第五話
「マリア様。ごきげんよう」
「……ごきげんよう」
「マリア様。ご挨拶申し上げますわ。今日も素敵なドレスですわね」
「ありがとう。こちらこそご挨拶もう上げます。ごきげんよう」
「いいえ。良いのですわ。同じ貴族同士。仲良く致しましょうね」
「……よろしくお願い致します」
今までクラスで一人だけドレスを着た変な奴だったのに、今はごきげんように戸惑う変な奴になっている。クラスに到着するまでにすれ違った方々に挨拶をされ、先輩にすら頭を下げられると居心地がわるわるのわるわる……。
うちの学院は一応名門の体がある。
「おはようマリア」
「……おはようございます。エクシオン様」
「もう話しかけても大丈夫そうだね」
そしてこのエクシオン様。
「おはようございます。マリア様ッ」
そしてこのヴェロニカさんです。恐縮です。顔が青くなって参りました。
ヴァロニカさんの圧がつおい。
(うわぁ……このヴェロニカさんの圧がつおい)
唐突だけれどエクシオン様が傍に近寄ると頬がピリピリする理由がわかりました。エクシオン様が耳に飾っているカフスのせいです。
これ、精神干渉系アイテムです。
精神干渉系アイテムで有名なのは魅了効果。この魅了効果は魔術的に解明されていて、一定範囲内に装着者が近寄ると範囲内にいる者の脳内快楽物質が分泌させる効果がある。
王国では禁止していないけれど、領内での使用は禁止されている。効果にもよるけれど、強力な物は一発アウト。指輪自体に効果があって、本人の魅力が増すわけじゃないので微弱な物は許されている。
簡単に言えば、綺麗な指輪を魅力的に感じる効果を装着者にすり替える刷り込み方式が主流で、厄介なのは条件反射、例え魅了の指輪を装着していなくとも、何度も経験するたびに条件反射で勝手に脳内快楽物質が分泌されるようになってしまう。確かなんとかの犬効果。犬効果だったと思う。
前時代では良く夫人に運命の出会いを演出するために使われていた。
特に月のもので体調が不安定になりやすい女性には効果がてきめんで、接触頻度と回数、時間を増やすだけで好感度が上昇してゆき、指輪が無くとも定着してしまう。
だからカウンターアイテムとして魔力干渉系阻害アイテムが沢山開発された。
魔力干渉なので魔力が強い人間にも基本的には効果がない。
王族とか貴族の方は、身体強化魔術で定期的に魔力干渉を弾き飛ばす訓練を施すと聞いた。
ボクはフェノメナなので魔力干渉は効果がない。
精神干渉系アイテムは種類が豊富で専門的にはもっと細かい。
精神干渉系アイテムは良くない。良くないけれど製造する人も使用する人も後を絶たない。魅了は元より汚染などもある。精神汚染はひどくなると対象を自殺まで追い込むひどい物だ。
相手を意のままに操るマインドコントロール系もある。
マインドコントロールは家の領では一発アウト。販売した人、使用した人は鉱山で死ぬまで働かされる。そしてそのお金を対象者に賠償として払い続けなければならなくなる。
ちょっと印象が良くなる程度なら処罰はない。普通に貴族もみんな使っているから処罰できないの方が正しいけれど。カウンターアイテムもあるしね。
家はボクが体質的に精神干渉系アイテムと相性が悪いので置いていない。
ある程度の効果を超えるとボクの魔力がカウンター発動して壊しちゃうから。
この手のアイテムは魔力を空気中より集めるか、装着者から集めるかで効果の大きさが変化する。
エクシオン様が装着しているのは装着者から集めるタイプで効果もおそらく微弱なものだ。
この人、清潔そうだな。ぐらいの印象操作だと思う。
魔力干渉系アイテムは魔力の微弱な方々や精神的に不安定になりやすい方々には効果てきめんなので、だから家の領では魔力干渉系カウンターアイテムが身近な物となっている。
体臭を変更するアイテムとか、体質が気になる人のアイテムまで取り上げるわけにはいかないからね。
ボクも自分の体臭は気になる……。
父様達公爵家の血筋の方々は幼少期より特殊な食べ物を与えられて体臭などが変えられているそうだけど、ボクは多分違うしね。
母様やミスティアからリンゴの匂いやミルキィ―なニオイがするのはそのためだと考える。
これから公爵家の関係者とみなされてしまう以上、ボクも自分の在り方には注意しなければならない。ボクだけならば良いけれど、ここからは家族の品位まで問われる問題だ。
「授業が始まります。エクシオン様。クラスに戻った方がよろしいかと存じます」
「どうしたの? その喋り方。もしかして気にしている?」
(うへーん……)
「ふんっ‼ エクシオン様。不躾で申し訳ないのですが教室にお戻りになられて下さい。マリア様が困っています」
(どうしたの? ヴェロニカさん……。何か悪いものでも食べたの? 大丈夫? お腹ぽんぽんする?)
「やぁやぁ。おはよう諸君。では授業を始めようか……」
フロギィ教授がドアを開いて教室へ入って来るのを視界へと捉えると心臓の鼓動が跳ねあがり、思わず顔を背けてしまった。
フロギィ教授がボクに視線を合わせているように感じる。顔を背けながら体を左右に動かしてみると視点が左右にズレているように感じる。
「マリア」
そう呼ばれて背筋がビクリッと跳ね上がってしまった。
「はっ……はい」
近づいてくるフロギィ教授に体が硬直してしまう。
「エクシオン君。君は教室へ戻りなさい」
「まだ授業には5分猶予があります」
「僕は教授で君は生徒だ。この学院内において教授は絶対だ。どういう事か理解できますね? さぁ、行きなさい」
「はい……教授」
「さて、マリア。放課後、派閥へと顔を出すように。君は一週間丸ごと学院を休んだからねぇ。今日から本格的に活動を開始しよう」
「……すみません」
手を握られる――妙に温かくてゴツゴツとした皮膚だった。
指に嵌められた指輪――。
(あっ。これラッキーアイテムだ)
「指輪が気になりますか? これはね。ラッキーアイテムです。ちゃんと派閥で頑張れば差し上げますよ」
ラッキーアイテムも精神干渉系アイテムだ。違うのは装着者をハッピーにすること。伝説的なアイテムだと運命曲線にまで干渉して持ち主に幸運を呼び込むらしい。
家の家宝にも一つある。
精神干渉系アイテムは相手に作用する物と自分に作用する物がある。
手の甲に口付けされて体が石になってしまった。
「はえぇ?」
「教授‼ やっぱり私も派閥へ参加したいです‼」
「マリア。また後で。ヴェロニカさん。これから授業です。その話はまた今度。授業を始める前に二人転入生を紹介します。入って」
教授。雰囲気が変わったかも。なんか幸せそう。
……手を拭いたいけれど拭うのはさすがに失礼かな。
(教授……二人いる? 別の個体?)
そんな事を考えるボクは不謹慎なのかもしれない。
教室のドアが開き足跡が二人分響き渡ると注目も集まる。ボクも視線で追っていた。
一人は大柄な女性で使用人の服を着用している。
一人は小柄な女性で水色を基調としたドレスを着用していた。
「こんにちは。皆さん。私はナハトーラ、リンウイニュイ。ご存じの方もいらっしゃるかと存じますが、この国の第二王女です。どうぞよろしくお願い申し上げます」
小柄な女性の方がそう告げてスカートを摘まみお辞儀をした。
「エマニュエールだ。よろしく頼む」
それから大柄な使用人の方がぶっきらぼうに王女を押しのけ前へと進みで出て来た。
この大柄な方。竜だ。竜の血族だ。この国で竜の血族は王家のみ。エマニュエールさんは王家の方だ。魔力の質でわかる。ボク、王家の人間は一度視界に入れた事がある。忘れていない。この方が第二王女だ。
口に指を当ててしまう。
ニュイ王女。この方……は後天的なフェノメナだ。
フェノメナには先天的な人と後天的な人がいる。
ボクは先天的なフェノメナ。生まれた時からフェノメナである事を運命づけられた個体。後天的なフェノメナは子供の頃から訓練を受ける人がなる。
後天的なフェノメナは国同士の協定で非人道的だとして製造を中止されている。
赤子の頃から魔力増大に努めるから大半が亡くなってしまう。
特に親国である魔帝国家が後天的なフェノメナの製造に否定的だ。
黙っていた方がいいよね。
ある組織の人達が後天的なフェノメナの製造をやらかして保護された子供を知っている。父様に保護されたその子は命の保護のために魔帝国家へと預けられた。
後天的だと歪だから魔力の質ですぐにわかる。
「はい。自己紹介は終わりでいいかな? では席に着いてもらおうか」
「はい」
「うむ」
ちなみにボクには専属の使用人はいないよ。
うちの領は治安がとにかく良いって。子供が一人で歩けるのはこの領ぐらいだって人伝に聞いた。自慢なんだ。父様はとにかく領のみんなに好かれている。
ニュイ様と視線が交わり、ニュイ様はにっこりと笑みを浮かべていた。
(良い人そう……)
でも王家の方はボクには関係ないかな。うちの学院て身分問わずだしね。みんながボクに挨拶してくるのは、それだけ父様率いる公爵家が慕われているって事なのだと思う。父様が誇らしいよ。
ボクなんかがそんな風に考えてはいけないのかもしれないけれど……。
授業はつつがなく――医術士になるのは実はとても難しい。
試験があるし、試験に合格しても医術士にはなれない。
派閥の教授に推薦されて初めて医術士の卵になれる。そこからさらに現役医術士の元で修行をして、その方に認められて推薦されて国が認証する事で初めて一人前の医術士を名乗るのを許される。
ボクはそこまで考えていなかったけれど……。実際に聞いて見るとその門が如何に狭いのかが窺えてしまった。
フロギィ教授の派閥に所属してしまっているしね……。
(グフッ……)
考えただけで吐血しそう。ボクはもう終わりかもしれない。
「……ちょっと、あんたに話があるんだけど」
隣のヴェロニカさんに鉛筆で脇を突かれる。
「はぁ」
「お昼……時間作りなさいよね」
「ふぁい」
「よし……」
(ボクはもうダメかもしれません。あははっ。はははっ)
どうにかして生活を確立しなければいけんばい。
午後になりお昼ご飯。
ヴェロニカさんに連れ立ち中庭へ。お話ってなんだろ。
「ご飯を食べながら話しましょう」
「いいけど」
「あのう……マリア様ですよね」
ニュイ王女とエマ様だ。
(あれ? 逆? あれ? まぁいいっか)
「ニュイ王女ッ‼ あのっ。ごっご挨拶申し上げます。ヴェロニカです。メイレン家のヴェロニカです」
(ニュイ王女呼びはダメだよ。ヴェロニカさん……。略したら不敬だよ……。略すとしたらナハトーラ第二王女様って呼ばないとダメだよ)
「こんにちは。ヴェロニカ様。それでマリア様……ですよね?」
これは父様のためにもちゃんとご挨拶しなければいけない事案だ。
立ち上がりスカートを摘まみお辞儀をする。
「お初にお目にかかります。マリアです。ナハトーラ第二王女殿下、エマニュエール様。よろしくお願い申し上げます。ご挨拶が遅くなり申し訳なく存じます」
「……お初ですか。そうですか。マリア様。今私達はただの御学友ですよ。身分に関わりなく、ただの学生として接してゆきましょう」
「お心遣い、感謝致します」
「王女がいいと言っている。そのようにせよ」
(エマニュエール様の方が威厳がある……んだけど、それでいいのかな)
「わかりましたエマニュエール様」
「私の事はエマと呼べ。エマと呼べい‼」
この人……絶対に遊んでいるでしょ。威厳がありすぎるのだけれど……。
「これからお昼でしょう? わたくしもご一緒してよろしいでしょうか?」
「どっどうぞっ。ぜひに。光栄に存じます」
ボクは遠慮したい。ヴェロニカさん。ボクに話があるのではなかったの。
「感謝申し上げます。では……エマニュエール」
「はい。お嬢様」
(お嬢様じゃなくて王女様でしょ……いいけど。なんだろ。かえって王女役のニュイ様の方が王女に思えてきた)
今日のお昼は生春巻き。母様が用意してくれたものだ。
「……この領では、色々な食材があるのですね。わたくし、この領では見た事のない食材に沢山出会いましたの」
「うまい」
(お前が先に食べるんかいッ)
思わずツッコみを心の中で発してしまった。王女様が用意したのはバケットのよう。三分割されたバケットに野菜やハムなどが挟まれている。
「この領では初代勇者様が持ち込んだ二つの穀物を重点的に、それ以降もとうもころしやカボチャ等、異世界の植物を重点的に育てているのですよ」
「そうなのですか」
「はい。父様の方針で」
「それはとても苦労なさったのでしょうね」
「そう伺っております。異世界の植物の種子は入手経路も限られておりますので」
初代勇者様が持ち込んだ植物は五つ。小豆、小麦、お米、とうもろこし、カボチャ。銃と言う武器の概念を持ち込んだのも初代勇者様だ。確か三十六式歩兵銃。もっと幼い頃にモデルガンで兄様と遊んだ。
代々種子を預かり保管してきた某王家が滅び、父の元へと種子がやってきた。
母様のおばあちゃんの家系だ。
元々小麦や小豆、お米は栽培されていたのだけれど、とうもろこしやカボチャ等も栽培されるようになり、近年では他にイチゴ、モモ等も栽培されるようになった。これも異世界から召喚された聖女様が持っていた果物の種から派生したものだ。
勇者様達が異世界より持ち込んだ植物は既存の植物よりも収穫量が多く安定していて味も既存の物よりもずっといい。土壌の魔力も吸い取らないしエーテルを保有しているので余分な魔力を中和して体にもとっても良いのだ。
魔力を含まないので魔力を食べる害虫に強いし、異世界の植物を植えるだけで魔物除けにもなる。良い事尽くめ。
でもやっぱり未知の物を恐れる傾向はあって、それは高貴な人ほど過敏。
この国で異世界の植物を中心的に育てているのは家の領だけ。
王女様がこちらを窺っていらっしゃる。
「よろしければお一つ如何でしょうか?」
「よろしいのですか? これは……」
「生春巻きです。お米の皮で包んだ野菜です」
「そうなのですの」
「うまい」
(だからお前が先に食べるんかいッ)
エマニュエール様が先に生春巻きを摘まんで口へと運んでしまった。
(毒見なの? おかしくない? 逆じゃない? いいけど)
「ではわたくしもお一つ……んっ。これは、なんとも不思議な味わいですね」
「お口に合いませんか?」
「いいえ。とても美味しいです。バケットは少々硬くて顎が疲れてしまいますの。これはとても柔らかくて食べやすいです。あのぅ……」
「もう一つ食べますか?」
「はい……」
「うまい」
(もういいよー。わかったよ。エマニュエール様も好きに食べればいいよ)
「代わりにどうぞ」
「ありがとうございます」
代わりにバケットを頂いて口に運んだ。ちょっと辛かった。
ウィヴィーの姿を視界に捉えて、ウィヴィーもこちらに気付いている。でも何も声をかけてはくれなくて、むしろ冷たい表情を向けられて寂しい気持ちになってしまった。
「……ところで、ヴェロニカさん」
「なによ? 私も一つ食べてあげてもいいわよ?」
「どっどうぞ?」
「ふんっ」
「それで? 話があるのではないの?」
「むぐっ……。そうね。王女様には失礼して」
「お気になさらず」
「うむ」
(うむ……)
「はぁ……。そうね。お願いがあるの。私がフロギィ教授の派閥へ入れるように協力して欲しいの。そのためなら何でもするわ。だからお願い。私を派閥へ紹介して」
「何でも?」
「えぇ、何でもするわ」
(本当かなぁ?)
「じゃあ、ボクと結婚を前提に恋人としてお付き合いしてくれるのならいいよ?」
「は?」
「は?」
「あ?」
(人間てそんな冷たい視線と言動ができるんだ……)
三人でハーモニーを奏でなくともいいのに。
「一応言っておくけれど冗談だよ……」
「わかってるわよっ。最低ね。こっちは真剣なのよ‼」
(何でもって言ったのに……)
人が言う何でもは大体何でもでもない。
「わかりました。聞くだけ聞いておきます」
「そうよね。嫌よね……。でもそこを何とかお願い……いいの?」
「聞くだけね。ボクに決定権はないから」
「ありがとう‼」
何だか複雑……。
「チッ」
露骨な舌打ちが聞こえてそちらへと視線を向けるとウィヴィーがこちらを睨んでいた。
「ウィヴィー。どうかした?」
「ううん。何でもない」
「てか、あんたご飯食べるの遅すぎ。早く食べろし」
「ごめんごめん」
「あっ。マリア。こんな所でご飯食べてたんだ。偶然だね。実は僕もお昼なんだ。良かったらご一緒してもいいかな?」
エクシオン様。さすがにそんな露骨過ぎる偶然はないよ……。
フロギィ教授には一応ヴェロニカさんを推薦してみたけれど……。
「構わないよ。パパには何でもお願いしていいんだ」
耳元でそう告げられて戦慄してしまった。こんな感情を抱くのはいけない事なのに、フロギィ教授が苦手だ。本当のお父さんかもしれないのに。
「ほらっ。パパって……呼んでごらん?」
「すみません……時間を下さい」
「あぁ、いいとも。何時までも待つさ。何時までもね」
「恐縮です……」
ヴェロニカさんと二人でフロギィ教授の元で指導を受ける事となった。
初日から死体安置所へ行ったのには驚いたけれど。
「人体を知らずして人体を癒すのは不可能だよ。これからは毎日通うからねぇ」
「はい‼ フロギィ教授‼」
ボクは甘かったのだと感じる。実際甘かった。医術士はそんなに甘いものではない。生半可な気持ちだったのを少し後悔した。
派閥の授業が終わりヴェロニカさんは先に帰された。
ボクには話があるから残って欲しいと。手帳に関してだと告げられると残らないわけにはいかなかった。
「手帳はもう見たかい?」
「はい……一通りは……」
「実はね。この手帳に関して一つわかった事があるのだよ」
「……本当ですか?」
「この手帳はね。後から書き足されているのだよ。最初の文言にまるで助手でもつけるかのように書き足されている」
「そうなのですか……」
「わからないかい? この手帳はね。君のために書かれた手帳なのだよ」
「……え?」
「ごらん? ほら……この手帳はね。君のために文言が足された手帳なのだよ」
「……本当に?」
「あぁ。そうだよ。ママからのプレゼントだ」
母様に申し訳ないと感じながらも、涙が零れそうなほど嬉しかった。苦手だったり、申し訳なかったり、嬉しかったり、感情がグチャグチャになってどうしたらいいのか判断できなかった。
「いいかいマリア。あの家族は偽物なのだよ。ユリウスは君の母親であるラートリーに対する罪悪感から君の世話をしている。君を愛しているわけではないのだよ。いいかい? 卑怯にもあのユリウスは……君を通して君のお母さん。つまり僕の妻を愛しているつもりなのさ」
(なんでそんなこと言うの?)
「いいかい? マリア。ラティーナアードリィは君を愛しているわけではない。君を通してユリウスを愛しているのさ。あの家族は一人も君の事なんて愛してなんていないのさ」
そうとも感じていた。確かにそうとも感じていた。父様が愛しているのはボクじゃない。ボクを通して別の人を愛しているだけ。母様もそう。
それでも、その言葉だけは聞きたくなかった。
「君を本当に愛しているのは僕と彼女だけだ。僕とラートリーだけだよ。愛しているよマリア」
本当のお母さんがボクのために手帳を書いてくれていた。それがとても嬉しいのも嫌だった。母様に申し訳なくて……。ボクの母様は母様だけなのに。
それがとても苦しくてフロギィ教授の言葉はあまりにも甘くて、甘えそうになってしまって、それを受け入れたい自分と拒否したい自分が反発し合い涙が止まらなく、ただ悲しかった。
「泣かないで。パパが何時か、あのユリウスに思い知らせてあげるから。君と僕のママを奪った公爵家に。だからもう少し待っていておくれ」
ボクの父様と母様はあの二人なのに……。復讐心なんてないよ。
手帳に書かれている文字が染みわたるようでただただ苦しかった。
「お母さんて……どんな人でした?」
そう聞くのが精いっぱいだった。
「素敵な人だったよ。完璧だった。絵画の一枚から飛び出してきたかのように。医術に関しても腕が良くてね。僕も最初は助手だったんだ。写真見るかい?」
「……はい」
フロギィ教授が取り出したのは一枚の古ぼけた写真だった。
アングルがちょっとおかしいし変な所で切られている。でも一人の女性を主軸に撮られた写真だとは認識できる。戦場なのかな。沢山の怪我人の中で険しい表情をして治療しているようだった。
この人が、ボクのお母さん。
「君は本当にラートリーにそっくりだよ」
そう告げられると、本当に悲しかった。
「もう我慢しなくていいんだよ。僕と一緒に暮らそう。大丈夫。君を一人養うくらいわけはない。二人で一緒に暮らそう。親子なのだから、それが普通だ。そうだろう?」
「……時間を下さい。そろそろ帰ります。門限があります……」
「帰るのか⁉ あの家に‼ 君の母親を奪ったあの男の元へ‼」
急に声を荒げられて驚いてしまった。魔力の乱れが生じている。フロギィ教授の魔力の流れは乱暴で荒々しかった。
「……すみません。今はまだ……ボクはお世話になっていますし、まだ、その、まだ迷惑はかけられませんので」
「はぁ……。いいだろう。でもちゃんと考えるんだ‼ 何が正しのか‼ 君の家族は僕だ‼ あの人達ではない。わかっているね……? 肝に良く命じるんだ。ラートリーだって報われない」
「……すみません」
お辞儀をして部屋から出た。
そう告げられても簡単には受け入れらないよ……。
フロギィ教授が怖い。
それはボクが、あの家から離れたくないからなのかもしれない。罪悪感ばかりだ。ボクは嫌な奴だ。卑しいのかもしれない。
改めて眺めた手帳の中には金色の文字が揺らめいていた。お母さんの文字。言われて見れば付け足すように綴られている。
前章にもあったけれど、このカッコの中の文字に意味はあるのかな。
レゾナンスのレ、フィーリングのフィー。お母さんは何を伝えたかったのだろう。
それを知りたいと考える反面。母様に対する罪悪感で押しつぶされそうだった。
(門限まであと少し、帰らなきゃ……)
学院を後に街の中――お金も稼がないといけないのに派閥への参加も考えると依頼なんてとても受けられない。お金も両親に出して貰っているのに……。
「やぁ……また会ったね」
顔を上げると男性がいた。見覚えのある顔。コープスアウト――踵を翻し――口が塞がれて路地裏へと押し込まれていた。
身動きが取れない――。
「まぁ落ち着きなよ。僕はね。君が僕から奪った物を返して欲しいだけさ。あの手帳をね」
「大人しくしとけよ」
「やめて‼」
「あった。うん? おい‼ ディエゴ‼ これ……前編じゃねーぞ‼ 中編だ‼」
漁られた鞄――うかつだった。
「なぜお前が中編を持っている。公爵家の者がなぜ中編を持っている‼ 事と次第によってはただでは済まねーぞ」
仲間は五人――囲まれている。腕が掴まれて身動きが取れない。魔力圧が強い。怖い。少し選択を誤っただけで殺されてしまいそう。五人ともから強烈な魔力圧が発せられている。殺気と言い換えてもいい……。
「何をしている‼ お前達‼」
女性の声が響いた。
(誰?)
「今すぐにその子から手を離しなさい‼ 治安部隊を呼ぶわよ⁉」
「おい。今公爵領で問題を起こすのは不味い。あの女がキレるぞ」
「チッ……。おいガキ。優しくするのは今だけだからな」
「助けてもらったのにわりぃね」
「手帳を返して‼」
「これはお前のものじゃない」
「ボクのだ‼」
「いいや。これはお前のものじゃない。誰かが所有して良いものじゃーなんだよクソガキが」
「待って‼」
「悪いけれど大人しくしてくれ。あの手帳に書いてある事は忘れるんだ。いいな。生き返らせてくれた事には感謝してるんだぜ? 俺はな。またなお嬢ちゃん」
魔術で手を壁に固定される。地変系魔術――。
「待って‼ 返して‼」
「やめなさい」
割って入ってきた女性がボクに背を向けて庇うように立っていた。
「行ったわね。あいつらはおそらくコープスアウトよ。危険な奴らだわ」
「手帳が……ボクの手帳なのに」
「今は諦めなさい。あいつらに関わったら命が幾つあっても足りないわ」
ボクの物なのに……。
「大丈夫? 怪我は……なさそうね。今魔術を解いてあげるから待ちなさい。ちょっと頬が切れているわね。手にも痕が……今治してあげるわ」
「……すみません。ありがとうございます」
「いいのよ。無事で良かったわ。後で治安部隊にも報告しておきましょう」
「よろしくお願いします……」
「私はメレンシー。貴女は?」
「……マリア」
「そう。マリア。無事で良かったわね。お家へは帰れる?」
「……はい」
「ショックなのね。わかるわ。私がお家まで送ってあげる」
「何から何まですみません……」
「貴女は何も悪くない。何も悪くないのよ。悪いのはアイツらよ。ここは危険だわ。行きましょう」
メレンシーさんに手を引かれて――手帳を奪われたショックで何も考えられなかった。
公爵邸にてラティーナの指は書類を握り潰していた。
隣に佇むシンシアは重要書類なのにとほくそ笑む。
シンシアシュターゼン。仮初だがそれが彼女、ラティーナに仕える影の一党、首領の名だ。
どうしてあの子を放っておいてはくれないのか。どうしてあの子と私の生活を邪魔するのか。ユリウスもあのフロギィと言う男に対してもラティーナは怒りが湧いて仕方がなかった。
あの子を愛しているだなんて語っておきながら、あの子の幸せを心の底から願えない自分にすら怒りが湧いて来る。
つい先ほど、シンシアが手品のように机の上へと置いたのは、ユリウスがハーベル家当主デュークへと渡した手紙の写しだった。
内容を読み、ラティーナは怒りに打ち震えた。
ハーベル家――ラートリーの母親であるハーティアにラートリーの子供が存在する事をほのめかしている。
どうなるかと問われれば、ハーティアは間違えなくマリアを見定めにこの領を訪れるだろう。そしてマリアを眺めて血筋を感じずにはいられないだろう。ハーティアは間違えなくマリアを自らの一族に加えようとするだろう。
それはラティーナとマリア、その親子関係の破綻を意味している。
マリアがハーベル領、引いてはハーベル家に連れていかれるのには我慢がならない。もちろんマリアの幸せが一番だ。マリアが大事だ。マリアを思っている。マリアを愛している。だけれどそれ以上に、マリアに蔑ろにされるほどに、マリアを痛めつけたくなる衝動にラティーナは襲われていた。
自らを選ばないマリアに何としてでも自分を選ばせたい衝動に囚われている。
ラートリーよりも自分を優先して欲しい。
マリアの口から、母親が誰なのかを問い正したい。
同時にフロギィと言う男にも殺意を覚えていた。
シンシアが耳元で告げた情報は、ラティーナにとり図星だったからだ。それはユリウスにも当てはまる。
今は違う――確かに今は違う。現在確かにマリアを通してユリウスを求めてはいない。だが過去はどうだ。過去はそうだった。あの子が小さい頃はそうだった。
あなたは悪くない。
その台詞を口から吐いた自分を殺してやりたくなる。暗にそれはあなたが悪いと告げているからだ。あの頃の台詞の一字一句がラティーナの心に爪痕のように残り思い返すたびに掻き毟りたくなる。
知られたくなかった。誰にも――。あの浅はかで思慮の足りない愚かな女を。
だが現在マリアにその過去の気持ちを理解されてしまっている。
マリアにそれを知られてしまった。自分の浅はかな過去を見られてしまった。否、マリアは現在進行形でそう考えているのかもしれない。
「どうする? 殺します?」
「まだよ……。まだ、まだまだまだまだ。まだ泳がせるわ……」
「あちらは私達に気が付いているようでした。手練れのようですね。おそらく戦場経験者なのは間違えないでしょう。ところで前線崩壊時に失われた人員資料の中に、フロギィなる人物が存在していました」
「……現コープスアウトの元同僚だと言う事?」
「それらは現コープスアウトのメンバーに問いたださなければわかりません」
「丁度いいわ。丁度いい……」
ラティーナは立ち上がり、玄関ホールへと歩みを進めた。
「大きなお家ね……」
メレンシーはマリアを門の前まで送り届けていた。
「……すみません。送って頂いて。ありがとうございます」
「いいのよ」
「何かお礼をしたいのですが……実はボクは、このお家にお世話になっているだけで、あまり迷惑をお掛けできなくて」
「気にしなくていいのよ」
門が開き現れたのはラティーナとシンシアだった。
シンシアを視界に捉えメレンシーの瞳孔は僅かに開いた。
「おかえりなさい」
「……お母様。ただいま」
ラティーナは冷静を装いマリアの髪を撫でた。マリアが恥ずかしそうに俯く姿が薬のように浸透してゆく。
「お母様……」
手を取られて頬に当てられる。それだけでラティーナの怒りはスーッと引いていった。たったそれだけの事で、穏やかさを取り戻していった。
「……何かあったのね? こんなに汚れて……。ママに任せてお風呂に入ってらっしゃい」
「でも……」
「大丈夫よ。何か助けて頂いたのでしょう?」
「ごめんない……」
「謝らないで。迷惑をかけるぐらいでいいのよ。私はあなたのママなのだから」
手を伸ばして縋り付こうとし、自らが汚れている事に気付いてマリアは踏みとどまる。その様子を捉えたラティーナにはマリアがいじらしく見えて仕方がなかった。自らのドレスが汚れるのも憚らず、マリアの手を強く引いて胸の内へと収めてしまう。
「母様……ドレスが、汚れちゃう」
「いいのよ。ドレスなんて。あなたに比べたら……こんなもの」
マリアが涙を零して縋りつくのを眺め、弱弱しく縋り付くマリアを眺め、マリアが深く傷付き迷っているのをラティーナは理解した。
(やはりこの子が愛おしい)
そう考えずにはいられない――同時にメレンシーを逃す気はない。
「……助けて頂いてありがとうございます」
「いえ、お気になさらず。たまたま暴漢に襲われた所に出くわしただけですから」
「いいえ。公爵家としてぜひお礼をさせて下さい」
「そこの貴女。マリアを浴場へ連れていって頂戴。ドレスも着替えさせて。マリア、あとで会いに行くからいい子にして待っているのよ……」
「はい……待っています」
「いい子ね」
髪を撫で頬を撫で、その仕草の一つ一つが愛おしくて仕方がなかった。怒り等なかった。
マリアが使用人に連れて行かれるのを見送り、ラティーナはメレンシーを眺めて首を傾けた。優し気に振舞いながらも、その瞳は笑ってはいない。
「ではメレンシーさん。ぜひこちらへ」
メレンシーは自らの迂闊さに辟易とした。名前まで知られているとは考えていなかったからだ。
メレンシーが案内されたのは門に入ってすぐの建物――来客用の一時滞在室だった。
「こんな所で貴女に会うとは思っていなかったわ。シンシア」
メレンシーはそうシンシアに対して軽口を叩く。
「聖王国は血眼になって貴女を探しているわ。元異端審問官さん」
「あらそう。でも貴女ほど有名ではありませんわ。メレンシー元聖騎士長。聖王国はこの国に対して貴女の身柄を要求しているのだとか……」
「モテちゃって困るのよね」
「軽口はそこまでにして頂戴」
ラティーナが二人に対してそう告げる。
椅子へと腰を下ろすように促され、メレンシーは席へと腰を下ろした。対面するようにラティーナが腰を下ろす。その姿勢は貴女を絶対に逃がさないと告げられているかのようでもあった。
「単刀直入に聞くわね。あの子に近づいた目的を答えなさい。現コープスアウト副長のメレンシークウィンテェンさん」
「まずは私の立場を聞いて頂きたい。私は現王国直属の特殊部隊コープスアウトの副長をしておりますメレンシークウィンテェンです。以後御見知りおきを」
「えぇ、よろしくね。メレンシーさん」
「特殊部隊コープスアウトは王家直属の部隊であり、辺境伯でありますホプキンスに管理されております。その任務はあらゆる権力に対して常に優先され、これは王国法でも定められております正当な権利です。今回の件に関しまして、私は一定以上の黙秘権を持つ事をまずはご容赦下さい」
「えぇ、それで?」
「私達は現在この領にてファントムエネミー討伐任務を遂行しております。これはユリウス公爵閣下も存じており容認され遂行されております」
「えぇ、知っているわ。それで?」
「近年この領におきまして、異常なファントムエネミーの存在を感知し、調査しております」
「それも知っているわ」
「では申し上げます。実は私の部下であるお馬鹿なディエゴが大事な手帳を落としたのですが、それを拾いあげましたのが貴女のご息女でありますマリア様です」
「そう……」
ラティーナは隣に佇むシンシアへと視線を移した――シンシアはフイッとそっぽを向いた。
「シンシア」
「話せばややこしくなると感じましたので。残念ながら写しはございません」
「良かったわ」
なぜかそこでそう告げ微笑んだのはメレンシーだった。それは写しが無くて良かったと喜んでいる。
「それで?」
「手帳を回収するおり、偶然かち合いましてね。……はぁ。実はこの手帳は私の大事な仲間の物でして。私が師事した手帳と語っても良いのです。落としたディエゴはおろか者ですが、それよりもこの手帳には曰くがありましてね。実はこの手帳の一部が何者かに奪われたのです。その際に仲間の一人が命を落としました。良くある話です。その手帳を拾ったのが貴女のご息女のマリア様です。そこまでは構わない。多少乱暴ではありましたが、手帳は回収致しました。ところが……ところがですね。回収した手帳は奪われたはずの失われたページで構築されておりました。これはおかしいですよね? なぜ……奪われたはずのページをマリア様が所持していたのか。我々はぜひそれを知りたい。ですのでこうして私が赴いた次第です」
「手帳が何だと言うの?」
「ラートリーハーベル子爵令嬢の書いた手記ですよ」
シンシアの言葉にラティーナは笑みを浮かべずにはいられなかった。聞きたくない名前が耳に入ったからだ。その手帳を、その誰かが書いた手帳を誰が持っていたのか。マリアが持っていたとそう告げられたのだ。今現在ナウ。
「うふふっ。あははっ。うふふふふっ。はぁ――シンシア。なぜ言わなかったの?」
「もめると考えましたので」
「マリアは、その手帳を、大事に持っていたのね」
「医術の参考にしていましたね」
「シンシア」
「絶対もめると思いましたので」
「ではメレンシーさん。それを知ってどうするの?」
「我々は仲間を殺した人間を決して許さない」
「そう。シンシア」
「どうでしょう。マリア様の手帳が入れ替わったのを私は存じておりません。これはマリア様に直接聞く他ありません」
「そう……ラートリーハーベル。あの子は私と彼女、どちらを選ぶと思う?」
「奥様では?」
「そうね。シンシア。そうでなかったら私は貴女を殺すわ」
「それは素敵です」
「どういう意味?」
今度はメレンシーが二人へと問う。馬鹿正直に答える義理がラティーナにはなかった。シンシアへと視線を移す。
「貴女はご存じでしょう」
「どういう事?」
「ラートリーハーベル子爵令嬢が戦場で拾い寄越したのがあの子ですよ」
実の子だとは告げなかった。それを告げる必要性を見いだせなかったからだ。それを知る必要がないとラティーナが考えているのを察したのでシンシアは忖度をした。
ラティーナ自体はラートリーハーベルの子である事自体に懐疑的だ。ラティーナにとりその方が都合が良い。それが精神的な逃げ道である事実も理解はしている。
「ふーん。なるほど……」
メレンシーの仕草でシンシアはメレンシーがその情報を得ていない旨を悟った。
メレンシーはその情報を知らなかった。知らされていなかった。当時の部隊においても些細な問題で騒ぐほどのものでもないと考えられていたからだ。
メレンシーが加入した時にはすでにマリアは公爵家へと送られていた。
その事実を踏まえ、帰ったらディエゴに問いただす必要がありそうねとメレンシーは考える。
メレンシーにとりラートリーとの付き合いはあまりにも短い。立場も今とは異なっている。しかしラートリーを尊敬し、残された手帳により医術を学んだのは確かだ。メレンシーにとってラートリーは医術の師と語っても過言ではない。
メレンシーはマリアが手帳に対して強い執着を見せた理由に納得した。
自分を助けた人間の足跡だ。知りたいのだろう。ラートリーハーベルと言う人間を。恩を感じているのならばなおさらだ。
「……ところでメレンシー元聖騎士長さん」
「何でしょう。シンシア元異端審問官さん」
「ふふふっ。……フロギィと言う名に心当たりはございますか?」
シンシアがそう告げた時、シンシアはメレンシーの顔付きの変化と筋肉の緊張を感じ取った。余波として帯びるエーテルがメレンシーの全身を包み込んでいる。それは聖女にあるまじき怒りと憎しみに満ちた波動であった。
だがラティーナもシンシアも涼しい顔でそれを眺めている。
「……どうしてその名を知っている? 答えて貰えるかしら?」
「まずはこちらの質問に答えてからです」
シンシアはニマニマと厭らしい笑みを浮かべながらメレンシーへとそう告げた。メレンシーの全身からは怒りが滲み漏れ出している。
「……子供の食事って大変だとは思わない?」
唐突に告げられた水を差すようなラティーナの台詞。メレンシーは素直な不快感を覚えた。はぐらかされている。しかしラティーナの表情は悪魔染みて微笑みまでもを浮かべていた。メレンシーは会話の主導権を握られている事実に歯噛みする。この領において公爵家に勝る情報を持つ人間は存在しない。
「私ね。あの子には特に気を使っているのよ。あの子がもっと小さな子供の時はね。全ての料理を私が一口一口咀嚼して与えていたのよ」
言い方を考えて下さいとシンシアの脳裏を過ったが口には出さなかった。
貴族の中で親が咀嚼した物を子に与えるのには意味がある。この意味を理解しているのかしていないのかで貴族の理解度は異なる。
わざわざ親が一度毒見した食べ物を子供に与えているのだ。
一見では異常性な印象をも与える行為だが、貴族ではその概念が異なっている。
自らの命よりも子の命の方が大事だと自らで証明する行為だ。この事実を理解しているかどうかでその貴族に対する接し方のアドヴァンテージは異なってくる。
それはそれほどまでに子供を愛している事実を浮かび上がらせてくる。
手負いのトラ。されど母は強し。
貴族に子育てにおいてもっとも警戒しなければならないのは暗殺で毒殺だ。
そして世継ぎにはなおさら気を付けなければならない。
民のため、この国のためにと大義名分を立てて子供を殺す貴族や平民が存在するからだ。そして自らの望む者以外を排除したい輩も存在するからだ。
「私の両親もユリウスの両親も、あの子を養子にするのには随分と反対したのよ? わざわざ刺客を送り込むほどにね。……だから何時も食事時にはぴりぴりしていたわ。でもね。あの子はそんな事も知らずに料理を美味しそうに食べるのよ。私が一度毒見したものをあむあむって美味しそうに食べるの。そして笑顔を向けるの。わかるかしら? 美味しいって私が聞くと、そうするとあの子はね。満面の笑みで美味しいって答えるのよ? 私の言いたい事がわかるかしら? まんまって言うのよ」
「……マリアを害する気はないわ」
振り下ろされた拳はテーブルへとめり込み亀裂を生じさせた。
「当然でしょ? 舐めてるの? その殺気を仕舞いなさい。殺すわよ」
戦場帰りのメレンシーにとってその文言や行動はそよ風に等しい。
しかしながら子を生してはいないけれど、同じ女性としては十二分に共感は覚えてしまっていた。自分がその立場であったのならば――メレンシーは深く息を吐き、気持ちを改めた。
「申し訳なかったわ」
(うちの主人は可愛いでしょ?)
シンシアはラティーナに悟られないように舌を出して見せた。メレンシーはそれを視界の端に捉えはしたが、反応を示さないように注力した。
割れたテーブルを使用人がてきぱきと片づけ、新たなテーブルが盗聴器付きで添えられる。
シンシアは使用人の一人を呼び止め――テーブルに跡も無く埋め込まれていた盗聴器を取り外して放った。
「理解して下さればいいのよ。貴女はここにいていいわ」
盗聴器を受け取った使用人はその場に留まり瞼を伏せた。ユリウスの間者だ。
「……フロギィという人物には心当たりがあります。しかしながら私の知っている自分と同じかどうかは不明です。むしろありえない」
「なぜそう言い切れるのかしら?」
「フロギィはうちの前部隊にて軍医をしていた者です。ラートリーハーベルを背後から刺し殺害した人物でもあります。当然軍法会議にかけられて処刑されました。磔になり魔物に啄まれ骨がむき出しになり苦しみ絶命する様を視認しています」
ラートリーハーベルが送った子がマリア。
そしてマリアの父親であるとフロギィは自らが名乗っている。
しかしフロギィは軍法会議をへて処刑された――。
この三つに繋がりがないわけはないとラティーナもシンシアも理解は示した。本人か別人かは別として。
「なぜフロギィはラートリーを殺害したのかしら?」
「フロギィはラートリーに執着していたようですが、ラートリーは袖にしています。あの戦場では女は取り合いになっていましたから。袖にされて正気ではいられなかったのでしょうね」
「フロギィとラートリーが恋人であった可能性は?」
「絶対に無い――とは言い切れませんね。私の知る限りではないと考えます。ラートリーには故郷に恋人がいたようですから」
「えぇ、ユリウスね」
だがマリアが存在している以上、ユリウスに一途だったわけではないとラティーナは考える。考えて見ればそれも当然なのかもしれない。自分だったのなら果たして正気でいられただろうか。今以上にユリウスを憎んでいたのではないか。あるいは身持ちすら崩していたのかもしれない。
そう考えればラートリーが自暴自棄となりフロギィとそのような仲になっていたとしてもおかしくはない。
しかしシンシアはラティーナとは異なり同時にそれは無いとも考えた。
それならばラートリーは我が子を抱いてフロギィと領へ戻っているとも考えるからだ。ラートリーの戦役は三年。三年を終えてもラートリーは帰還していなかった。
そうであるのならば、ラートリーかフロギィのどちらかが子供を抱えて戻ってきているはずだ。
そしてなぜか――ラートリーは公爵家へと輸送部隊を使いマリアを護送している。
自らの実家ではなく公爵家へと――当時のハーベル子爵家当主が当時のアードリィ公爵家当主と密約を結んだのはラティーナもシンシアも存じている。
ハーベル子爵家当主がマリアの扱いを違える可能性を鑑みてアードリィ公爵家へと送ったとしても読みとしては間違えていないとも考える。
ラートリーはユリウスを良く理解している。
自分に対して申し訳ないと考えているユリウスがマリアを袖にする可能性は限りなく低いと考えたのだろう。
ではなぜラートリーは帰って来なかったのか。
帰らなかったのか――。
「なぜラートリーは帰還しなかったのか、理由はご存じかしら?」
「あの戦場にいて、あの場から自分一人だけ帰ろうだなんて兵士はみんな死んだわ」
「……母親にとって我が子は自らの命も同然だわ。どんなに嫌な男の子供であってもね。卑怯者だと罵られようが子供を思うならば帰還したはずよ。子供が安全であるとマージンが取れたから残ったのでしょう。そして子供を送ってまでも残らなければならない理由があったと考えるべきだわ」
ラティーナの考えにシンシアとメレンシーは同意できない。子供を生した事がないので同意のしようがなかった。しかし子を生しているラティーナがそう考えるのであればそうなのだろうとも考える。
「フロギィがいたからでしょうか?」
「それは無いでしょう。であればラートリーかフロギィか、またはその二人が帰還しているでしょう。子供のために」
二人の話にメレンシーは目を丸くしている。そもそもラートリーの子ではないとメレンシーは認識しているからだ。
「ラートリーの子ではなかったから送り届けただけだと思いますけど」
メレンシーの言葉に二人は目を丸くする。
二人と一人の間には大きな情報の隔絶があった。
「私はその時部隊に所属していたわけではありませんけれど、ラートリーがフロギィの子供を身籠っていたと仮定して、身籠った時点で送還されているはずです。身重では戦えませんし邪魔ですからね」
コイツに当時の情報はないとラティーナとシンシアは悟った。
帰還できない理由があったと考えるべきだ。
そしてラティーナにはその理由が思い浮かんでしまう。それは自分にも当てはまるからだ。おそらく問題は相手の方だ。相手はおそらく戦場から帰還できない、離れる事のできない人物だったのではないか――そしておそらくだが、ラートリーは妊娠を誰にも打ち明けていない。それは相手に対してもだと感じる。
公爵家へ送り届けて預けたのは、ユリウスならば自分(ラートリー本人)の子だと一目で気が付くと考えたからなのではないのか――そこまで考えてラティーナは思考を振った。
あくまでも憶測にすぎない。
相手は隊長クラスか、もしくは特殊部隊の人間か。それかよほどのクズか。もしくは一夜限りの可能性も捨てきれない。
マリアの容姿は事象体(フェノメナ)だ。ラートリーはフェノメナなので確率的には相手がフェノメナでなくとも子供がフェノメナである可能性は十二分にある。
ここで相互の思考に食い違いが生まれた。
前提としてフェノメナは親がフェノメナでなくとも生まれてくる可能性はある。
しかしながら魔力に優れているかどうか、その扱い方や量には差異があり、それはピンからキリまでもある。通常フェノメナでない親より生まれた子供は、両親がフェノメナである子供に比べて魔力に優れていない。
そして両親がフェノメナである場合、子供がフェノメナである可能性は非常に高く、また親よりも多量の魔力を秘め、扱いに長けている可能性が高い。
メレンシーはマリアがラートリーの子供ではないと考えている前提で思考を働かせている。
ラティーナは当時のラートリーを知ってはいるが、マリアとの才能を比較できるほど理解してはない。
シンシアは当時のラートリーを知らないが、マリアの才能は認めている。
この三つの食い違いにより、相手がフェノメナである点を三人は突き詰める事ができなかった。
ラートリーはフェノメナであったが才能はマリアほど突出しておらず、また攻撃系魔術においてはそれほど詳しくもなかった。
マリアがラートリーよりも突出した才能を持つフェノメナである事実にさえ気が付いていれば、そこでラートリーとマリアの才能を比較できるような助言さえあれば、メレンシーが当時の部隊には三人のフェノメナがいた事実を話してさえいれば、2151番には十二分に辿り着ける可能性はあった。
しかし三人の情報は食い違っており、そこへと辿り着く事ができなかった。
ラティーナは魔術師では無いのでラートリーとマリアの才能の違いを理解してはいなかった。
シンシアは当時のラートリーの実力を知らない。
メレンシーに至っては部隊に配属されていた三人のフェノメナについて語る気が一切ない。
ラートリーが殺害され前線が崩壊したおり、誰が生きているのか死んでいるのかを判別できないほどのカオスな現場となった。情報の一切が意味をなさなくなった。
ユリウスやラティーナが当時を調べていないわけはなく、それを持ってしてもマリアの父親についての情報を引き出す事ができなかった。それは当時の部隊の人間であっても知り得ようのない情報だったからだ。
もはや認識タグでしか個人を判別できない現場だ。
そして三人のフェノメナは戦争終了時にベルーチカ以下元老院を壊滅させ自らの情報をも破棄している。
よってこの特殊部隊に所属していたフェノメナ三名を知っているのはメレンシーを含め、当時の部隊の生き残り14名のみである。
彼らは特殊部隊について口を割る気が一切ない。三人のフェノメナに関する情報の一切を遮断している。その情報は自らの命よりも重く、それを口にするのは、他のどのような痛みよりも苦痛だ。戦場と言う名の特殊な空間で生み出された絆は鉄の掟と捉えても相違ない。
ラティーナはメレンシーから得られる情報はもう無いと悟った。
「シンシア」
「どうぞ」
シンシアは懐から写真を取り出してテーブルへと投げた――メレンシーはそれを指で捕らえ、写っていた人物に瞳孔が見開いてゆく。
「フロギィ……生きていたのね」
マリアの髪へと触れている写真――そこに写っていたのはメレンシーにとって忘れようもない戦場の、フロギィの姿そのままであった。
「フロギィ……マクレウス」
そしてその写真を眺めたラティーナも目を丸くしていた。
構図が気に入らない。
(なにこの構図……なぜこの男はマリアの髪を……は?)
なぜこのような構図で空間が斬り取られ保管されているのかラティーナには理解できない。フロギィ一人を写真に収めればいいではないか。
シンシアを睨みつけ写真と相互に見比べてまたシンシアを睨みつける。
シンシアはニマニマニマニマと口を綻ばせていた。
背後では使用人が、ため息を浮かべながら得た情報を他の影へと送り届けていた。
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