第2話 ガラス細工とタンポポの午後
私は、生まれつき――
八百万の神様たちの声が聞こえる。
姿を見ることも、できなくはない。
でも、ちゃんと“形”を持っている神様は、とても少ない。
どうやら、長い長い年月を経た存在だけが、この世に“姿”を残せるらしい。
たとえば、瓶。
私の目に見えるのは、窓際にぽつんと置かれたコーヒーの空き瓶。
それだけ。でも、そこにちゃんと“彼”はいる。
姿が見えなくたって、声は――はっきり聞こえてくる。
*
『失敬な話だ、まったく』
今日も瓶は不機嫌そうにぶつぶつとつぶやいている。
テーマは、どうやらさっきの箒とモップの噂話らしい。
『瓶の影響だぁ? 逆だ、逆!』
「逆ってことは……つまり、私の影響で瓶くんまで頭の中がお花畑になっちゃってる、ってこと?」
『違う違う違う違う違う! 頭の中お花畑なのはお前であって――お前だけだ!』
五回も「違う」を連呼された。どうやらかなり不快らしい。
瓶くんは最近、神様同士の雑談に耳をそばだてていたら、たまたま私のことをからかっていた声を拾ってしまったらしい。
八百万の神って、こう見えて(見えないけど)わりと繊細なのだ。
(でも私は……頭の中がお花畑って、ちょっと素敵だと思うけどな……できれば、黄色いタンポポがいいな)
『おい、まさか……お花畑って素敵とか思ってないだろうな』
「えー、心読めるの?」
『顔に出てんだよ、ばっきゃろう』
ふてくされた声でそう言う瓶くんは、今日もちょっとだけ親切だった。
「頭の中がお花畑」っていうのは、褒め言葉じゃなくて、揶揄なんだって。
ありがたく教えてもらって、「ありがとう」と言ったら――
『ばーか』
ちゃんと返ってきた。いつもの調子で。
瓶はもともと、父さんが毎朝飲んでいたコーヒーの瓶だった。
それを私が洗って、花を挿すために学校に持ってきた。
最初は道端のたんぽぽを入れていたけど、枯れてしまってからは空っぽのまま。
いまは窓際に、教室の忘れものみたいにぽつんと佇んでいる。
でも、私にとっては誰よりおしゃべりな友達だ。
おかげで、授業中も退屈しない。むしろ、学校生活がちょっとだけ楽しい。
今朝も一番乗りで登校して、田中さんのことを瓶くんに話した。
『へえ、もう仲良くなったのか』
口笛を吹くような声。
もちろん瓶に口はないけど、そんなふうに“聞こえた”気がした。
「あれ? 瓶くんって、全部聞こえてるんじゃなかったの?」
『遠くの人間の声は、あんまりな。耳を澄ませば、神の声はよく聞こえるけど』
どうやら、何が見えて、何が聞こえるかには“個神差”があるらしい。
なるほど、神様にも得意不得意があるんだなあ。
「じゃあ、瓶くんって他に何ができるの?」
『この世に“在る”こと。それと、見ること、聞くこと、考えること……そんなもんだな』
『基本的には、この世界に干渉しちゃいけない。多分それが“ルール”なんだよ。
よっぽど長くここに在り続けた神でもなきゃ、それを破ることはできない』
そう語る瓶くんの声は、少しだけ遠くを見ているようだった。
「へえ……じゃあ、私に神様の声が聞こえるって、やっぱり特別なの?」
『お前の能力は、例外中の例外だよ』
呆れ半分、感心半分といった声色でそう言うと、瓶くんはぽつりと続けた。
「ああ、でも……一つだけ、できることがあったな」
「え?」
「壊れることができる」
「壊れる……?」
私が聞き返すと、瓶はまるで天気の話でもするようにあっさりと答えた。
「死ぬってことだ」
その言葉が落ちた瞬間、窓の外から吹き込んできた風が、瓶の中で乾いた音を立てた。
カラリ、と。
なんでもないふりをした声の奥に、かすかに――
永遠を知っている者だけが持つ、静かな孤独がにじんでいた気がした。
*
チャイムが鳴る直前、教室の空気が一変した。
「え、なにこれ……やば」
誰かの声がして、数人が一斉に立ち上がり、教室の後ろの方へざわざわと集まっていく。
「……筆箱、ぐちゃぐちゃ」
「中身、インクまみれになってる……」
私は立ち上がることもできずに、その波をただ見ていた。机に置いた指先がじんと冷たい。
ざわつきの中心には、クラスでも人気のある子――西園寺 美紅の席があった。
彼女の机の上には、見るも無残に壊れた筆箱が転がっていた。
ファスナーは裂け、中身のペンは折られ、インクが真っ青に染みていた。
「誰か、やったの?」
誰かが聞く。誰かが目配せする。空気が、探るように動いた。
そして――
「……朝、見ました。詩さんが、美紅さんの席のあたりで何かしてました」
その声は、聞き覚えのあるもので。
私は振り返る。
「……田中、さん?」
教室中が静まりかえる。
田中 定理は、黒縁のメガネ越しに真っ直ぐ前を見ていた。私を見ないまま、落ち着いた声で言い放つ。
「私は、見ました。嘘じゃありません」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
息が詰まり、喉がきゅうっと細くなる。
さっきまで心配そうに俯いていた田中さんの姿が、記憶と重ならない。
「ちょ、ちょっと待って……私、やってない。ほんとに、違うの!」
「じゃあ、何してたのよ?」
誰かが吐き捨てるように言う。
「教室でブツブツ独り言? 気持ち悪っ。破壊予告?」
「てか、あんたしかいないでしょ。やるとしたら」
責める声が、四方八方から飛んでくる。
私はただ、机の端に手を添えたまま、震える声で言った。
「私、本当に……やってない。筆箱のことなんて、何も知らない」
けれど、誰も聞いちゃいなかった。
*
「物川さん、少し……職員室へ来なさい」
授業前、先生に呼ばれて、私は教室を後にする。
扉が閉まる音の直前まで、クラスメイトたちの視線が背中に刺さり続けた。
職員室では先生が厳しい顔で問いかけてくる。
「やっていないと言うのなら、証拠は?」「なぜ田中さんが嘘をつく必要があるの?」
冷静で、理詰めの声。でもその向こうに、“信じてない”という気配がはっきりとあった。
「……信じてもらえなくてもいいです。でも、私はやってません」
その言葉に、自分でも驚くほどの力がこもっていた。
*
教室に戻ったとき、空気は変わっていた。
隣の席の椅子が、引かれていた。
机が、少し離されていた。
誰もが私を見ようとせず、けれど存在だけを避けるようにしていた。
田中さんは、相変わらずノートを開いたまま、視線を上げない。
けれど、その肩に、わずかな震えを感じた。
私は――声をかけなかった。
かけられなかった。
静かな、静かな孤立。
窓の外の空は、ただ青く、雲ひとつなかった。
『おい、詩……大丈夫か』
瓶の声が、いつもより小さく耳の奥に響く。
「うん……大丈夫」
そう言って笑ったけれど、きっとそれは、いつもの“締まりのない笑顔”よりも、ずっと下手な笑顔だった。
◆
放課後のスーパーは、部活帰りの制服姿や、買い物袋を下げた主婦たちで少しだけ騒がしかった。
私は、カゴを片手に夕飯の食材を眺めていた。母から頼まれた牛乳とパン、それから明日の自分のお弁当に使えそうなおかずも、できれば安く――なんて思いながら、ふと視界の端に見覚えのある姿を見つける。
……田中さん?
店内の一角、アイス売り場の前で、彼女が立っていた。
制服の上にパーカーを羽織り、黒縁の眼鏡の奥の目は、どこか落ち着かなげだった。
その隣には、手を引かれた小さな男の子と、スカートをつまんで歩く女の子。
弟と、妹――だろうか。
ふたりはじゃれ合いながら、田中さんの後をついて歩いている。
あのときの冷たい態度からは、想像もできない柔らかな表情だった。
私は思わず、声をかけてしまった。
「……田中さん」
びくっ、と肩が震える。
彼女はゆっくりとこちらを振り向いた。
目が合った瞬間、その表情が一変した。
「……っ」
言葉もなく、田中さんは弟と妹の手をぐいと引いた。
そして、早足でレジを避けるようにして、出口の方へ向かっていく。
「ちょ、ちょっと待って……!」
私はカゴを棚に戻し、彼女の後を追った。
外に出ると、夕陽がアスファルトの上に長い影を落としていた。
駐車場の端で、田中さんが足を止める。
どうやら、子どもたちが「疲れた」とでも言ったのか、しゃがみこんでいた。
そのすぐ近くに、ひとつの小さなバッグが転がっている。
さっきまで田中さんが肩にかけていたものだ。
急いで逃げた拍子に落としたのだろう。
私はそっとバッグを拾って、声をかける。
「これ、田中さんのだよね。落としてたよ」
すると、彼女ははっとしたようにこちらを見て――観念したように小さく息を吐いた。
そして、弟と妹を木陰のベンチに座らせると、私の前にゆっくりと戻ってきた。
その顔は、今にも崩れそうなほどに曇っていた。
「……ごめんなさい」
静かな声だった。
でも、そのひとことに、ずっと押し殺していたものが詰まっていた。
「どうして……あのとき、私がやったって……言ったの?」
問いかけると、田中さんはきゅっと唇をかみ、拳を握りしめる。
その手がかすかに震えていた。
「……脅されたの」
「脅された?」
「“またターゲットに戻ってもいいの?”って、言われたの……」
声がかすれていた。
でも、私にははっきり聞こえた。
「“言う通りにしなきゃ、今度は弟たちもどうなるか分からない”って……」
田中さんは、涙をこらえるように下を向いた。
制服の袖で目元をこすりながら、言葉を継いだ。
「詩さんが、優しくしてくれたの、嬉しかった。でも……でも、守るものが多すぎて、どうしていいか分からなかった」
夕陽が沈みかけ、空の色が朱に染まる。
私はそっと、彼女の肩に手を置いた。
「そっか……教えてくれて、ありがとう」
田中さんは、小さくうなずいた。
その表情は、ほんの少しだけ――救われたように見えた。
𖤐✧˖°⌖・。.✶
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