第2話 ガラス細工とタンポポの午後

私は、生まれつき――

八百万の神様たちの声が聞こえる。


姿を見ることも、できなくはない。

でも、ちゃんと“形”を持っている神様は、とても少ない。

どうやら、長い長い年月を経た存在だけが、この世に“姿”を残せるらしい。


たとえば、瓶。


私の目に見えるのは、窓際にぽつんと置かれたコーヒーの空き瓶。

それだけ。でも、そこにちゃんと“彼”はいる。

姿が見えなくたって、声は――はっきり聞こえてくる。



『失敬な話だ、まったく』


今日も瓶は不機嫌そうにぶつぶつとつぶやいている。

テーマは、どうやらさっきの箒とモップの噂話らしい。


『瓶の影響だぁ? 逆だ、逆!』


「逆ってことは……つまり、私の影響で瓶くんまで頭の中がお花畑になっちゃってる、ってこと?」


『違う違う違う違う違う! 頭の中お花畑なのはお前であって――お前だけだ!』


五回も「違う」を連呼された。どうやらかなり不快らしい。

瓶くんは最近、神様同士の雑談に耳をそばだてていたら、たまたま私のことをからかっていた声を拾ってしまったらしい。


八百万の神って、こう見えて(見えないけど)わりと繊細なのだ。


(でも私は……頭の中がお花畑って、ちょっと素敵だと思うけどな……できれば、黄色いタンポポがいいな)


『おい、まさか……お花畑って素敵とか思ってないだろうな』


「えー、心読めるの?」


『顔に出てんだよ、ばっきゃろう』


ふてくされた声でそう言う瓶くんは、今日もちょっとだけ親切だった。

「頭の中がお花畑」っていうのは、褒め言葉じゃなくて、揶揄なんだって。


ありがたく教えてもらって、「ありがとう」と言ったら――


『ばーか』


ちゃんと返ってきた。いつもの調子で。


瓶はもともと、父さんが毎朝飲んでいたコーヒーの瓶だった。

それを私が洗って、花を挿すために学校に持ってきた。

最初は道端のたんぽぽを入れていたけど、枯れてしまってからは空っぽのまま。

いまは窓際に、教室の忘れものみたいにぽつんと佇んでいる。


でも、私にとっては誰よりおしゃべりな友達だ。

おかげで、授業中も退屈しない。むしろ、学校生活がちょっとだけ楽しい。


今朝も一番乗りで登校して、田中さんのことを瓶くんに話した。


『へえ、もう仲良くなったのか』


口笛を吹くような声。

もちろん瓶に口はないけど、そんなふうに“聞こえた”気がした。


「あれ? 瓶くんって、全部聞こえてるんじゃなかったの?」


『遠くの人間の声は、あんまりな。耳を澄ませば、神の声はよく聞こえるけど』


どうやら、何が見えて、何が聞こえるかには“個神差”があるらしい。

なるほど、神様にも得意不得意があるんだなあ。


「じゃあ、瓶くんって他に何ができるの?」


『この世に“在る”こと。それと、見ること、聞くこと、考えること……そんなもんだな』


『基本的には、この世界に干渉しちゃいけない。多分それが“ルール”なんだよ。

よっぽど長くここに在り続けた神でもなきゃ、それを破ることはできない』


そう語る瓶くんの声は、少しだけ遠くを見ているようだった。


「へえ……じゃあ、私に神様の声が聞こえるって、やっぱり特別なの?」


『お前の能力は、例外中の例外だよ』


呆れ半分、感心半分といった声色でそう言うと、瓶くんはぽつりと続けた。


「ああ、でも……一つだけ、できることがあったな」


「え?」


「壊れることができる」


「壊れる……?」


私が聞き返すと、瓶はまるで天気の話でもするようにあっさりと答えた。


「死ぬってことだ」


その言葉が落ちた瞬間、窓の外から吹き込んできた風が、瓶の中で乾いた音を立てた。

カラリ、と。


なんでもないふりをした声の奥に、かすかに――

永遠を知っている者だけが持つ、静かな孤独がにじんでいた気がした。



チャイムが鳴る直前、教室の空気が一変した。


「え、なにこれ……やば」


誰かの声がして、数人が一斉に立ち上がり、教室の後ろの方へざわざわと集まっていく。


「……筆箱、ぐちゃぐちゃ」


「中身、インクまみれになってる……」


私は立ち上がることもできずに、その波をただ見ていた。机に置いた指先がじんと冷たい。


ざわつきの中心には、クラスでも人気のある子――西園寺 美紅の席があった。

彼女の机の上には、見るも無残に壊れた筆箱が転がっていた。

ファスナーは裂け、中身のペンは折られ、インクが真っ青に染みていた。


「誰か、やったの?」


誰かが聞く。誰かが目配せする。空気が、探るように動いた。


そして――


「……朝、見ました。詩さんが、美紅さんの席のあたりで何かしてました」


その声は、聞き覚えのあるもので。


私は振り返る。


「……田中、さん?」


教室中が静まりかえる。

田中 定理は、黒縁のメガネ越しに真っ直ぐ前を見ていた。私を見ないまま、落ち着いた声で言い放つ。


「私は、見ました。嘘じゃありません」


一瞬、頭の中が真っ白になった。

息が詰まり、喉がきゅうっと細くなる。

さっきまで心配そうに俯いていた田中さんの姿が、記憶と重ならない。


「ちょ、ちょっと待って……私、やってない。ほんとに、違うの!」


「じゃあ、何してたのよ?」


誰かが吐き捨てるように言う。


「教室でブツブツ独り言? 気持ち悪っ。破壊予告?」


「てか、あんたしかいないでしょ。やるとしたら」


責める声が、四方八方から飛んでくる。


私はただ、机の端に手を添えたまま、震える声で言った。


「私、本当に……やってない。筆箱のことなんて、何も知らない」


けれど、誰も聞いちゃいなかった。



「物川さん、少し……職員室へ来なさい」


授業前、先生に呼ばれて、私は教室を後にする。

扉が閉まる音の直前まで、クラスメイトたちの視線が背中に刺さり続けた。


職員室では先生が厳しい顔で問いかけてくる。

「やっていないと言うのなら、証拠は?」「なぜ田中さんが嘘をつく必要があるの?」

冷静で、理詰めの声。でもその向こうに、“信じてない”という気配がはっきりとあった。


「……信じてもらえなくてもいいです。でも、私はやってません」


その言葉に、自分でも驚くほどの力がこもっていた。



教室に戻ったとき、空気は変わっていた。


隣の席の椅子が、引かれていた。

机が、少し離されていた。

誰もが私を見ようとせず、けれど存在だけを避けるようにしていた。


田中さんは、相変わらずノートを開いたまま、視線を上げない。

けれど、その肩に、わずかな震えを感じた。


私は――声をかけなかった。

かけられなかった。


静かな、静かな孤立。

窓の外の空は、ただ青く、雲ひとつなかった。


『おい、詩……大丈夫か』


瓶の声が、いつもより小さく耳の奥に響く。


「うん……大丈夫」


そう言って笑ったけれど、きっとそれは、いつもの“締まりのない笑顔”よりも、ずっと下手な笑顔だった。



放課後のスーパーは、部活帰りの制服姿や、買い物袋を下げた主婦たちで少しだけ騒がしかった。

私は、カゴを片手に夕飯の食材を眺めていた。母から頼まれた牛乳とパン、それから明日の自分のお弁当に使えそうなおかずも、できれば安く――なんて思いながら、ふと視界の端に見覚えのある姿を見つける。


……田中さん?


店内の一角、アイス売り場の前で、彼女が立っていた。

制服の上にパーカーを羽織り、黒縁の眼鏡の奥の目は、どこか落ち着かなげだった。


その隣には、手を引かれた小さな男の子と、スカートをつまんで歩く女の子。

弟と、妹――だろうか。

ふたりはじゃれ合いながら、田中さんの後をついて歩いている。


あのときの冷たい態度からは、想像もできない柔らかな表情だった。

私は思わず、声をかけてしまった。


「……田中さん」


びくっ、と肩が震える。

彼女はゆっくりとこちらを振り向いた。

目が合った瞬間、その表情が一変した。


「……っ」


言葉もなく、田中さんは弟と妹の手をぐいと引いた。

そして、早足でレジを避けるようにして、出口の方へ向かっていく。


「ちょ、ちょっと待って……!」


私はカゴを棚に戻し、彼女の後を追った。


外に出ると、夕陽がアスファルトの上に長い影を落としていた。

駐車場の端で、田中さんが足を止める。

どうやら、子どもたちが「疲れた」とでも言ったのか、しゃがみこんでいた。


そのすぐ近くに、ひとつの小さなバッグが転がっている。

さっきまで田中さんが肩にかけていたものだ。

急いで逃げた拍子に落としたのだろう。


私はそっとバッグを拾って、声をかける。


「これ、田中さんのだよね。落としてたよ」


すると、彼女ははっとしたようにこちらを見て――観念したように小さく息を吐いた。

そして、弟と妹を木陰のベンチに座らせると、私の前にゆっくりと戻ってきた。


その顔は、今にも崩れそうなほどに曇っていた。


「……ごめんなさい」


静かな声だった。

でも、そのひとことに、ずっと押し殺していたものが詰まっていた。


「どうして……あのとき、私がやったって……言ったの?」


問いかけると、田中さんはきゅっと唇をかみ、拳を握りしめる。

その手がかすかに震えていた。


「……脅されたの」


「脅された?」


「“またターゲットに戻ってもいいの?”って、言われたの……」


声がかすれていた。

でも、私にははっきり聞こえた。


「“言う通りにしなきゃ、今度は弟たちもどうなるか分からない”って……」


田中さんは、涙をこらえるように下を向いた。

制服の袖で目元をこすりながら、言葉を継いだ。


「詩さんが、優しくしてくれたの、嬉しかった。でも……でも、守るものが多すぎて、どうしていいか分からなかった」


夕陽が沈みかけ、空の色が朱に染まる。

私はそっと、彼女の肩に手を置いた。


「そっか……教えてくれて、ありがとう」


田中さんは、小さくうなずいた。

その表情は、ほんの少しだけ――救われたように見えた。




𖤐✧˖°⌖・。.✶


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