ、私は次の説明に入った。


「さて。次は“食”です。皆さん、周囲にある“食べられる野草”を探してください。

間違っても毒草を口にしないように。葉の形と、匂いを確認。あとは……」


私は腰に下げていた革袋から、小さな野草図鑑を取り出した。

ミヴェル夫人がくれたもので、ページには本物の乾燥標本が貼り付けてある。


「この図鑑に載っているものだけを採取してください。自信がなければ、私に確認を」


「おい、これ本当に全部食べられるのか……」


「大丈夫。間違えそうな時は……ちゃんと“先にあなたに食べさせます”から」


「ヒィィィ!!??」


喧嘩が絶えない中でも、訓練は続く。


地面に這うようにして葉をちぎる者、

根を掘って確認する者。

その全てに目を光らせながら、私は冷静に歩き回る。


(自然の中でこそ、“生きる力”が鍛えられる)


生き延びるための知識。

正しい判断力。

そして何より、状況に動じない胆力。


(――これが、いつか必ず彼らの命を守る)


◇ ◆ ◇ ◆ ◇


サバイバル訓練は――

静かに、そして確実に、隊を削っていった。


一日、また一日と、時が過ぎていく。


そして、五日目。


森にこもり、火と水と最低限の道具だけで過ごす生活に、さすがのロリエンヌ隊も疲弊を見せはじめていた。


木陰のあちこちに、顔色の悪い者たちが腰を下ろし、

擦り傷を見せながら、必死に草を編んでいたり、

石の上で黙々とナイフを研ぐ姿もあった。


それでも――


「……っ、もう少しで、乾燥肉ができる……」


「水は……今日は朝露を絞った分が残ってるな……」


誰一人、不満や愚痴を口にはしなかった。


その中心に立つのは、やはり副団長とシオンだった。


灰色の短髪に鋭い眼差しのカサランは、剣の稽古を日課として続け、

白髪と赤い瞳が特徴のシオンは、誰よりも早く起きて、森の中を巡回していた。


(本当に、頼もしいわね)


彼らの背中を見ながら、私は小さく息を吐く。


ただ――他の隊員たちは、もう限界が近い。


体の節々をさすりながら歩く者。

黙って空を仰いで座り込む者。

そして、焦点の合わない目で焚き火を見つめる者。


それでも、全員が剣を手放さなかった。

それが、この訓練の中で“もっとも重要な選別基準”だった。


私は、静かに口を開いた。


「――点呼をとります。応答してください」


「はい!」


「こちら、無事です!」


声が次々と返る。


名簿と照らし合わせながら、ひとつひとつ確かめていく。


「……三十八名、確認」


私はゆっくりと名簿を閉じた。


十二名――脱落した者たちは、三日目までに“体調不良”を理由にキャンプ地から抜けた。

だが、そのうち何人かには“仕込み”があった。


(やはりね)


よその貴族家からの刺客、そしてスモーキッドの間者。

脱落した十二名の素性は、全て裏を取ってある。


そして今、ここに残っている三十八名こそ、私が信じられる“仲間”だ。


(問題ない。私の“軍”としては、充分すぎる人数)


それでも――


一人だけ、気になる存在がいた。


それは、金髪に右目の泣きぼくろが印象的な青年――ディオ。


最初に彼を見たとき、私は“ただの軽口と体力しか取り柄のない男”だと思っていた。


なのに、なぜか残った。

それも、誰より早く水を見つけ、誰より正確に葉の毒性を見極めて。


(……自覚がないのなら、それはそれで幸せなのかもしれないけれど)


彼は――王弟の隠し子だ。


王弟も知らない。

この事実を知っているのは、彼の母親と……少し、手荒な方法で“口を割らせた”私だけだ。


(本当は、あのとき……少しだけ後悔したのよ)


脅すように追い詰めて、恐怖心から話させた。


だからせめてもの償いとして、

ディオには給金を少し多く支給し、個別の訓練も手厚くしている。


(彼がもし、自分の血筋に気づいたら……どうするだろう)


その未来が、少しだけ怖くなる。


けれど――今はまだ、“彼は仲間”だ。


私は名簿を丁寧に巻き直し、革の留め具をカチリと留めて、そっと腰に戻した。


そして――深く、ひとつ、息を吐く。


(……さて。ここからが本番)


視線を巡らせると、木陰の中で一人、黙々と屈伸をしている少年の姿が目に入った。


アルディノン。


汗に濡れた銀髪が額に張りつき、泥にまみれた頬に少しだけ疲労の色が見える。

それでも、彼は歯を食いしばりながら、拳を固く握って立っていた。


(……本当に、よく耐えてる)


潔癖で、弱々しくて、口だけは達者だった“あの頃の彼”とは明らかに違う。


今の彼は、何も言わずに、ただひたすら食らいついている。

その姿が、胸のどこかをきゅっと締め付けた。


(……可哀想、なんて思ってはいけない。ここで甘やかせば、もっと酷い未来が待っている)


戦場は残酷だ。

貴族の身分など通用しない場所では、生き延びられるかどうかは――

鍛えた“地力”と“覚悟”だけ。


(……お願いだから、アルディノン。今だけは、耐えて)


拳を握った。

たとえこの訓練のせいで、後でどれだけ恨まれようとも構わない。

いつか、きっと…。


私は一歩前に出て、声を張った。


「では――これより、ここに残った者だけに伝える。今から始めるのは、“他言無用”……いいえ、“口外一切禁止”の訓練だ」


空気が、ぴりりと張り詰めた。


風の音すら止まったように感じる。


隊員たちは、それぞれに背筋を伸ばし、

真剣な眼差しで私を見つめていた。


この五日間で、彼らの目つきは変わった。


甘えや怠けを捨て、己の力で生きる術を体に刻み込んできた者たち。

その眼差しには、確かな“意志”が宿っている。


そして――


(……そう)


アルディノンも、誰より真っ直ぐに私を見ていた。


その青い瞳は、渇くように貪欲だった。


知識を。力を。技を――全てを吸収してやる、という強い意志。


私は、ゆっくりと口角を上げた。


「……始めましょう。“最終訓練”を」

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