八百万の神さまの声を聞ける少女は、教室でいじめに立ち向かう

柚子

第1話 教室の隅で、小さな声がした

「うわ、最悪ー。朝からなんかこの教室、臭いんですけど!」


 甲高い声が、朝のざわつきを切り裂いた。


 冬の朝。ストーブのぬくもりがまだ教室全体に行き届かず、どこか冷たい空気が残っている。そんな中で、その声はやけに甲高く耳に刺さった。


 くすくす、くすくす――

 軽薄な笑い声が、教室のあちこちから湧き上がる。


「臭い臭い」

「まじ、死んでほしいよね」

「あはは、それは言い過ぎー」


 笑いながら歯をむき出しにしてはしゃぐ女子たちの視線の先にいたのは、一人の少女。

 肩で切り揃えた黒髪は、艶も張りもない。青縁の眼鏡が顔をやや硬く見せ、痩せた肩をさらに縮こまらせて歩く姿は、まるで冬の木枯らしに吹かれる落ち葉のように弱々しかった。


「臭いのよ。なんであんた学校に来てるの?」

「ちょっと、聞こえてる? あんたのことだってば」


 囲むように距離を保ちながら、数人の女子が罵詈雑言を浴びせる。

 その中心でうつむく彼女の顔は、ほとんど見えなかった。


 周囲には、面白がって騒ぎ立てる者。

 遠巻きに同情の目を向ける者。

 気まずそうに目をそらす者。

 けれど、誰一人として彼女の前に立つ者はいない。


「……っ」


 彼女はやっとの思いで自分の席へたどり着くと、肩にかけていた鞄をそっと机の上に下ろし、抱きしめるようにして突っ伏した。

 肩がびくりと震える。

 声を殺して耐えるその姿は、まるで壊れかけたガラス細工のようだった。


「どうしよう……」


 私は――物川 詩は、教室の隅っこの席からその光景を見つめ、小さくつぶやいた。


 指先がじんと冷たい。

 冬の朝の光はぼんやり白く、窓から差し込むそれが、教室の埃を照らしてきらきらと舞わせている。

 一瞬、その光の粒が、彼女の涙に見えた気がした。


 彼女がいじめられるようになったのは、ほんの一週間ほど前。

 このクラスは、女子同士のあいだでいくつもの小さなグループに分かれている。

 表向きは平和そうに見えて、実はその間には冷え切った壁がある。

 そして、一ヶ月ほど前から、“誰かを外す”ことで全体が結束するようになっていた。

 ターゲットは順番に変わる。前触れも理由もない。ただ、ある日突然。

 だから、彼女をかばえば、きっと次は自分が――

 そんな空気が、この教室には根付いていた。


『どうしようって、簡単だろ。放っておけばいいんだよ』


 左耳の奥から、低く、投げやりな声が聞こえた。

 それは、言葉というより思念に近い。

 体の外からじゃなく、脳の内側へじわりと染みてくる声だった。


 私はそちらへ視線を向けず、ノートに手を置いたまま、うーんと唸る。


『何を考えてんだ? おい、馬鹿、聞こえてるんだろ? 返事しろよ。何を考えているんだ?』


「……どうすれば、あの子を助けられるのかなって」


 誰にも聞こえないような、吐息のような声で答える。

 その瞬間、声の主――瓶が、呆れたように言った。


『やっぱり馬鹿だな、お前は』


「馬鹿じゃないよぉ」


『いいや、馬鹿だ。助けようとすれば、お前がああなるのは目に見えてるだろうが』


 それは、たしかに正論だった。

 私はこれといったとりえもない、平凡以下の存在。

 運動音痴で、成績も中途半端。顔立ちも地味で、華やかさとは無縁。

“見られないように生きてきた”そんな自覚すらある。


『でもな、詩の馬鹿正直さと、馬鹿みたいにお人好しなとこだけは、誰にも負けねぇよ』


「だから、馬鹿じゃないってば……」


 先生が教室に入ってくると、ざわつきはすぐに収まった。

 私はそっと頬杖をつき、窓の外へ視線を移す。


 冷たく冴えた空。

 雲ひとつない朝の青は、どこまでも澄みきっているのに、どこか孤独だった。


『馬鹿じゃないなら、わかるだろ? 関わったって、お前には何の得にもならないってことが』


「じゃあ、やっぱり私は馬鹿なんだね」


『は?』


「だって、彼女を助けて、“ありがとう”って言ってもらえたら……私はきっと嬉しい。

 それって、私にとって“得”だと思うんだよね」


 ホームルームが終わり、再び教室がざわめきはじめる。

 私は、よく“締まりがない”とからかわれる笑顔を浮かべて、静かに立ち上がった。


「だから、私は私なりに頑張ってみるから。……瓶くんは、そこから見ててね」


 窓際の光の中に、ぽつんと置かれた瓶――

 かつてコーヒーが入っていたその瓶は、教室の誰にも気づかれないまま、ぽつりとつぶやいた。


『……面倒くせぇな、人間って』


 ◆



 この世界にあるすべてのものには、神様が宿っているんだ、って。


 幼い頃、お母さんにそう教わった。

 けれど、私は――教わらなくても、知っていた。

 この世界には、目に見えないほどたくさんの神様がいて、

 遊んだり、雑談したり、ときどき口喧嘩しながら――確かに、ここに“在る”のだ。


「おーい、待ってー!」


 廊下に私の足音がばたばたと響く。制服のスカートがふわりと広がるほど勢いよく駆けながら、前を行く女の子に声をかけた。

 生徒たちの視線がいっせいにこちらを向く。でも、肝心の彼女だけは、立ち止まってくれない。


 やっとの思いで肩に手を伸ばす。触れた瞬間、彼女の体がびくっと震えた。


「な、何ですか」


 振り返ったその顔には、怯えたような色が浮かんでいた。

 声も表情も、まるで知らない大人に声をかけられた子どもみたい。

 その警戒心の強さに、一瞬こちらがひるみそうになる。


「ごめんなさい。びっくりさせちゃった?」


「……いえ、別に」


 小さく首を振る彼女に、私は話を切り出そうとして――あれ、名前、なんだっけ?

 知らないことに気づいて、あわてて尋ねる。


「えっと、その、ごめん。名前、何ていうの?」


 途端に彼女の目つきが変わった。怯えの代わりに現れたのは、はっきりとした敵意。


「田中です。田中 定理」


 ぴしゃりと断ち切るような言い方だった。

 それでも私は気にせず、にこりと笑って答えた。


「田中さんだね。えっと、私は」


「知ってます。物川 詩さん、でしょう」


 あっけなく遮られる。

 そして、眉をわずかにひそめたまま、さらに一言。


「……存在感が薄いって言いたいんですか? 名前を覚える価値もないって」


 ぎくりとした。思ってもいなかった言葉に、胸がちくりと痛む。

 きっと彼女は、これまでに何度も同じように名前を無視され、否定されてきたのだろう。


「そ、そういうんじゃないの。ごめんね、私、本当に人の名前を覚えるのが苦手で」


 精一杯の弁解をすると、田中さんは「はあ」と、ため息とも呟きともつかない声を漏らした。


「あの……それで、その……」


 話の続きを探しながら、私はもじもじと指先をいじった。

 そんな私に、田中さんは疲れきったような目を向けて、息を細く吐く。


 ……今だ。

 私は腹をくくって、声を張った。


「あのっ! 一緒に行かないっ?」


「は?」


 きょとんとした顔。まるで庭先で新種の生き物でも見つけたような、そんな反応だった。


「次、体育だし……良かったら、一緒に移動しない?」


 精一杯の笑顔を添える。

 でも、田中さんの顔はますます困惑していった。


「えっと、えっと、田中さん、いつも一人でしょ? だから、もしも……よかったら、私も一緒にいていいかなって」


 言いながら、自分でも何を言ってるのか分からなくなってくる。

 舌がもつれて、語尾がくるくる丸まる。


 沈黙のあと、田中さんがようやく口を開いた。


「……私は別に構わないけど……物川さんは、それでいいの?」


 その問いには、はっきりと意味があった。


 ――私と一緒にいると、あなたもいじめられるかもしれないよ?

 それでも、いいの?


 私は即座に、こくんとうなずいた。


「放っておけないの。一人でいるのって、寂しいでしょ?」


 のんびりと言いながら、何も考えていないように屈託なく笑った。


 それは、きっと私にとって自然なことだった。


 


『滑稽な、人間、だね』

『頭の中、お花畑。瓶の、影響?』


 教室のすぐ近くに立てかけられていた箒とモップが、からかうようにささやく。

 でも私は、聞こえないふりをしておいた。




 𖤐✧˖°⌖・。.✶


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