第六話

 「えっ……」

 使用人さんに脱いだドレスを手渡し、抱き着いて来たミスティアを両手で支えてグルグル回していたら、ナハトーラ王女が現れた。

(――は)

 裸見られた――。見られていない。まだ下着がある。それどころじゃない。だいぶ不敬な恰好だ。隣にはエマニュエール様がいる。なんだろう。圧倒的なボリューム。それに比べてボクら三人と来たら……。

「お姉ちゃん。一応言っておくけどミスティアにはまだ余地があるからね。まだ余力があるから。お姉ちゃんや王女様とは違って」

「ふふふっ。ミスティアちゃん。何が言いたいのかな? マリア様? なにか?」

「ボクは何も見ていません……」

「これから風呂か」

 エマニュエール様が歩み寄って来る。ミスティアの瞼がヒクついていた。

「うむ。では私も風呂に入ろう」

「「それはいけません‼」」

 王女様とボクの声はハモっていた。

「ミスティアだって後五年もすれば……ぐぎぎぎぎぎぎ」

 やだもう。こんなのばっかり。

 使用人さん達が入って来ると、ボクらを眺め――。

「ハッ」

 と声をあげてさも驚いたようにわざとらしい演技をしていた。この人達絶対気付いてたよ。

「失礼致しました。王女様。こちらは公爵家専用の湯殿となります。王女様方はこちらへ」

「うん? いや、ここでいいぞ?」

「絶対ダメだから」

 断固拒否。絶対面倒な事になる。絶対ダメ。

「いや、しかしな。ここでいいぞ?」

「絶対ダメだから」

「そんな遠慮なんてするな。なんなら……フッ。私の体を洗わせてやろう」

 何なのこの人。

「……王女様」

 ナハトーラ王女を眺めると――ナハトーラ王女はハッとしたような表情を浮かべる。貴女もですか……。ハッ――じゃないよ。もう。

「すみません。うちの使用人が……こっこらぁ。ダメですよ。エマ」

「フッ。いいぞ?」

(何が? 何がいいの? ダメです)

「絶対ダメだから」

「強情だな貴様は」

「絶対ダメです」

「ごっ」

「絶対ダメ‼」

「くっ。私は」

「ダメ‼」

「コイツ‼ 言わせろ‼」

「どっどうぞ」

「私は一向に構わん‼」

「ナハトーラ王女‼」

 ボクはナハトーラ王女に懇願の眼差しを向ける。

「こっこらぁー。エマ。ダメでしょ。こらぁ」

 ダメだこの人。


 王女様方を追い出してミスティアと湯船を頂いてすっきり――お風呂はやっぱりいい。さっきまでの出来事がすっかりとリセットされて、お家の中なので気もシュワシュワと抜ける。

 コップを手に、魔導冷庫から飲み物を取り出す。

 ボクはお茶。ミスティアにはノンワイン。

 ノンワインはワインからアルコールを抜いて果物の皮や実で香り付けをした飲み物。ちなみにこれはボクの手作りノンワイン。お鍋でグツグツしたのだ。

 ミスティアは甘い方が好きだけれど、砂糖の入れすぎは良くない。

 ソファーにグデンとしてしまった。

 安心したらお腹も空いて来る――。

「ボクはご飯にするけれど、ミスティア、どうする?」

「一緒に食べる」

「ボクは部屋で食べるけど……」

「一緒に食べる」

 使用人さんにお願いして温かい白パン数個とコーンスープの入った寸胴、それにローストミートとサラダ、チーズ。加えてデザートにカステラとミルクを頂いて自室へと向かう。

 部屋へ入ると人心地――ボクの部屋のニオイを感じて安堵する。ミスティアを引き入れて部屋の鍵を閉め、テーブルへと食事を並べ――後は頬張るだけ。

 椅子を引いてミスティアを――正面へと腰を下ろすとミスティアは僅かに斜めへとズレた。

 寸胴の蓋を開けオタマでコーンスープを皿へと注ぎ、そのニオイに酔いしれる。

 パンにバター。サラダにローストミートを絡めて。

 千切ったパンから温かな湯気が立ち昇っていた。きめ細かな生地。弾力がありモッチモチ。

 これを千切りコーンスープへと浸してたっぷりと吸わせたら大きなお口で頬張る。

「んんんんんん」

 美味しい。さらにここにチーズを乗せてしんなりとろけるのを待って。パクリ。うちのバターって高級バターなんだよね……。

「くうううううううう」

「美味しいね」

「みんなの前ではやっちゃダメだよ」

「わかってるよ。下品だもん。美味しいけど」

 コンコンと音がしてビクリッと体が反応してしまう。普通にこの食べ方を見られたら死ねる。怒られる。

「……すみません。ナハトーラです」

「私もいるぞ」

 おっ王女様。

 立ち上がりドアの前へ――。

「何でしょう?」

「入ってもよろしいでしょうか」

「えっ⁉ それは……そのう。今食事中でして」

「そうなのですか?」

「なんだと‼ 開けろ‼ 開けろう‼」

 エマ様。ドアをバンバン叩かないで。

「大変申し訳ないのですが、王女様は食堂にて専用のお食事が用意されているかと存じます。食堂へぜひ」

「……ご一緒に食べませんか?」

「えっ」

「嫌ですか?」

「嫌ではないのですが」

「では開けて下さい」

「王女の命令だぞ‼」

 だから君がそれを言うのは違うでしょ。エマニュエール様。

「大変お見苦しくて申し訳ないのですが……」

「お世話になっている身分です構いません……」

 鍵を解いてドアを開くとエマ様が真っ先に部屋の中へと入って来た。

「くっ。なんて旨そうなニオイなのだ。コイツ等何時もこんなうまそうなニオイの物を食べているのか」

「王室の物と比べたら随分とお粗末だと思いますよ」

「失礼しますね」

 王女の背後に使用人さんの姿が見えて焦る。テーブルの上を見られたら死ねる。どうやら追加のパンやチーズを持って来てくれたらしい。バターもある。このバターめちゃくちゃ美味しいんだよね。高いけど……。

「ありがとう……」

「外へおりますのでおかわりが欲しい時はおっしゃって下さいませ」

 頭を下げられてこちらも頭を下げる。外向け仕様の使用人さんだ。

「……意外と質素なお部屋なのですね」

 エマ様今ご用意しますのでと言いたい所だけれど、王女様が先。

「王女様。今ご用意致しますね。エマ様も」

「うむ」

「ありがとう存じます。これがコーンスープですか」

 寸胴からスープを器へと注ぎ、パンを添える。

「温かな良い香りです」

「うむ。旨そうだ」

「どのように食べればよろしいのでしょうか」

「普通に食べて大丈夫ですよ。パンはパンとして。バターはこちらに。チーズもありますよ。ローストミートは野菜と一緒にお召しになって下さい」

「うむ」

「では失礼をして……これは。何と言いますか。美味しい。美味しいです」

「うまい。うまいぞ」

「王家の物と比べたら質素で申し訳がないのですが」

「嫌味か貴様。王家に出される料理はこれと比べたら靴底とベーコンだ」

 靴底とベーコンって例えとして変だよ……。

「王家で召し上がるものは素材の味を大切にしておりますので、それでも十二分に美味しいのですが、そうですね。楽しむ物ではありませんね」

「つうか素材が不味いから素材の味もくそもない」

「こらっ。エマ。そのような言葉遣いはいけません」

「ふんっ。本当の事だ。アドヴァイトの寄越す食事は不味くてかなわん」

「ごめんなさい。マリア様」

「ううん。大丈夫。それより、ふふふっ、王家の方でもそのように言葉を崩して使用なさるのですね」

「表向きには使えませんけれど」

「パンがモチモチしているぞ。なんだこのパンは。何時もこのようなパンを食べているのか。羨ましいぞ。うちのパンは硬くてパサパサしていると言うのに‼」

「焼き立てですからね。毒見も考えますと、どうしても王家の食事は限られた物になってしまいますし……」

「うむ。パンだけでもうまいが……スープに浸すと滅茶苦茶うまいな。なんだこれは。こんな料理が許されるのか」

「本当ですね。しっとりとしたパンの温かな香りとスープのコクが合わせって……何とも。それにこのバター……なんて芳醇なのでしょう」

「あっあのう。すみません……」

「どうかしたのか?」

「どうかなさいましたか?」

「非常に申し上げにくい話なのですが……このような食べ方はマナー違反でしてそのう」

「あぁ、なるほど。そうなのですね。では今日は特別ですね」

「この旨い食べ方がマナー違反なら大抵の食事はマナー違反だ」

「ほんとっ……とっても美味しいです。体の芯からポカポカします」

「うむ」

「ローストミートとサラダもどうぞ」

 ミスティアがコーンスープをおかわりし、千切ったパンを入れ、チーズを乗せる。

「なんだそのコンボは‼ おかわりなどズルいぞ‼」

「早い者勝ちだもん」

「なんだと‼」

「こらっ。エマ。はしたないですよ‼ すみません。マリア様」

「いえいえ」

 十分に堪能したら次はカステラを頂く。

「デザートはカステーラですか。私もこれ大好きです」

「私はあまり好きではない。べたべたするからな。ベタベタすのはやだぞ」

 カステラはこれだけでも美味しいけれど、ボクは――。

 コップへミルクを注ぎ、その中へカステラを浸す。十分にミルクを吸ったところで口へと――カステラはこの食べ方が一番好き。でも下品だから怒られる。

「まぁ……そのような食べ方を」

「ミルクに浸すのか。うむむ。なんか怖いぞ」

「まぁ……その、なんと申しますか。マナー違反ですので普段はこのような食べ方はなさらないで下さい」

「まぁ、そうなのですね。うふふっ……では失礼して。……まぁ‼ これは‼ これはまたしっとりして……ミルクのコクが甘さに深みを与えますね。これは、美味しいです」

「くっ‼ なんだこれは‼ 卑怯だぞ‼ このようなおやつを普段から食べているのか貴様らは‼ うちのボソボソカステラとは全然違うぞ‼ この卑怯者め‼」

(卑怯者ってなんだ)

「ミルクは痛みやすいですので、日持ちもしないですし……贅沢ですよね。ミルクは常温になるとすぐに痛みますので早めにお召しになって下さい。ニオイが強烈になるとトラウマになりますし」

「あぁ、あのニオイはな」

「そうですね。気を付けなければいけませんね。ふふふっ。なんて贅沢なデザートなのでしょうか」

 それとなくミルクを注いだコップへと冷気の魔術をかけておく。傷んだミルクのニオイはトラウマになる。一度トラウマになると警戒してしまって食わず嫌いにもなってしまう。

 このカステラとミルクは、うちの領なら普通に誰でも何時でも食べられる庶民の味だ。実は素のカステラは苦手だ。でもミルクに浸すと大好きになる。

「はぁ……至福の時間でした」

「うむ。食事をこんなに楽しめたのは久しぶりだ」

「もっと美味しい物もありますよ?」

「なんだと‼」

「まぁ……そうなのですか」

「しばらくはうちに留まるのですよね?」

「うむ」

「そうですね。二年ぐらいは……」

「あっ」

 察し――。卒業までいるのね。

「家でも十二分に美味しい物が提供できるかと存じます。ですが家ではやはり厳かな食べ物しか提供されませんので、街での飲食もお勧めですよ」

「うむ‼ 良きにはからえ」

(ははーん。この人、実は隠す気がないな。もー。しょうがないな)

「お姉ちゃん。抱っこ」

「どうぞ」

「それは楽しみです」

 ミスティアを膝の上で撫でながら王女様方と少しの談笑をした。王女様と談笑をするうちに王族特有の苦労が何処となく垣間見えていた。豪華で優雅だと思われがちな生活にも苦労の積み重ねが窺える。規則で雁字搦め。幼少期から自由なんてほとんどなかったと王女様は微笑んでいた。庶民とのギャップにも心を痛める。

 お金がなければ街での生活は辛い。

 スラム街での生活や貧しい人が存在してしまう現実。

 生まれが良かった自分と。

 生まれが良くなかった貴方。

 責任は全て親にあると論じてしまえばそれまでだけれど……。

 その不満は国や王家にぶつけられ。

 人を貶め裏切り騙す貴族や商人もいるのもまた確かで。

 そのような貴族を捕らえて罰する事のできない現実と。

「ボクも……実は両親とは血が繋がっておりませんので」

「あら? そうなのですの?」

「はい。母は戦争で亡くなっておりまして。運良く公爵様、父様に拾って頂いて……育てて頂いておりますので何不自由なく暮らせております。ですので王女様のお気持ちも何となくですが理解はできます。こうして拾って頂かなければきっと貧しい暮らしをしていたと思いますから」

 自由はあっても何もできない。それがボクの現実でもある。ボクも養って頂いて貰っている立場だから。

「ふむ。だがこの領の暮らしを見るに、スラム街等は存在しないようだが?」

「うちの領は、他の領に比べて裕福ですから。お金が無くとも飢える心配はありません。教会でも毎日炊き出しがございますし……ただお金を稼がなくとも生活できるとなりますと、怠ける方もいらっしゃいますので、その塩梅は難しいかとも存じます。最低限の生活からでも、じょじょに普通の生活にグレードを上げて頂けるように制度を敷いてもおります。ですがその制度も悪用する方はおりますから……」

「そうか。飢えなければ良いと、そのようなわけでもないのだな」

「全ての民の要望を叶えるのは不可能だと父様はおっしゃっておりました。円を作り、全ての人達が、この大きな円に少しはみ出しても少しだけでも触れて入っているぐらいが丁度良いと父様はおっしゃっておりました」

「そうなのですね」

「管理する側も人です。完璧ではありませんから」

「不正を管理するのもまた難しい問題なのですね」

 苦笑いするしかない。全ての人は正しくないのだもの。自分の意見が通らない事に憤り他人を害してでも怒る人はいる。

 ボクにとっても他人事ではなく、それは自分にも当てはまる問題だから。

「お前もなかなか苦労しているのだな」

「こらっ。エマ。お前じゃないでしょ? マリア様。でしょ?」

「構いませんよ。ボクは本当は貴族ですらありませんから……」

「うむ。仲良くしようではないかマリアよ」

 ミスティアが眠そうに大きな欠伸をして、心を許してくれているその事実に嬉しくもなる。傍にいると眠くなる人。それは人生最良のパートナーだとボクは考えている。


 ノック音が響いて使用人さんがボクを呼びに来た。

 母様とメレンシーさんの話し合いが終了したのでそれを知らせてくれたみたいだ。ミスティアに先に寝ているようベッドへと寝かせたけれど、ミスティアがイヤイヤして離れないので背負って向かう。ミスティアは軽かった。

 門のところまで行くと母と母の秘書さん。それにメレンシーさんがいた。母の秘書さん。ちょっと苦手なんだよね。

「メレンシーさん」

「あら? お見送りに来てくれたの? ありがとう」

「今日はありがとうございました」

「いいのよ……それより、私は貴女に謝らなければならない事があるの」

「はい?」

「私ね。コープスアウトの副長なのよ」

「え?」

 その言葉を聞いて、ボクは白馬の王子様作戦に見事に引っかかった間抜けなのだと気が付いた。現実はコレだもの。みんな言うのだ。引っかかったお前が間抜けだって。世知辛いよ。

「ごめんなさいね」

「ははは……」

「もし手帳の所有権を主張するのなら、街にある冒険者ギルドに来て頂戴。大抵の場合、私達はそこに連絡係を置いているから」

「はい」

 でもメレンシーさんは悪い人では無さそうに見えていて、自分が絶対的に正しい感覚を持っているわけでも無いと気付く。

「一応言っておきますけどママは門限破りを許しませんからね。夜間にこっそり家を抜け出すような真似をしたらどうなるか? 理解していますね?」

「……はひ」

 母が身を寄せて、手で体を寄せられたのでぴったりと寄り添う。母様の傍にいると妙に安堵するのはなぜなのだろう。妙に安心してしまう。

 ため息を押し殺す。母様はボクを愛していないとその言葉が喉に引っかかっていた。どうしようもなく、ボクはそれを信じたくない。

 結局はこの安定した暮らしから抜け出したくないのかもしれない。未来が怖い。

 甘えてしまっていてどうしようもない。そのクセ、実の母の事を知りたいとも考えてしまっている。

「ふふふっ。ではマリア。またね」

「はい。メレンシーさん」

 メレンシーさんが見えなくなるまで見送り、複雑な考えに囚われながら屋敷の中へと戻るしかなかった。


 「今日は大変だったわね。ご飯は食べた?」

「はい。お腹いっぱいです」

「良かったわ」

「ごめんなさい。お母様」

「いいのよ。ママはあなたが甘えるためにいるのだから」

 心の中を見透かされたようで恥ずかしかった。歩きながら母様に寄り添ってしまう。母様に甘えたくて仕方がなかった。

「ところで……あなたはあのような女性がタイプなのですか? ママ、あぁいう女性だけは許しませんからね。どう考えても苦労する未来しか見えないわ。ママあぁ言う危ない女性や芯の無い女性は絶対に許しませんからね?」

「……何の話……ですか?」

「甘言に引っかからないようにって話よ」

「……はひ」

 甘言に引っかかると申しますか、あの時は手帳を奪われて動揺していたと申しますか。人に殺意を向けられたのは初めてだった。

「そういえば、これからは王女様も一緒に暮らすのですか?」

「そうみたいね。急な話でママも驚いているわ。わかっていると思うけれど、ママ、王女様のような女性も許しませんからね? 苦労する未来しか見えないわ。お淑やかで清楚でママの言う事に素直に従う女性でなければママは許しませんからね?」

 デッデジャヴ……。

「……何の話? ですか?」

「何はともあれ絶対に許しませんからね?」

「はひ……」

 何の話だろう。

 それから自室へと戻り、ミスティアと母様の膝の上にいた――母様はボクの話を聞いてくれた。手帳を拾った事から最近の出来事を……フロギィ教授と実の母の話だけは除いて。

 母様が話を真剣に聞いてくれて、うとうとしてしまって、母様の手が髪を撫でるたびに胸の内が温かくなってもっともっとと母様に身を寄せて顔を摺り寄せずにはいられなくて。母様が痛まないようにダメージ回復魔術を展開して。ボクの腕の中にはミスティア。ふわふわして。ふわふわして。差し出されるお胸の先端にも吸い付いてしまう。母様の前ではボクは子供に戻ってしまう。甘えてしまう。

 その指先が背中やお腹、お尻やモモを通り過ぎて。それが心地良くて。

「母様……聞いてもいい?」

「……なぁに?」

 卑怯な問いなのは理解している。それでもそう問わずにはいられなかった。その答えを想像もしている。それでも答えを聞くのは怖くて、つっかえてなかなか言葉に出来ず、最悪な場合の行動もすでに用意していて。それでも血の気が引くほどに。頭痛のような吐き気のような。それでもこの問題からは避けられず――。

「……ボク、母様の子供でいてもいい?」

 母様の瞼がヒクリッして鋭くなり、何を答えず、息と唾を飲み込干し、その言葉が紡がれるのを待っていた。

 もしかしたら振り払われるかもしれないと身構えて――頭に響くリップ音に母様を見上げる。母様の瞳は憂いを帯び潤いに溢れて零れていた。

 ミスティアのため息が聞こえたような気がした。

「何を言っているの。あなたは私の子よ。誰がなんと言おうと私の子よ……」

「母様」

「なんて言うとでも思っているの?」

「え?」

「……ママの愛が足りないのね? だからそんな事を言うのね? そうなのね? あの女がいいのね。ママの愛が足りないんだ。あーそうなんだ。ママの愛が足りないんだ」

 あの女とは誰と疑問符を浮かべてしまう。

「えっ……と。そうではなくて……もういっぱい貰っていると申しますか」

「そうなのでしょう? ママがどれだかあなたを愛しているのか。わからないのでしょう? だからそんな事を言うのでしょう? あーもう容赦しません。ママはもう容赦致しません」

「そうではなくて、貰い過ぎていると申しますか……あのう……あの女って」

「勘違いしないで。あなたは私の子なの。いい? あなたは私の子なの。子供でいいってなに? あなたは私の子供なのよ。勘違いしないで」

「あの……」

「返事」

「えっと」

「あなたは、私の、子供なの。選択権はないの? わかった?」

「……はっはひ」

「次同じ事を言ったらどーなるか」

「どう……なりますか?」

「ママのお膝の上で余生を過ごすことになります。あなたはここまで言わないとわからないし覚悟を決めない子ですからね。あなたは私の子です。私が育てました。私が血肉を分けて育てました。私の子供です。あなたがこうしてお乳を吸うとね。私はとっても満たされるの。私の子だって」

「……いいの? お母様の子供で」

「いいも何もありません。何を言っているのですか? あなたは。それとも何ですか? 今更他の女性がパッと現れてママだと名乗れば鞍替えするのですか? あーほんと嫌だわこの子ったら。は‼ どうしてくれようかしら……」

「いや、あの、ママの子です。ママの……」

「あなたは大人しく終生ママの子供でいればいいのです。わかりましたね‼」

「はひ……」

「はひ‼ ではありません‼ ママは怒っています‼ いいですね⁉」

「はっはい」

「二度目はありませんからね。次言ったらママと結婚ですからね。言っときますけど冗談ではありませんからね。この国では重婚は認められています」

 ミスティアに服を握られて視線を落とすとミスティアが半眼でこちらを窺っていた。

(どうしたの?)

 そう視線を向け母様へと視線を戻す。

「もう……母様ってば」

 冗談ばっかり。母様が父様を深く愛しているのを知っている。

 母様と一緒にいると心がトロトロになってしまう。顔を埋めてしまう。息が深くなってしまって頬擦りをせずにはいられない。

 本当のお母さんの事は胸の奥に仕舞う。お母さんの手帳を読むたびに、お母さんが望んでボクを産んだのを理解できるの。

 でもボクの母様は母様だけだ。ここまで育ててくれたのは父様と母様だもの。父の事情も母の事情も理解できる。母が望んで手放したわけではないのも理解できる。


 それでも母がもし生きて迎えに来ていたのなら、ボクはやっぱり母を選んでしまったとも感じてしまう。母に手を引かれて街を出てゆく姿が容易に想像できてしまうから。


 ごめんなさい。お母様。

 体を持ち上げて母様を眺める。母様は瞼を細めてボクを眺めていた。憂いを帯びた視線の形。ボク達子供を気遣って、ほとんど化粧はしていない。何時でも頬擦りやキスが出来るようにって。

 母様の頬へと近づいても、母様は嫌がったり拒否したりはしなかった。

 頬へと唇を寄せる――。

 母様。ありがとう。

 フロギィ教授には申し訳ないのだけれど……ボクは父様と母様が望む限り、二人の子供でいたい。

 明日、派閥を抜けよう。フロギィ教授とは決別しようと――。

 ユリウスお父様は裏切れない。父様は母様とは違う。

 頬擦りを繰り返す――。

「母様。愛しています」

 母様の指の力が強くなる。

「……もっもう一回言って頂戴」

 頬の擦れ合う感触、少し冷たくて少し柔らかくて、緩みが理解できて。

「……母様。母様。深く深く愛しております」

 ごめんなさい。母様。心の奥底に母がいて、やっぱり手帳を残してくれた母を完全に消し去るなんて疎かには出来なかった。

 ごめんなさい母様。ボクはこの家を出ます。それがけじめだから――。

「言っておきますけど見え透いた考えで家出なんてママは許しませんからね」

「わぁ……」

「わぁ……ではありません‼ あなたの浅はかな考えなどママにはお見通しです‼ 家出なんて絶対許しませんからね‼ やってごらんなさい⁉ もしそうなったら千人規模の捜索隊を編成して草の根を掻き分けてでも探し出しますからね‼」

「えぇ……」

「えぇではありません‼ わかりましたね‼」

「はっはひ……」

 ダメでした。

「あなたはほんと‼ ママの愛の深さを‼ 本気を示さなければいけないようですね‼」

「もう十分頂いています」

「いいえ‼ 全然足りません‼ ママニュウムが不足しているのね‼」

 ママニュウムってなんだろ……。

 ありがとう母様。

 なぜだかミスティアの深いため息が聞こえていた。

「マザコンもほどほどにね」

(あが……)

 どうやらボクはマザコンだったらしい……。



 一方――。

 そこには僅かに腐臭が漂っていた――。過去を積み重て出来上がり、この街の歴史と肥(こえ)を抱え、この領における農業の根幹を支えて来た。ここは下水道。

 街の至る所に集積所はあり、一か所に集められた肥はスライムにより水分と有機物を取り除かれ乾き、豊富な森の腐葉土や特殊な媒体を用いて肥料へと変えられる。

 下水を汚さず、汚物を無駄にせず、この構造は、人が増えるたびに畑が肥えるこの構造は、この領における農業を支える一つの秘密となっていた。

 魔力が必要となるこの世界の農作物とは違い、魔力を必要としない異世界の農作物だからこそこの農法が成り立っている。

 エクシオンアドヴァイトはそのもっとも深き集積所へと足を踏み込んでいた。

 この仕組みをどの貴族も躍起となり探った。

 アードリィの目を掻い潜り幾人もの密偵がこの秘密へとたどり着いた。

 だが半数はこの構造を眺め再現を諦めた。

 整えられた地下下水道を新たに増設するのにはお金がかかり、その金額があまりにも膨大だからだ。街を一から作り直すのと同義でもある。

 アドヴァイトはもっとも早くこの構造を再現するに至った――アードリィから買い付けた農作物から種を採取し、同じように畑を作り植物を育てた。

 しかしアドヴァイトではこの領のような豊かな実りを迎え得る事が出来なかった。

 どれだけ探ろうと、どれだけ再現をしようと、アドヴァイトはアードリィのような豊かな土地にはならなかった。

 ユリウスがほくそ笑む様を、アドヴァイト公爵家現当主であるデルフィーネは歯噛みしながら眺めている――。

 ユリウスの秘密を彼らは完全には暴けなかった。


 こと異世界の食物が育成するのに魔力は全く必要ない。

 ことこの世界で異世界の植物が育つのに必要な元素が一つあった。

 それはエーテルだった。

 エーテルとは、女神がヌースより作り出し生きとし生きる者へと捧げた祝福だ。

 それは生き物が、他者を思い描き憂い、祈りを捧げた時にのみ生じる願いの結晶。正の結晶と語っても良い。

 人々の正の感情よりそれらは生まれ、そのエーテルより紡ぎ出された特殊な奇跡を、太古、人々はオラクルと呼んだ。

 残念ながら現在オラクルと呼称が存在するのは聖王国のみである。

 異世界の農作物を豊かに実らせるにはこのエーテルが必要だ。特殊な肥料とエーテルが合わさり初めて異世界の農作物をたわわに実らせることができる。

 どんなに仕組みを真似た所でこのエーテルが無ければ異世界の植物は、この世界の食物連鎖に抗えない。

 ユリウスはそれを深く理解していた。

 人々が幸せとなり、喜び、歌い、踊り、エーテルに満ち溢れ農業を行い実りは豊かな物となる。豊かに実った農作物を食べ、腹を満たしエーテルへと包まれて、人々はまたエーテルを産み出し、この正のスパイラル、循環こそがアードリィ領が栄えている理由だった。

 人々が幸せを享受すればするほどに農作物もまたたわわへと実り、その実りを頂いてまた幸せを紡ぎ、それがまた農作物をたわわとする。

 それが他の領では実現しなかった。

 ユリウスはこの問題に対して学生の時より心血を注いできた。

 医術を学んでいたのも、それがこの異世界の農作物に対する答えの一角となるのではないかと探っていたからだ。人と食は切っても切り離せない関係だ。人を知り人の構造を知りそこからまた食物を探る。それは医食同源となる。

 だが別の所からユリウスはその答えへと辿り着いた。

 ラートリーハーベルだった。

 彼女とユリウスは同じ貴族の柵の中でお互いを思い合い通じ合った。粘膜の接触等は一切なく、手を繋ぎ歩き、木陰で二人並びうとうと、安らぎの中にあった。振り返り微笑むラートリー。授業でうとうとするラートリー。隣を歩くラートリー。自分を見つけた時の、あの何とも言えず微笑む様。ユリウスの心は温かな気持ちへと満たされて、そんな生活の中で育てた作物が、たわわに実りを付けた。

 ユリウスのエーテルをたっぷりと含んだ果実は甘かった。

 ラートリーハーベルが彼の答えだったのだ。

 しかしユリウスはその元となったラートリーハーベルを裏切り打ち捨てラティーナと婚姻し子を為した。

 罪悪感と苦悩を抱え絶望し、それでもと……戦時中にも関わらず下水道を整備し、スライムによる堆肥を進め、人々が幸福であるように尽くした。

 誰も知らない。

 その領はユリウスの痛みと苦悩と血と汗と涙と良心の犠牲の上に成り立っている。

 決意だけが足りなかった。決意だけが……。

 全てを投げ捨て祈った果ての彼女の死――。

 その引き金を引いたのは自分だと。

 彼女の子供が送られて来て、その苦悩は痛みへと変わった。

 彼女が自分を忘れ他の誰かを愛し結ばれ成した子なのであれば良い。

 だけれども、それ以外であったのならば……。

 それらは全て自分に責任がある。

 時を共にすればいくら政略結婚と言えどもラティーナに対しても情は湧く。それは恋や愛などとは呼べないけれど子供達にも情はある。それがラートリーへの裏切りを深めて傷となり、彼女が亡くなる事で決して消えない傷跡だけがユリウスには残った。

 マリアの存在はユリウスにとって救いであり、また痛みでもある。

 ラートリーが生きてさえいれば、お互い過去に思い合っていた時間があるだなんて懐かしくも青い笑い話で終わるもののはずだったのに――。

 許されるはずだったのに――。

 そうであれば蟠りは消え、ラティーナのラートリーに対する嫉妬を受けながらも寄り添う夫婦としてのユリウスの別の未来があった。

 だが現実は残酷で理想は理想だ。自らの思惑から物語が外れた時、人々はこの世界の主人公が自分ではない現実に気付く。傷を受け血が流れた時、その傷が深ければ深いほどに人は自分のもろさを理解する。

 人々が幸福となり集まったエーテルは教会を訪れる人々の願いと共に集約されオラクルへと結び付く。

 オラクルは人々の傷や病を代償や犠牲もなく癒しまた安寧をもたらす。

 ユリウスが思い描く理想郷の循環の中にいる――そこに一番いて欲しかった人を除いて。それがラティーナを傷つけて良い理由にはならない事を、ユリウスは良く理解している。

 他の領がどれだけ技術を真似しようとも、このエーテルの循環が不十分であるために実りを十分に得られない。

 理解すれば単純なこの構造を、しかしアドヴァイトを始めとした他の者達は再現できなかったからだ。

 それは強制されてはならない。

 それは理不尽であってはならない。

 正当であり、評価されなければならない。

 それが出来なかった。貴族社会であるがゆえに。


 エクシオンに課せられたミッションの主軸は三つ。

 一つはアードリィ領における農産の技術で新しい発見があれば盗み出す事。

 一つはユリウスが溺愛しているマリアを篭絡し婚約する事。

 そして最後の一つが、命令あれば領内へ魔物を放ち混乱に乗じて人々に恐怖を与え領の弱体化を計る事。

 そしてアドヴァイト公爵家より命令が下った。それを下したのは当主であるデルフィーネではないが、エクシオンは従わなければならない。

 なぜならば、エクシオンは前ベルーチカ少将の実の子供だからだ。

 父親は不明――ベルーチカの行いの責を受け逆らえない立場にあった。

 では何処へ魔物を放てばこの領内にもっともダメージを与えられるのか――それは地下下水道に他ならない。

 魅了のカフスはブラフだ――飲み込んでいる魔物の核を隠すため。

 エクシオンは吐き出した核を苦悶の表情で投げ入れる。

 スライムを食い巨大化するウィード(正式名称ゴールデンブッチャースライム)の核を、エクシオンは下水道深くへと放り投げてしまった。

 ユリウスしか知り得ず、何処にも記されていない豊作法を探り得られず、マリアも篭絡できず、いよいよ本領より叱責を受け、そして王家とアドヴァイトにはアードリィに対する懸念が払拭できない現状もあり、エクシオンはそれを放り投げるしかなかった。今、現在、ユリウスが領から王都へと離れている今しかないとアドヴァイト家は判断を下したのだ。

 長男であるディアスがカラーナ家の娘との婚約を決めてしまった。

 それはこの国の王がアガンテ家の者と結ばれ王家となった状況と同じである。

 ディアスがカラーナ家の娘と婚約を為さなくとも、娘であるディアナにファールーナ家との婚約話が持ち上がっていた。二重の構えを警戒しないわけがない。

 王家とアドヴァイト公爵家は、アードリィ公爵家が独立し国家となる事を恐れている。そしてそれこそが、ユリウスの真の目的であった。


 同時刻――フロギィマクレウスは街の中にて歩を進めていた。

 マリアの煮え切らない態度、なぜ迷うのかがフロギィには理解できなかった。内心を焼かれている。あの時のラートリーの仕草とマリアの仕草が脳裏で重なり仕方がない。なぜ拒むのか理解が及ばない。

 ポトリポトリと種子を落とす――。

 気配――暗闇の中に気配があった。

「はぁ……」

 深い息の鼓動が鳴っていた。深い深い息の鼓動が漏れ出していた。

 着火音と揺らめく炎――咥えている煙草へと移り陰影を灯す。

 指で口から離して一息――ディエゴはフロギィを眺めていた。

 人払いは済ませてある――。

「おいおいおい。本当にいるじゃあねーか。本当にいるじゃあねーか。このクソッたれが」

 ディエゴの背後より現れたのは五人の精鋭。

「マジじゃねーか。どうなってんだ? ポキンズ」

「知らねぇよ。ベケット。俺も目を疑ってるぜ……」

「あーあー……俺は知らねぇぞ」

「ほっほっほっ」

「ラウロウ。怒りが漏れてるって」

 フロギィマクレウスは懐かしい面々に笑顔を振りまいていた。とうとうバレたかと。知られてしまったかと。しかしそれは些細な問題でしかない。

「おやおやおや。これはこれは。みなさん。お久しぶりですねぇ。あぁ何年振りでしょうか。ディエゴ。お腹の傷の具合はどうですか? ポキンズ。腕の傷は塞がりましたか? ハウンズ。そろそろ抜糸しましょうか。ラウロウ。腰の調子はどうですか? ベケット……利き腕を変えたようですね」

「俺はもう……感無量だぜ。フロギィ。これ以上嬉しい事はねぇよ。……メレンシーに聞いた時はよぉ。何の冗談かと思ったんだぜ? 質のわりぃ冗談だってな。はぁ……本当にそう思うぜ。なぁフロギィ。俺はな。パトリシアのクソッたれのせいでなぁ? 大事な相棒を失ったんだぜ。モーヴィって言うクソッたれな相棒をよぉ。あの時、あの時によぉ。パトリシアのクソッたれが俺の足を治してさえいれば。俺のこのポンコツの足さえ治していればよぉ。今頃こんな所でこんな場所でよぉ。余生を送るハメにはなってなかったって言うのによぉ」

「そりゃみんな同じだろディエゴ」

「ちゃちゃ入れんよベケット……。勘違いすんなよ? 俺は嬉しいんだぜ。お前が生きてこうして俺の目の前に現れてくれた事がよぉ。俺達みたいなクソッたれの末路なんざぁ、決まっているようなもんだからよぉ。勘違いすんなよ? そんな俺達にも道理ってもんがあんだよ。軍法会議なんてクソッたれだったぜ」

「……規律は大事でしょ?」

「だからちゃちゃ入れんなってメレンシー副隊長さんよぉ。俺が一番怒りを覚えたのはよぉ。一番パトリシアの世話になっていた2151番がお前を殺さなかった事だよ」

 2151番と聞いて、フロギィはピクリと反応を示した。その瞳の中にどろどろとした怒りの感情が湧き上がる。あいつさえいなければ。あいつさえいなければ全てが上手に回ったはずなのに。

「……懐かしい思い出ですねぇ。今でも鮮明に覚えていますよ。あれがパトリシアをダメにしたのを。あれのせいでラートリーハーベルはパトリシアなんてゴミみたいな人間になってしまった。わかりますよ。皆さんも怒っていますよねぇ。アレさえいなければ……」

 ラートリーハーベル。この名をディエゴは知らなかった。だがある程度予想はついていた。パトリシアが貴族なのではないかと予想はついていた。そしてラートリーハーベル、それこそが本名なのだろうと今察した。

 思い返す。カトリーヌと名乗っていた女が、ある日突如パトリシアと名乗り始めた。

 偽名なのは容易に察せられる――立ち振る舞いから貴族なのは容易に予想が出来た。だがそれが何だと言うのだ。あの日、あの場、あの時、全てが平等で、命は等しかった。ただそれだけだ。

 メレンシーはパトリシアの本名を知っていた。

 それは手帳の裏表紙にこっそりと本名が紡がれていたからだ。読み込まなければ気付かないほど巧妙に隠された金色の文字列。

 しかしメレンシーは手帳に残された最大の秘密にまでは気付けていない。

「全然変わってないのな。あの時も随分と喚いていた。あの時も黙り込みを決める2151番を責めていたな。んなこたぁどうでもいいんだよ。んなこたぁな。俺はな。パトリシアには正直今でもムカついている。あのクソ女のせいでこのざまだ。今の俺を見ろ。このざまだ。国に顎で使われてやがる……」

「……訂正したまえ。ラートリーはクソ女ではないよ」

「はっ。クソ女はクソ女だろ」

「ディエゴ。貴様……」

「勘違いすんなよ。俺はなぁ。嬉しいんだぜ。軍法会議で処刑なんてよ。お前らもそうだろう? なぁ? 俺はなぁ。お前を……この手で、ぶっ殺してやりたかったんだよッ‼ 2151番が例えそうしなかったとしてもな‼ あの恩知らずめ‼ 許せねーよ‼」

「訂正したまえ‼ ラートリーは、彼女は僕の大切な女性だ‼」

「……イカレテやがるぜコイツ」

「ちょっといいかしら? フロギィ。フロギィマクレウス。貴方、手帳を持っているわね? マリアに手帳を渡したのはあなたね?」

「あ? どういう意味だメレンシー。聞いてねーぞ」

「ちょっと黙っててディエゴ。ヴィーナを殺したのは貴方ね?」

「あ⁉ メレンシーの姉御‼ それは聞き捨てならねーぞ⁉」

「落ち着いてハウンズ。ヴィーナから手帳を奪ったのは貴方ね?」

「ははは。それが何だと言うのだい? この手帳は僕のものだ。僕にこそふさわしい。僕に託された物だ。それをあの女はベタベタベタベタと」

「てめぇフロギィ……ヴィーナはな。あの子はまだ十代だったんぞ‼」

 ヴィーナは戦争終結時に孤児として部隊に拾われた子供だった。

「それが何だと言うのだハウンズ。この手帳は彼女の手帳だ‼ それなのにあの女は身の程知らずにもベタベタベタベタと触れていたんだ‼ 未熟者の分際で‼ 彼女の意思を継いでもいない癖に‼ この手帳に書かれている事は‼ 医術に対する革命なのだよ‼ それを‼ あぁ許せない‼ あぁ許せそうにない‼ 死んで当然だ‼ メレンシーお前も同罪だ‼」

「ダメだコイツは……あの時のまんまだ。話が通じやしねぇ……ディエゴ。もう無理だ。俺はもう我慢がならねぇ。コイツは俺達の同胞を二人も殺しやがった。……2151番が例え許したとしても俺は許せそうにねぇ」

「ベケット……」

「ディエゴ。俺も無理だ。パトリシアには何度も世話になった。数えきれない恩がある。ヴィーナは娘のような存在だった。それをヤッた度し難いコイツがのうのうと生きているのが許せるのか? なぁ? ディエゴ」

「ポキンズ」

「ほっほっほっ。フロギィ……お主は年端もゆかぬ子を甚振り殺したのう? ヴィーナはさぞ辛かったろうのう……。あの傷跡。さぞ辛かったろうのう? フロギィよ……。自分より若い者が先に死ぬ意味。その意味が理解できるか? のう? フロギィよ」

「決別ね。フロギィマクレウス。もはや軍法会議すら貴方には与えられないわ」

「……そういえば思い出したよ。痛かったなぁ。お前達は無情にも僕を磔にした。魔物に啄まれる僕を見て笑っていたよなぁ。これは復讐だよコープスアウト。先に手を出したのはお前達だ‼ 身の程知らずが‼」

「イカレテルぜお前は」

 街中で大規模魔術は使えない――。

 ディエゴは背負っていた銃を構えた――。一二八式短歩兵銃。

 この世界の銃の完成系の在り方は三段階を得ていた。

 初期の三十八式歩兵銃は構造こそこの世界において革命的だったものの、魔物はおろか、魔力を僅かに纏った人すらも殺せない殺傷性の低い銃だった。おまけに弾と言う制限までもが存在する。

 そこでその銃を元に改良試作が施され生み出されたのが一零八式短小銃だった。この銃の弾丸には魔力貴金鉱石(パンデモニュウム)が採用され、魔力の籠った弾丸を放つ事が出来た。しかしこの銃には致命的な欠陥も存在し砲身自体が魔力反動に耐えられない欠点があった。数発撃つと砲身が壊れてしまう。それを防ぐために魔力による銃身強度強化や反動抑制効果を施さなければならず、さらに他にも無数の欠点が浮かび上がり沢山の試作品が生み出されそして消えていった。弾の持ち運びもネックの一つであり、魔力が使えない人間でも使える兵器としては、とてもではないが呼べるような品物ではなかった。

 その試作の中で魔力を持つ人間が使いやすいように製造されたのが一二八式短歩兵銃である。

 この銃に弾丸は必要無く地変系魔術と火炎系魔術の空室がそれぞれ独立して存在し、魔力を砲身へと流す事で魔術式が起動、自動で弾丸が生成され放つ事が出来る銃となっていた。

 ある程度の魔力を持つ人間ならば、流すだけで武器として扱える品物となり、この国における主要武器の一つとなっている。

 魔力硬化弾を初め、火炎放射、冷気放射等の多機能な弾丸の使用が可能となり、そのような弾丸の中でも、もっとも最悪と呼ばれる弾丸、マッドショットも完成した。

 それは無数の地変系魔力硬化弾をリング状に発砲する所謂ショットシェルであった。

 しかしながらその威力は散弾銃の比ではない。

 空間の物体を丸ごと吹っ飛ばす威力が存在する。

 ディエゴは迷いなくそのマッドショットをフロギィへと射ち放った。

 銃を構え装填済みの魔力を視認し引き金を引いた――長年連れ添ってきた感覚。狙いすら定めない。しかしながらその中心は間違えなくフロギィを捕らえていた――。


 九番街の扉が開く――それは血の記憶だ。

 マリアの血の記憶の中に封じられた強靭な意思が目を覚ましていた。

 ベッドより起き上がり窓の外へと――腕を掴まれているのに気付いて留まる。

「おねえちゃん。何処行くのー?」

「……もうマリア? どうしたの? お手洗い? 夜中に抜け出したらどーなるか……わかるわよね?」

 街で香ばしい闘争のニオイがする。だが――戦場のニオイはしない。

 マリアは記憶の概念に目覚めた希有な存在だった。

 この現象に気付いている人間は、本人を含めて存在しない。暗示として仕掛けたユリウスの影すら気付いていない。それが暗示の効果だと認識してしまっている。

 脈々と続く血族の記憶の中で、四人がくすぶっていた。

 闘争のニオイだ。懐かしい闘争のニオイ――。血と煙のニオイだ。牙を剥きだす獣の時間だ。だがマリアに引き留められてしまう。今はまだ――マリアは再び扉の中へと戻って行った。

「お姉ちゃん?」

「……ううん」

「風邪ひくわよ。ほらっ。こちらへいらっしゃい」

「んー……」

 瞼をごしごしと擦り、マリアは再び安らかなる母の胸の内へと収まっていった。

「んふふっ。ぎゅーしましょうね。ぎゅー」

「お母さん。おかーさん」

「うふふっ。チュッチュッチュッ」

「……マザコン」

「あが……」


 ――現れた木々にディエゴを含めた面々は目を見張った。

「……植物を操る魔術だと」

 フロギィの背後より現れた巨腕は木の幹や根で構築されていた。

 古代エルフの秘術――瞬時にメレンシーの脳裏へと答えと考えられる言葉が浮かぶ。対策と傾向だ。

 古代エルフの秘術とは、植物を媒体とした魔術全般を指す。内部より魔力を含んだ植物は単純に強靭である。しかし魔力を多量に消費するのに加え植物の意思を操る術が必要なため、エルフ以外に使用できる者はいないとされる。

 それはフェノメナであっても容易ではない。魔力問題は解決できても植物の意思を無視できない。

 放たれたマッドショットが無数の枝や幹、根で構築された腕へとめり込み止まる。

 ディエゴは何度もマッドショットを射ち込んだ――めり込んだマッドショットの具合からどれほどの魔力コーティングが施されているのかを探っている。

「チッ……コイツ、内部から魔力流入されてやがる。お前ら‼ 強化魔術を解くなよ‼」

「内部からなんてありえない‼」

 フロギィが操る木々により地面は割れ建物はひしゃげる――明かりとサイレンが鳴り響き、街の警戒度は刹那に上昇した。

「泥爆弾用意‼ 捕まるなよ‼ あれに当たったら痛いぞ‼」

「痛いで済めばいいけどな‼」

 一つ一つの木々に魔力コーティングがされてやがるとフロギィは奥歯を噛みしめた。このような強力な魔術を持続的に行使するには大量の魔力が必要のはず――しかしフロギィに疲労の兆候は窺えない。

 振り降ろされた腕――コープスアウトはそれぞれが対面とならぬよう注意を払いながら縦横無尽に駆け回った。

「かてぇ……なんだこれは」

「おかしいぞディエゴ‼」

「あぁ……わかっている。わかっている」

「落ち着いて‼」

「わあってるっての。だが思ったよりも対処は楽だ‼ これ以外の魔術はこねぇぞ‼」

 コープスアウトの面々は弱点にすぐに気が付いた。気が付いたと考えた。それが本当の弱点かどうかをメレンシーは危惧し警戒を怠らなかった。

「おめぇ、生き延びた先に会得した魔術がこれかよ……なんて残念な奴なんだ」

「ほっほっほっ。ほれ、横ががら空きですぞ」

「手も足も出ていない癖に良く言う物だね‼」

「粉塵入れるぞ‼ 目くらましだ‼」

 尖らせた根のような先端を飛び避ける。さすがに今のままでの六体一には限界があるかとフロギィは笑みを浮かべた。さすがはあの戦場の生き残った部隊だと賞賛を贈る。この技で細かい動きを捕らえるのは不可能だ。今はまだ時期ではないとフロギィは考えを巡らせる。

「死にぞこない共が」

「植物達よ‼」

「オラクルなどムダムダムダ‼ メレンシー‼ この腐れ聖女め‼」

「聖騎士だ‼ この痴れ者め‼」

「はははっ‼ 女神などとんな売女ではないか‼ なぜ彼女ではなくお前が聖女なのだ‼ 彼女こそ聖女にもっともふさわしいと言うのに‼」

「だから聖騎士だと言っているだろうが‼ この馬鹿が‼」

 ラートリーは高潔な女性だったとメレンシーも考えている。

 奇跡に頼らねば生きてはいけない人々が女神様へと縋り付く中で、自らの技術だけで人々を救い導いた彼女は聖女よりも聖女らしい。

 必要がなかったから女神は力を与えなかったのだ。それを考えれば嫉妬すら覚え誇らしさすらも覚える。

「聖剣」

 メレンシーが虚空より取り出した光の剣。エーテルより生み出されたオラクルの剣。

 不味い――フロギィにとって都合が悪かったのは、メレンシーが心身共に聖なる女性であった事。

 千事璃光剣(ちずりこうけん)――地面擦れ擦れをかすり下段より上段へと大気を斬り振るわれる。間をおいて地面より突如湧き上がり伸び現れる無数の光の剣先。木々を裂き千切り切り飛ばし別つ。

「このっ‼ くっ‼」

 投げつけられた泥の塊がフロギィの服へと張り付いていた――泥爆弾。気付いた時にはすでに遅く。炸裂する。だが防御は間に合った。

 下あごが無い事に気が付く。マッドショットが下あごを弾き飛ばしていた。

 笑いが止まらない。さすがに強い――あの地獄を生き抜いた精鋭なだけはある。

「フロギィマクレウス――悔い改めろ‼」

 この腐れ聖女が――袈裟斬りが来る。それが裂けられない事実を、斬られる前から感じ取っていた。あの絶望よりも全く痛くはない。あの時、あの場所で、彼女が、誰を視界に収めていたのか、あれ以上の痛みがない。あの痛みを味合わせてくれ……。あれ以上の痛みを味合わせてくれ。フロギィは懇願するようにメレンシーを眺めた。

(僕に味合わせてくれ。あの痛みを……)

 その痛みを彼女以外が与えてくれる事等無いのだろう。フロギィはそれも良く理解している。

 骨までも切断する斬撃――オラクルと言う魔術のカウンター。理不尽の極み。回転する残光。ハチの巣となるモモと脹脛。視界が飛ぶ。飛ぶ。飛ぶ。宙に舞う。フロギィは笑みを浮かべていた。

(もっと痛みを与えてくれ‼ これじゃあ物足りない‼ これじゃあ物足りない‼ あの痛みを与えてくれ‼)

 叫ばずにはいられない。しかし喉を失い言葉にはならなかった。

 その痛みだけがフロギィに彼女を感じさせてくれる。認識させてくれる。意識させてくれる。

 己の中にある彼女を感じさせてくれる唯一の方法なのだから。

 彼女は僕の中にしかいない等と。

(僕の物だ‼ 彼女とそっくりなマリアも‼ それを強く感じさせてくれるマリアも‼)

 ――僕の物なのだと叫ばずにはいられない。主張せずにはいられない。

 地面へと落ち跳ねた。一度、二度――そして転がる。露出した舌。地面の味。ヒリヒリとした空気。魔物の味。

(最高だ‼)

 舌に纏わりつくこの不快感も。欠けて感覚だけの顎も。そして自分を見下げるクソ野郎共も。フロギィにとっては最高のスパイスだ。

(最高だ‼)

 あの時と同じ。ディエゴ、ベケット、ポキンズ、ハウンズ、ラウロウ――そしてメレンシー。怒りだ。怒りしかない。

(2151番――。痛みは彼女が、そして怒りをくれるのはお前だけだ‼)

 打ち震えている――。

(お前もそうなのだろう? お前もそうなのだろう⁉)

 途切れる意識の中――フロギィ。

(早く僕の物になってくれ。マリア)

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