月光と悔恨

待ち合わせ場所に現れた高津弁護士は、電話の声の印象通り腰が低く丁寧な青年だった。


ただ少し、頼りないようにも見受けられる。


彼と並んで歩きながら、私は過去の記憶と現在の現実の間で揺れ動いていた。


​「場所は、こちらで決めても?」


​私が尋ねると、彼は少し躊躇した様子で答えた。


​「できれば人目につく場所は避けたいのですが……話の内容を考えると」


​「心配ありません、知り合いのカフェで個室を使えます。防音もしっかりしているので、そこなら人目を気にせず話せますよ」


​高津弁護士の強張っていた表情が、ふっと和らいだ。


​「そうですか、それなら良かったです」


​私たちは近くの行きつけのカフェ『ムーンライト』へと足を向けた。


​カランコロン、とドアベルが鳴る。


店内に入ると、琥珀色の照明とコーヒーの芳醇な香りが二人を包み込んだ。


BGMにはクラシック音楽が静かに流れている。


カウンターには常連客が数人座り、穏やかな会話を交わしていた。


普段なら心地よく感じるこの空間が、今の私には妙に息苦しい。


私はマスターに目配せした。


話は通してある。


マスターは頷き、私たち二人を奥の個室へと案内した。


​個室に入ると、外の喧騒が嘘のように遮断された。


壁に掛けられた古びた時計の秒針の音だけが、チクタクと妙に大きく響く。


​テーブルを挟んで向かい合う。


マスターがコーヒーを運んできて、二人の前に置いた。


香り高い湯気が、視界を白く曇らせる。


​「わ! 美味しい! このカフェ、落ち着きますね」


​一口飲んだ高津弁護士が、目を輝かせて言った。


​「ええ、仕事帰りにたまに来るんです。お口に合ったなら何よりです」


​「雰囲気がいいですしコーヒーも美味しい、こういう場所で一息つけるのはいいですね」


​私はアメリカンコーヒーのカップに手を伸ばしながら、探るように問いかけた。


​「こちらのマスターは、ドビュッシーがお好きなんですか?」


​店のBGMは先ほどまで流れていた『亜麻色の髪の乙女』が終わり、今は交響詩『海』の旋律が流れ始めていた。


​「わかりますか? この店の名前も『月の光』から来ているそうですよ」


​「え? でも……」


​高津弁護士はきょとんとして、まだ何か言いたげだった。


私は少し嬉しくなり、口角を上げた。


​「店の名前が『ムーンライト』というのが気になりますか?」


​高津弁護士が大きく頷く。


​「通常、クロード・ドビュッシーの『月の光』は、『ムーンライト』ではなくフランス語の『クレール・ドゥ・リュンヌ』の方が一般的ですからね」


​それを聞き、私は顔が自然と綻ぶのを感じた。


​「本当にお詳しいんですね。実は私はクラシックが好きで、それもあってマスターと意気投合したんですよ」


​自分の声色が、少しだけ明るくなっているのがわかった。


​「私もクラシックが好きで、ドビュッシーもよく聞くんですよ」


​高津弁護士はそう言って、カバンから骨伝導式のイヤホンを取り出して見せた。


​「周りの音が聞こえるのでおすすめですよ、私は気に入っています」


​「なるほど、骨伝導ですか……」


​ひとしきりクラシック談義に花を咲かせた後、ふと気になっていたことを尋ねた。


​「そう言えば、高津さんが先ほど家の近くで女性と話をしているのを見かけたのですが」


​キャップを被ったあの女性だ。


高津弁護士は一瞬驚いたような表情を見せ、少し気まずそうに目を泳がせた。


​「ああ、それは……ちょっとした知り合いです。仕事の関係で……」


​歯切れが悪い。


何か引っかかるものを感じたが、それ以上は追及しなかった。


高津弁護士はコーヒーを一口飲み、表情を引き締めた。

ここからが本題だ。


​「それでは早速ですが、須田優司さんについてお話を伺いたいのです」


​その言葉に、私の体が微かに震えた。


覚悟はしていた。


だがいざその名を耳にすると、胸が締め付けられる。


​「優司のことですね」


​私は静かに言った。


喉が渇く。


​「最近のニュースで知りました、彼が起こした事件のことですよね?」


​「はい、その通りです。五十島さんから見た優司さんについてお聞かせいただけますか? 特に彼の性格や家庭環境について」


​私は深呼吸をして、高津弁護士の真っ直ぐな目を見つめ返した。


​「実は十年前に沙良と離婚して以来、私は優司に会っていません。ですので十年前の記憶しかお話しできないことをご了承ください」


​「わかりました、ではその十年前のことについてお聞かせいただけますか?」


​私は目を細め、過去の映像を呼び起こした。


埃を被ったアルバムを開くように、慎重に。


​「優司はサッカーが得意でした、休日には一緒に近所の公園で練習したものです」


​一瞬で、懐かしい景色が目の前に広がった。


芝生の匂い。


弾むボールの音。


​『お父さん! こっち!』


​十三歳の優司が、元気な声で叫んでいる。


彼は器用にサッカーボールを操り、ドリブルしながら私にパスを出した。


​『ナイスパス優司! 将来はプロサッカー選手かな?』


『ありがとう! もっと練習するね!』


​優司の額には汗が光り、その表情には向上心が満ちていた。


私に向けられた、一点の曇りもない信頼の眼差し。


​「あの頃は……本当に幸せでした」


​声が少し震えた。


​「でも」


​続けるのが躊躇われる。


自らの恥部を晒すようだ。


​「ある時行ったDNA鑑定で、そんな日常が崩れていきました」


​「なぜ、DNA鑑定をしようと?」


​当然の質問が飛んでくる。


あの時の屈辱、疑念。


職場の部下の何気ない一言。


『似てないですね』


その言葉が、呪いのように私のプライドを蝕んでいった過程。


​「……昔のことですからね、忘れてしまいました」


​私は力なく笑い、誤魔化した。


本当の理由は、情けなさすぎて口に出せない。


​「DNA検査の結果が分かった後は沙良との関係も悪化し、家庭内の雰囲気は重苦しくなっていきました」


​「その時の優司さんの様子はいかがでしたか?」


​「あの子は……混乱していました、何も知らされていなかったので突然の変化に戸惑っていたようです。私や沙良の態度の変化に、不安そうな表情を浮かべていました」


​そして、最後の日。


​「離婚が決まり、優司に話をした日です」


​今も住んでいるあの家のリビング。


十五歳になっていた彼は、私と沙良の前に座っていた。


その目には既に、何かを察したような警戒の色が浮かんでいた。


​『優司、話があるんだ』


​私は震える声で切り出した。


優司は無言で私を見つめた。


​『お父さんとお母さんは、離婚することになった』


​優司の表情が凍りついた。


そして私は、決定的な言葉を突きつけた。


​『お前は……私の実の子ではない』


​優司の目に、驚きと悲しみが同時に浮かんだ。


だが、彼は泣かなかった。


暴れもしなかった。


​『やっぱりそうだったんだ……』


​静かに立ち上がり、彼は俯いて言った。


​『わかった……』


​その声は微かに震えていたが、彼は現実を受け入れたようだった。


あまりにも物分かりが良すぎた。


それが余計に、私の胸を抉った。


​「その後沙良と優司はこの家を出て行きました、正直に言えば私が耐えられなかったんです。優司を見るたび、自分の人生が嘘だったような気がして……。そんな現実から逃げ出したかった、それが当時の本音でした」


​高津弁護士はどんな顔で聞いているだろうか。


軽蔑しているだろうか。


私は目を伏せたまま続けた。


​「でも時が経つにつれて、別の感情が湧いてきました。優司の笑顔や一緒に過ごした時間の記憶が、突然鮮明に蘇ることがあるんです。そんな時、自分の決断の重さを痛感します。血のつながりだけが家族を定義するものじゃないと、あの子は何も悪くないんだと頭では分かっていたはずなのに……」


​後悔。


それはまるで遅効性の毒のように、じわじわと私を蝕んでいる。


​「あの時もっと冷静に考えられていれば、違う選択ができたんじゃないかと。そんな後悔が、日に日に強くなっていくんです」


​高津弁護士は黙って聞いていた。


その目には軽蔑ではなく、深い同情と理解の色が浮かんでいた。


彼が席を立とうとした時、私は縋るように最後の質問を投げかけた。


​「私の選択は正しかったのでしょうか? もし違う選択をしていたら優司は……」


​高津弁護士は一瞬考え込み、静かに答えた。


​「五十島さん、過去の出来事は変えられません。あなたの選択が正しかったかどうかを判断するのは、私ではありません。その時のあなたは、自分にできる最善の選択をしたのだと思います」


​優しい嘘だと思った。


それでも、今の私には救いだった。


​「今は現在の家族を大切にすることに集中されるのが良いでしょう、これ以上自分を責める必要はありません」


​そう言い残し、彼は丁寧に頭を下げて去っていった。


カフェを出た後、私は重い足取りで帰路についた。


​ふと、沙良と優司が出て行った数日後のことを思い出す。




インターフォンのモニターに映った、沙良の妹――紗季さんの姿。


​『姉があなた様に対して取り返しのつかないことをいたしました、妹として心よりお詫び申し上げます』


​リビングで深々と頭を下げた彼女は、しかし毅然とした態度で私に告げた。


​『あの子は私が必ず守ります、五十島さんにご迷惑をおかけすることは決してありません。ただ……』


紗季さんが、真っ直ぐ私の目を見つめる。


​『今回の件で優司には何の罪もありません。あの子はただ沙良と、そしてあなたを親として生まれてきただけなのです。どうかそれを忘れないでください、お願いします』


そう言って紗季さんは、再び深々と頭を下げた。




​あの時の言葉の重みが、今更になってのしかかる。


紗季さんはその後、本当に優司を引き取り震災で亡くなるまで彼を守り抜いたと聞いた。


私に代わって。


私が捨てた役割を、彼女が背負ったのだ。


​家に着くと、真知の心配そうな顔が出迎えた。


奥には信護もいる。


また爪を噛んでいる。


​「お父さん、大丈夫?」


​真知が優しく尋ねてきた。


私は微笑もうとしたが、頬が引きつるのがわかった。


​「ああ大丈夫だよ、ちょっと疲れているだけさ」


​子供たちの前で平静を装う。


それが、今の私にできる唯一の贖罪だ。


​夜が明ければ、また新しい一日が始まる。


胸の中にある重たい何かは、少しも軽くならない。


だが家族のため、そして私自身のためにこの砂上の楼閣のような日常を守り続けなければならない。


それだけが、今の私に残された義務だった。

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