第26話 春の始まり

 月日が流れ、三月となった。

 少しずつ寒さが緩和され、春の訪れが待ち遠しい時期である。奈々子は産休前最後の仕事となった。お腹もかなり大きくなって、外から見ても動くのがよくわかるぐらいである。

 

 業務の引き継ぎを終えて片付けていると、何人かに声をかけられた。

「元気な赤ちゃんを産んでね」

「楽しみですね」

「身体に気をつけて」

 奈々子は皆にお礼を言って会社を出た。すると後ろから「おーい!」と呼ぶ声が聞こえる。


 振り返るとそこには蒼太が立っていた。

「蒼太さん……」

「奈々子……その……元気でな」

 まるで辞めるかのような雰囲気で、奈々子は不思議に感じる。


「実は僕、四月から転職することになったんだ」

「え……」

 この時期に転職する人は多いものの、優秀な蒼太が退職することに奈々子は驚いた。

「ベンチャー企業に誘われてね。新しいことを始めてみようと思うんだ」


 彼は以前と比べて生き生きしているようにも見える。奈々子は蒼太を応援しようと思った。

「そうなんだね、頑張って。蒼太さんなら出来るよ」

「ありがとう、奈々子も身体に気をつけて」


 奈々子は帰り道に考えていた。

 蒼太さんも新しい道か。私も“母になる”っていう新しい道を歩くんだな……。


 

 最寄り駅に到着すると、改札に小さな花束を持った渋めの男性――哲郎がいた。

「奈々子、お仕事お疲れ様」

「哲郎さん……! 迎えに来てくれたの?」

「ああ、今日まで頑張ったな」


 そう言って哲郎は奈々子に花束を渡す。

「綺麗……ありがとう!」

 ピンクのチューリップやフリージア、カスミソウの花束を受け取り、奈々子は春が来たように温かい気持ちとなった。


「あ、この子も嬉しくて動いてる」

「もうすぐ会えるな」

「はぁ……ドキドキしてきちゃった」


 話しながら家に到着すると、哲郎に電話がかかって来た。

「はい……え? 本当か?」


 哲郎が「おめでとう」と嬉しそうに話している。何かお祝いごとでもあったのだろうか。

 しばらくしてから哲郎が奈々子に話してくれた。


「城之内さんが異世界恋愛小説コンテストで、優秀賞を取ったそうだ」

「え? すごい! そういえばコンテストのこと忘れてた……何も連絡来てないから無理だったかな」

 

 奈々子はそう言って投稿サイトを確認する。そこには優秀賞で城之内さんのニックネーム“Remi”の作品が記載されていた。五百ぐらいの応募数の中で十作品程度が受賞している。


「さすが城之内さん……書籍化かぁ。私はまだまだだな」

 奈々子は彼女のページを眺める。いつか自分も書籍化できるぐらいのクォリティの高い作品を書いてみたいと思っていた。


「……育児しながら執筆って難しそうだね」

「確かにそうだな」

「私……書き続けられるのかな」

 哲郎はソファにいる奈々子の隣に座って、肩を引き寄せた。


「無理しなくてもいい。いつでも書けるのだから、休んだっていいんだ」

「そうだよね……」

「だが――」

 哲郎は奈々子の目を見つめ、彼女のお腹にそっと手を添えた。


「俺はまた君の書く物語が見たい。きっと俺たちの子どもだっていつかは……君の作品を読みたいだろう」

「本当……? また……書けるかな」

 

「大丈夫さ。もし分からなければ……」

 哲郎が奈々子の耳元で囁く。

 

「……いつでも君だけにレッスンするからさ」


 奈々子の頬が染まり、哲郎の顔を見つめている。

 そのまま優しく唇が重ねられ、二人は互いの温もりを感じていた。



 ※※※



 四月に入り、週に一度の検診には哲郎も付き添っている。もういつ生まれても良い時期となり、奈々子は大きなお腹を抱えながら哲郎と河川敷を散歩していた。

 

 桜が咲いて花びらが舞い上がる。春の心地よい風に吹かれて奈々子と哲郎はゆったりと歩いていた。

「ねぇ、哲郎さん」

「何だ?」

 奈々子は少し照れたように言う。

「初めてここに来た日のこと……覚えてる?」


 もちろん哲郎は覚えていた。奈々子と初めて結ばれた日の翌日、ここの散歩に来ていたのだ。

「覚えてるよ。君とたくさん話していたな」

「あの時さ……哲郎さんと一緒にいたいし、小説も執筆したいって言ってたよね」

「そうだな、ちゃんと現実になってる」


 奈々子はお腹を撫でて微笑む。

「うん……この子にももうすぐ会える。幸せだよ、哲郎さん。ありがとう」

「こちらこそ、ありがとう。奈々子」


 遠くで家族連れの声が聞こえる。あたたかな陽射しを肌に感じながら、二人は桜の綺麗な景色を眺めていた。



 ※※※



 それから数日後のことだった。

「て……哲郎さんっ……」

「ん……奈々子……?」

 夜中に奈々子が隣にいる哲郎を呼んでいる。


「奈々子、どうした……?」

「……破水したかも」

「……本当か?」


 哲郎は急いでタクシーを手配し、奈々子の荷物を持ってくる。

「大丈夫かな……」

「……俺がついてるから」

 

 哲郎が奈々子の手を取りタクシーに乗り込む。夜中の空いた道を病院へ向かって走ってゆく。車内で奈々子はずっと哲郎に手を握ってもらっていた。


 やがて病院に到着し、入院部屋のベッドで奈々子は横になる。看護師が診たところ、やはり破水していた。

「子宮口は……まだ二センチぐらいですね。もう少しかかると思います。ゆっくりしておいてくださいね」


 奈々子は少しホッとして哲郎の方を向く。

「はぁ……いよいよだ」

「そうだな……もうすぐだ」

 二人とも仮眠を取り、朝になると奈々子は苦しそうにしていた。


「……っ! いたたたた……」

「大丈夫か? 奈々子」

 哲郎が背中をさすってくれる。

「哲郎さん、もう少し……腰のあたりかな」

「うん……」


 看護師も何回か来てくれて、子宮口の様子を見てくれる。食事を取り、時々哲郎に背中をさすってもらっていると昼になった。


「痛い……もう無理……」

 急に奈々子が痛みで苦しみ出した。

「いやぁぁ……痛いよぉぉ……哲郎さんっ……」

「深呼吸だ、奈々子……」


 哲郎の手をぎゅっと握り締めながら、彼の胸元に頬を寄せて涙を流す奈々子。哲郎は優しく背中や腰をさすりながら「大丈夫」と声をかけていた。

 

 それから少し経ち、

「綾小路さん、分娩台に行きましょうか」と看護師に言われる。

 哲郎に支えられながら奈々子は分娩室に向かった。


 

 そして哲郎が見守る中――


 無事に二人の赤ちゃんが生まれた。


「元気な男の子ですよ……!」


 

 目をきゅっと閉じた赤ちゃんを見た奈々子は、涙を浮かべる。

「……可愛い。やっと会えたね」

「奈々子……おめでとう」


 小さな手は奈々子の指を握っている。

「……哲郎さんに似てる」

「そうか? 奈々子に似て可愛い」


 そして哲郎が赤ちゃんを抱っこしているのを見て、奈々子が笑顔になる。

 

「哲郎さん……パパの顔だ」


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