第五部 大荒れ ÔARE 1
※ ※ ※
首都直下型地震。
東京湾北部を震源とするマグニチュード7.0の大地震が、まだ仄暗い夜明け前の東京を襲った。
幸いなことに津波は発生せず、人々の脳裏によぎったかつてのような惨状は免れることができた。
また、一九九五年一月に発生した阪神大震災、並びに二〇一一年三月の東日本大震災。日本列島を襲った二度の震災での経験を活かし、行われた耐震工事。その成果もあり、人的被害・物的被害、ともに最小限に食い止められた。
それでも人口密集地である東京には、軽度ではあっても様々な被害が生じることになる。
まず、建物の部分的な倒壊、および局所的な火災の発生。
特に今もって下町の名残をのこす東東京では、古い家屋が倒壊し、そこに住む人々の生活を奪っていった。
トラックを運転中だったドライバー、ガスコンロを使用していた老人、階段から転落したサラリーマンなど、不運な事故も重なった。
怪我人は、重軽傷者を合わせて数万人に上った。
もちろん、秋葉原も例外ではなかった。
複数の店舗で、陳列された商品の転倒、破損が発生した。一部の駐車場などで地割れ、液状化なども報告され、修復・回復などに時間を要してしまうケースが相次いだ。
村西公太郎の勤務する和泉橋警察署には緊急招集がかけられた。早朝だったが、多くの捜査員が駆け付けたが、話によると自衛隊の出動も要請されているようだ。
平野未來の務める『かわいいだけじゃダメみたい』も数日間営業停止の決断を下した。ビルの一部が倒壊し、非常に危険である、という判断でもあった。店長の貝塚からは一斉にラインが飛び、従業員たるメイドたちは在宅を指示された。
当たり前だが、公共交通機関は麻痺し、大規模な交通規制も行われることになる。
ライフラインも一部滞る。一部地域で先の能登半島地震の時のような断水や停電が生じ、経済面へのダメージもある程度予想され、実際その通りになった。
日本の株価も一時暴落した。
日本国政府は生活を奪われた東京都民への対応に追われることになった。が、テレビ番組が軒並み自粛を表明した東日本大震災と比較すると、すぐに日常へ、通常へとスライドしていった。これも一種の慣れであろう。
ついに自分たちが当事者になってしまった——東京都民たちはその時になって、自分たちが『備え』だと思っていたものが、その実、ほとんど『備え』になっていなかったことを知るのである。
——しかし、混乱は長くは続かなかった。地震による被害が思ったよりも広がらなかったのが幸いした。数日と経たぬうちに、事態は収束に向かっていく。首都における災害は、地方のそれとは比べ物にならないほどの早さで復旧していく。
もはや地震にすら慣れてしまった国民にとって、昨日の大きな揺れなど、取るに足らないことであり、いつのまにやらなかったものであるかのように、話題にする者もいなくなっていった。
だが、その裏で、物語は、また、大きく動き出す。
◆
男は頭を抱えていた。
思った以上の事態になってしまった。
まさか、ここまでの力を持っていたとは。
——まだまだコレからだ、愚かな人間よ
奴の声が聞こえる。後手に回った。間に合わなかったのか。
しかしその実、男はこみ上げる笑いをこらえることができなかった。クッ、クッ、と思わず声が漏れる。
——何がおかしいのだ、愚かな人間よ
おかしいさ、だって、コレでみんな気付くはずだ。アラハバキ——お前の脅威に。
——本当にそうかな?
そうとも。男は頷いた。人間の不確かなものに対する不安は、時に思いも寄らない行動の火種になりうる。
そこを利用すれば、〝仲間〟はさらに増やせるはずだ
——何をやっても無駄だ
そうだろうか、そんなことはない、男はそう言って幻聴を己が頭より追い払った。
やってみせるさ。
コレは復讐なのだ。あの日、すべてを壊した絶対の『悪』に対する。
男にとって、ソレこそが生きる理由だった。
頭痛がした。痛い。痛いよ、もう。やめてよ、痛い、痛い。
再び声が近づいてくる。
——貴様のような非力なニンゲンに、何ができるというのだ
もう、来るんじゃないよ。
——貴様には、何もできない
声の主は知らないのだ。
この世に、悪は栄えない、ということを。
——悪?
——貴様、我を『悪』だと、そう云いたいのか?
声は嘲笑するような声で言った。
ああ、そうだ。他に何だっていうんだよ。
——フハハハハッ! 愚かな人間よ。正気か?
正気も正気だ。そのために、今日までやってきたんだ。
——フハハハハッ! とんだ戯れ言だ!
——ならばやってみるがいい、我を封印から解き放せし者よ
アヤノ・ユズルははっきりと声に出して言った。
「お前を封じ込めてやる。今度こそ、永久にな」
☆
朝から、来馬佑輝は不機嫌だった。やたら不機嫌だった。
来馬がこれほどまでの不機嫌を表に出すことは珍しい。どんな業務でも嫌な顔一つせずに(は言いすぎだが)こなす来馬が、イライラのあまり爪をガリガリと噛んでいる。好きなアニメの放送でも逃してしまったのか——と公太郎は邪推した。
「おはよう、ライバ」
とりあえず会議の前に話しかけみる。緊急で招集された和泉橋署の職員で、会議室はあふれかえっていた。目の下に隈をつくっている人間も多くいる。一部の交通機関は麻痺している関係で、ここにたどり着けない人間もいるそうだ。
「おはようございます」
一応そう帰ってくるが、こっちは見ていない。アレ? 俺が何かやらかしたのか? と公太郎は少しだけ考えたが思い当たる節がない。
「お前どうしたんだよ」
「何がですか?」
「なんかキレてる?」
「キレてないっすよ」
ふざけていない。ガチトーンだ。こいつはキレてる。
未明に起きた仮称「東京湾北部地震」、および秋葉原で頻発している事件のせいで、公太郎たちのみならず、出勤可能なすべての警察官が招集されることになった。
ここから数日、東京都内は大きな混乱に見舞われるだろう。この秋葉原・岩本町周辺も例外ではない。公太郎たち警察は、この街の治安を守らなくてはならない。もはや、白骨死体どころではない。
そう、警察は。
「何があったのかは知らねえけど、仕事に私情は持ち込むなよ」
「先輩? ソレ、先輩が言うんすか?」
何も言い返せない。
「まあ、俺は、俺だし」
「分かってます。分かってますよ。僕らの仕事は秋葉原の平和を守ることです。この緊急事態に、秋葉原に営みを持つ人々が悪に脅かされることなんてあってはならないですからね」
「じゃあなんでそんなイライラしてんだ?」
「別に何でもないです」
そう言いながら来馬は時計を気にしている。
そういえば——公太郎は思い出す。今日は来馬は非番の日ではなかったか? やはり、見たいアニメやオンラインゲームのイベントなんかに参加できなくなったことが不満なのだろう。さすがにソレは上司である俺には言えない、よな。たぶん。
しばらくして会議が始まった。
署員たちは手分けして秋葉原の警戒警備、交通整理、各軽微な事件の捜査などを行うことになった。ライフラインを含めたあらゆる方面での復旧の手助け、ということだ。
大事な仕事だ——公太郎は思った。人の役に立つ、非常に重要な任務だ。
また、佐久間町の駐車場の爆破事件に、大きな進展があった。爆発物が用いられた、ということで本庁の捜査本部が設置されることになったのだが、今後さらにマズい事態になることは間違いなかった。
自動車の下に設置されていた爆弾は、自動車のみならず、一部コンクリートまで破壊した。その結果、地下に眠っていた白骨死体の存在が明るみになったのである。
神田・秋葉原付近で見つかった白骨死体は、これで三体目である。
公太郎はひそかに『サクマ』と呼ぶことにした。
どうなってるんだ——正直何一つ、分かることがなかった。
ただ、考えるのはもっと上の仕事だ。俺たちは、俺たちの仕事をこなすだけだ。
なのに。頭では分かっていた。
公太郎には、やらなくてはならないことが、一つだけあった。
頭の片隅に残っている小さなモヤモヤが、しだいに公太郎の胸を、腹を、身体を、じわじわと支配していく。
植崎一郎は、おそらく殺害された。それも、公太郎の良く知る、あの人物によって。
公太郎は、自販機前のベンチでドクターペッパーを買った。コレから長時間の任務だというのに、飲まずにはいられなかった。
紫の缶の蓋をプシュッと開け、香りを楽しむ余裕もなく一気に食道へ流し込む。
眠気と疲れでだるくなった身体に、スパイシーな糖分と炭酸の刺激が染み込んでいく。
ドクターペッパーは、薬だ。
同時に、興奮剤でもあった。身体に沁み渡った糖は、全身をめぐり、やがて脳に到達する。やるなら今日しかない、と思った。
不意に、〝コータロー〟が脳内で大声で喚き始めた。
『やめろ、何を考えてるんだ、公太郎』
——当たり前のことを聞くな。俺は刑事だぞ
『だから言ってるんだ。そんなことをしたら、お前は刑事じゃいられなくなる』
分かってんだよ、そんなことは。
だけど——公太郎は脳に巣食うコータローに言った。
——どんな人間であっても、死を軽く見てはいけない。
——特に殺された人間は、なおさらだ。
——俺は、殺されて命を落とした人間を、生きている人間のもとに返したいだけなんだ。
『おごり高ぶるなよ』
コータローは呆れ気味に言った。
黙れ、コータロー。
もう分かってるんだ。記憶に蓋をしてもダメなんだ。
お前の罪も、すべて抱えて持っていけ。
そうすることでしか、もう救われねえんだ。
リンネを殺したのは、コータローだ。
コータローのせいだった。すべて。
ずっと分かっていた。本当は気が付いていた。気付かないふりをしてきた。
ライブの当日の朝、リンネが送ってきたダイレクト・メール。
『ワンマンライブが終わったら、私と、付き合ってくれませんか』
コータローにとって、ファンだった子から好意を向けられることは初めてのことではなかった。以前の時は、話を冗談のように受け流してしまい、結果、相手の女の子をひどく傷つけてしまった、という経験があった。
なんて応えればいいのか、コータローは悩んだが、結局、こう返した。
『他に好きな人がいる。ごめん。ファンとして、これからも応援し続けてくれ』
ソレが十代の女の子にとって、いかに残酷な内容であったか、今の公太郎になら理解できる。しかし、その時は、精一杯の誠実を、文面に乗せたつもりだった。
『ちゃんと答えてくれてありがとうございます』
絵文字もつけた返信。コータローは、ホッとして脱力した。案外あっさりと諦めてくれたんだな、とさえ思った。
それゆえ、彼女が命を絶ったことを知った時、全身の血液が引いていくような思いがした。自分のせいではない、という焦りがコータローを襲った。他に何か理由があったはずだ——と、そうであることを強く願った。
公太郎は『死』の理由に執着した。遺書ものこさずに死んだ少女の想いを手繰り寄せるように。同時に、突き放すように。
刑事になったのは、贖罪なのだ。
公太郎は推理を積み上げる。
四十年前。放火魔・植崎一郎が起こした一軒の放火が原因で、アヤノという当時高校生だった少女が焼死した。
少女の弟だったアヤノ・ユズルという少年は、姉の復讐のために犯人を突き止め、そして、おそらくは殺害している。
彼には協力者がいた。ソレが、おもちゃのタケダの初代社長・武田しげ美その人だ。
アヤノ・ユズルはしげ美と接触し、死体を建設中のビルの地下に埋める手伝いをさせた。やはり、マンセイ=植崎一郎なのだ。
あくまで推測の域を出ない。だが、ソレが公太郎が信じたストーリーだった。
問題はアヤノ・ユズルという少年が、今どこで何をしているのか、である。
来馬による調査でも、その消息だけはつかめなかった。
——が、しかし。
公太郎は、知っていた。
アヤノ・ユズルの正体を。
ずっと昔から、知っているのだ。
知らないふりはもうできない。ぴったりと閉じられていた蓋は、もう既に開いてしまったのだから。
もう気付かないフリはできない。
やめよう。もう。
時間はもう充分、経た。
「それにしても、難儀だな」
呟く声がやたらとでかい。が、今は公太郎を気に留める者なんて皆無だった。
公太郎は、和泉橋警察署を無断で抜け出した。
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