第19話 美術館
「哲郎さん、お待たせ」
「行こうか、奈々子」
お盆休みに奈々子と哲郎は、美術館デートをすることになった。都会の喧騒から離れて静かで落ち着いた場所。奈々子が緊張していると哲郎が「慌てなくて大丈夫だから」と彼女の背中に触れて、紳士的にリードしてくれる。
その仕草に大人の包容力を感じて奈々子は胸の高鳴りを感じる。静かな館内に、靴音と心臓の音だけが響いていた。
目の前の絵よりも、横に立つ哲郎の存在の方が気になって仕方ない。
「……哲郎さん、絵は見ないの?」
そう囁くと、哲郎はふっと口元だけで笑った。
「いや。俺は――君の横顔のほうが面白い」
息が詰まる。美術館の静寂が、余計にその声を際立たせた。人の流れに押されてよろけると、彼の手がさりげなく腰に触れる。
その一瞬の支えが、ただの親切には思えなかった。
「……照れてる?」
耳元に低い声。吐息がかかり、奈々子の心臓が跳ねる。
「可愛いな」
そう言って哲郎はすぐ手を離すが、彼の温もりは残っている。
哲郎さんが……いつもより近くに感じちゃう。
それに、美術館のレトロな雰囲気が似合っていて素敵……。
次の展示室に入ると、静けさの中で絵の色彩だけが鮮やかに浮かび上がっていた。
どう感想を言えばいいかわからず、奈々子は黙り込む。
「難しく考えなくていい」
隣から柔らかい声。
振り向くと哲郎は絵ではなく、奈々子の表情を見ていた。
「好きだと思えたなら、それで十分だよ」
その一言に、肩の力が抜けていく。
知識で教え込むのではなく、自分がどう感じたかを尊重してくれる――そんな余裕が胸に沁みた。
「哲郎さん……私、この絵が好きかも。夕陽が綺麗でこういう景色って癒される」
「そうだな。俺も君と見る景色は……好きだな」
まるで自分に告白されているような気がして、奈々子は顔を赤くする。
哲郎さんはいつだって私をときめかせてくれる。そう思いながら奈々子が哲郎の手に触れると、そっと指が絡み合った。ただ彼の隣を歩くだけで、不思議と世界がやわらかくなる。
油絵が並ぶ部屋に来た。絵の中の深い影に目を奪われていると、不意に肩越しに低い声が落ちてくる。
「――この絵みたいだな。光の中に隠れている影……君にも、あるんだろう?」
振り向いた途端、近すぎる距離に息を呑む。ほんの数センチ先、哲郎の視線が奈々子を離さない。
「やだ、哲郎さんたら……」
「俺は奈々子の影の部分だって好きだから」
こう言われ、さらに渋い笑顔を見せられて奈々子の鼓動は一気に速くなる。
「哲郎さんの影の部分ってなんだろう、気になる」
「……どうだろうな」
「私も、哲郎さんの全部が好きだから」
涼しいはずの美術館で二人の身体が熱くなってくる。周りには他の来館者もいるはずなのに、まるで二人だけが隔離されたようだ。
「……フフ。試したくなった」
触れはしない。けれど、触れそうで触れない距離まで顔を寄せて――
最後の瞬間に笑って身を引く。
「美術館じゃ、キスも芸術になるかと思ったんだけどな」
「……もう哲郎さんたら」
奈々子は波打つ心臓を押さえながら、ただただ幸せで哲郎に寄り添っていた。
美術館を出て、近くのレトロなお店でランチにした。昔ながらのオムライスが有名で、奈々子は「うそ……すごく美味しい」と感動している。
食後のコーヒーを飲みながら奈々子は考える。今執筆している異世界恋愛小説にも、美術館でデートするシーンを入れられないだろうか。
「哲郎さん、異世界の美術館はどんなのだと思う?」
「そうだな。魔術書や誰も見つけられない書物があるとか」
「なるほど……じゃあ近くにオムライスの美味しい店があってもいいよね」
「フフ……今日のことを考えながら書くのか?」
奈々子の頬がピンク色に染まる。
「だって……これまでも哲郎さんのこと考えながら書いてるんだもの」
哲郎さんのおかげで、異世界の王様に溺愛される主人公が出来上がったようなものなんだから……。
「確かにそうか。経験をもとにした物語を書くのが上手いからな、奈々子は」
「……だから哲郎さん、これからもよろしくお願いします」
「喜んで」
その笑顔が渋くて、眩しくて……奈々子はまた顔が熱くなってきた。哲郎と一緒にいれば、恋愛小説はいくらでも執筆できそうな気がする。
「そういえば……哲郎さんも何か執筆してるんだっけ?」
前に“また執筆してみたくなった”と彼が言っていたのを思い出す奈々子。
「ああ、少しずつ書いてはいるが……人に教えているのに自分はなかなか書けないって恥ずかしいな」
包み隠さず正直にそう言う哲郎も格好いい、と思いながら、奈々子は「どんなジャンル?」と尋ねる。
「ちょっとしたミステリーだな」
「いつか読ませてね」
「……最初の読者は奈々子だと思ってるから」
「嬉しい……」
哲郎と一緒に執筆を頑張ろうと思う奈々子。
今日帰ったらまず、異世界での美術館の描写を考えようかな。あとは哲郎さんが美術館でドキドキさせてくれたこととか……。
「嬉しそうだな、奈々子」
「今日も……哲郎さんと一緒に過ごせたから」
「フフ……」
外に出て、駅までの並木道を歩いていると哲郎が立ち止まる。
「奈々子」
「……なに?」
呼ばれただけで胸が高鳴る。
哲郎は笑みを浮かべて、さりげなく奈々子の手を取った。
「今日みたいに、一緒に過ごす時間が……俺も好きだ」
その声は、静かな美術館の余韻のように深く響いた。
奈々子は笑顔でただ頷く。指先が、あたたかく絡み合った。
世界の喧騒から離れて、この瞬間だけが永遠に続いてほしい――そう願いながら、奈々子は彼の隣を歩いた。
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