第五章

法廷の死神

指の腹で、眉間の皺を確認する。


今日は一段と深く、谷のように刻まれている気がした。


​東京地方検察庁の巨大な庁舎。


その重厚な扉は、まるで罪人を飲み込む巨大な口のように俺を見下ろしている。


ドアノブに触れると冷たい金属の感触が掌に伝わり、じっとりと嫌な汗が滲んだ。


​深呼吸をする。


だが、肺の奥にこびりついた黒い靄のような不安は消えない。


『法廷の死神』こと、白浜沙織検事との面会。


それは歴戦の刑事である俺にとっても、戦場に丸腰で放り込まれるような緊張感を強いられる時間だった。


​意を決して扉を開ける。


​廊下に一歩踏み出すと、空調の冷たい風が頬を撫でた。


蛍光灯の無機質な光が、長く伸びる廊下を青白く照らし出している。


その白い壁に、須田優司の顔が幻影のように浮かび上がった気がした。


​ニヤリと歪んだ口元。


あの笑顔の裏にある真実。


それを暴くのが俺の仕事だ。


だが今その全貌を掴めないまま、あの女に報告しなければならない。


​重厚な執務室の前に立つ。


再び深呼吸をして、乱れた心拍を整えてからノックをした。


​「どうぞ」


​中から穏やかな声が返ってきた。


だが俺には、その声の裏に潜む鋭い刃の響きが聞こえた。


​ゆっくりとドアを開け、室内に足を踏み入れた。


夕暮れの光が窓から差し込み、部屋の中央に座る人物を逆光で照らしている。


​白浜沙織。


やや痩せ型で、五十代半ばの女性。


白髪交じりの髪が夕日に反射して銀色に輝き、その表情を読み取るのを拒んでいるようだった。


重厚なマホガニーの机と壁一面に整然と並べられた法律書が、この空間に窒息しそうなほどの威圧感を与えている。


​彼女の横には、三木事務官が彫像のように立っていた。


がっしりとした体躯に、整えられた口ひげ。


白浜の影のように寄り添う、無口な男だ。


​「お待ちしておりました、十河警視」


​白浜は微笑んでいた。


穏やかな、聖女のような微笑み。


だが。


その瞳の奥には長年の経験で培われた直感と、揺るぎない信念――いや、狂信に近い正義の炎が燃えているのを俺は知っていた。


​「須田優司の件について、進展はありましたか?」


​声は柔らかいが、視線は俺の喉元に突きつけられたナイフのように鋭い。


​俺は喉の渇きを覚えながら、報告を始めた。


今回の報告が、この女の逆鱗に触れることは明白だった。


​「はい、須田の周辺人物への聞き込みを進めました」


​一瞬言葉を詰まらせたが、意を決して続ける。


​「興味深いことに、彼は身近な人間からかなり慕われているようです」


​白浜の眉が、ピクリと動いた。


「ほう」


その完璧な仮面に、僅かな亀裂が入る。


​「それは意外ですね、殺人犯が慕われているとは」


​声に滲む冷笑。


無視して、俺は続けた。


​「はい、元担任の教師や職場の人間からも好意的な証言を得られました」


​背中を冷や汗が伝う。


​「また、弁護側の高津弁護士もこの点について調査を進めているようです」


​白浜の手が動いた。


首から下げたロケットペンダントを、白く細い指が紅くなるほど強く握りしめる。


その目に、明確な不満の色が浮かんだ。


​「で、それがどうしたのですか?」


​温度のない声。


そこには明らかな苛立ちが含まれていた。


​「はい……弁護側は、おそらくこれらの証言を基に情状酌量を求めてくるのではないかと……」


​その瞬間。


白浜の表情が一変した。


穏やかな微笑みが消え失せ、冷酷な『死神』の顔が露わになる。


​「十河警視」


​室内の温度が数度下がったような錯覚を覚えた。


​「法廷での戦略についてあなたが意見する必要はありません、それは私の仕事です」


​その瞳が、俺を射抜く。


​「それに、あなたの報告は須田に有利な材料ばかりのようですが……弁護側の助っ人でも志願しているのですか?」


​「いえ、決してそういうわけではありません!」


​俺は必死に反論した。


​「須田は犯行を認めています、有罪は確実です」


​「有罪? 有罪は当たり前です!」


​バン!


白浜が机を叩いた。


乾いた音が静寂を切り裂き、部屋中に反響する。


​「あのような男を……遺体を弄び、命を冒涜するような狂人を! 有期刑や無期懲役などで済ませてなるものですか! そんなことになれば、我々が負けたのと何も変わりません!」


​彼女の激情が爆発した。


それは正義感というよりもっと個人的で、ドロドロとした執着のように見えた。


​「白浜検事」


​三木事務官が静かに口を挟んだ。


彼の声は低く穏やかで、沸騰しかけた場の空気を冷やす効果があった。


​「十河警視は全体像を把握しようとしているだけではないでしょうか」


​白浜は肩で息をしながら、三木を一瞥した。


そして深いため息をつき、椅子に座り直した。


​「……わかっています」


​声のトーンが少し戻る。


​「我々の仕事は犯罪の重大性を明らかにすることです、同情など不要です」


​俺はハンカチで額の汗を拭いながら、食い下がった。


​「はい、おっしゃる通りです。ただ須田の背景を理解することで、より強固な論告を準備できると考えまして……」


​しかし、白浜の怒りは少しも収まらなかった。


​「強固な論告? そう仰るなら、きちんと調べあげてほしいものですね」


​彼女は再び、侮蔑の色を浮かべて俺を見た。


​「被害者のスマホは見つかったのですか? PINEアプリについては?」


​何も言い返せなかった。


痛いところを突かれた。


彼女の目は俺の無能さと、心の奥底にある迷いまで見透かしているようだった。


​「須田に情でも移ったのですか?」


​その言葉は、鋭利な棘となって俺の胸に刺さった。


白浜は立ち上がり、窓際に歩み寄った。


夕焼けに染まる街を見下ろしながら、彼女は憎々しげに吐き捨てた。


​「あんな……あんなふざけた殺人鬼は絶対に許せない!極刑以外にありえない!」


​以前弁解録取手続きで須田に会った時の屈辱が、彼女の中で燃え続けているのだろう。


須田のあの飄々とした態度が、このプライドの高い検事には耐え難い侮辱だったのだ。


​「白浜検事」


​三木事務官が再び介入した。


今度は声に懇願の色が滲んでいた。


​「もう十分ではないでしょうか? 十河警部も懸命に捜査を進めています」


​白浜は窓の外を見つめたまま、しばらく動かなかった。


重苦しい沈黙が流れる。


俺は自分の心臓の音が聞こえるほど、緊張していた。


​やがて白浜は、ゆっくりと振り返った。


深呼吸をし、完璧な検事の仮面を被り直す。


​「わかりました」


​彼女は俺を真っ直ぐに見つめた。


その目にはまだ厳しさが残っていたが、激情の波は引いていた。


​俺は一礼し、踵を返した。


去り際に声をかける。


​「白浜検事、証人尋問の準備を進めておきます」


​白浜は書類に目を落としながら、冷淡な声で答えた。


​「考えたのですが……あなたも忙しいでしょう?弁護側証人が三人なのでこちらも三人と考えていましたが二人で十分、あなたは結構です」


​その言葉に、俺は思わず足を止めた。


証人を減らす?


極刑を求刑する裁判で、手札を減らすというのか?


​背筋に冷たいものが走る。


この女……自信過剰なのか、それとも何か別の『確証』があるのか。


極刑という結論ありきで、プロセスを軽視しているのではないか?


​「……承知しました」


​俺は短く答え、逃げるように部屋を後にした。


廊下に出ても、白浜の冷たい声が耳にこびりついて離れなかった。




解放された俺は、鉛のように重くなった足を引きずって検察庁を出た。


白浜との面会で消耗しきった精神に、夕暮れの街の喧騒が容赦なく降り注ぐ。


​重圧。


焦燥。


そして違和感。


白浜のあの態度は、単なる厳格さの範疇を超えている気がしてならなかった。


​雑踏の中を歩きながらふと、背中に視線を感じた。


じっとりと粘りつくような、不快な視線。


科捜研を出た時に感じたものと同じだ。


​俺は歩調を変えず、さりげなくショーウィンドウに映る背後の様子を確認した。


​いた。


人波の中で、不自然な距離感を保ってついてくる影。


黒いレザージャケット。


キャップを目深に被り、黒縁の眼鏡をかけている。


三十代後半くらいの女だ。


​カジュアルな服装だが、その身のこなしには隙がない。


素人ではない。


獲物を狙う獣のように、鋭く俺を追尾している。


​「またか……」


​内心で毒づく。


白浜の次はストーカー、今日は厄日だ。


だが、ただのストーカーにしては気配が鋭すぎる。


​俺はわざと、人通りの少ない路地裏へと足を向けた。


ここなら相手の動きを制限できるし、顔も拝める。


​薄暗い路地に入り、ゴミ箱の陰に身を隠す。


足音が近づいてくる。


コツ……コツ……とリズムよく刻まれる靴音。


それが俺の隠れている場所の前で止まった瞬間。


​俺は飛び出した。


​「そこだ!」


​驚いて振り返った女の腕を、強引に掴み上げる。


細いが、しなやかな筋肉を感じる腕だった。


​「おいお前、何故俺を尾行する?」


​女は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐにふてぶてしい笑みを浮かべた。


​「何のことですか? 私はただ通りかかっただけですけどぉ?」


​「とぼけるな」


​俺は女を壁に押し付け、鋭く睨みつけた。


​「尾行していたことくらい気づいている、さっきからコソコソとカメラで盗撮していたのもな」


​警察手帳を目の前に突きつける。


​「これは軽犯罪法第一条第二十八号違反の現行犯だ、今すぐしょっぴいてもいいんだぞ」


​脅しをかけると、女の表情から余裕が消えた。


だが。


次に彼女の口から飛び出したのは、謝罪ではなく罵倒だった。


​「あんた……不正してまで実績が欲しいわけ? このクソ警官!」


​「……は?」


​俺の動きが止まる。


予想外の言葉だった。


​「不正?」


​眉をひそめて問い返す。


​「何のことだ?」


​女は俺の手を睨みながら、嘲笑うように言い放った。


​「何だ、悪党じゃなくてただの無能かよ。あんたみたいなのが捜査官だなんて、この国も終わりだね」


​「貴様……!」


​不正だと?


訳が分からない。


だがその言葉の響きには、単なる悪口ではない重みがあった。


白浜と言い、この女と言い……。


まるで俺が、あるいは警察組織が何か重大な隠し事をしているとでも言いたげだ。


​いったい何が起きている?


俺の知らないところで、何が進行しているんだ?


​その一瞬の思考の隙を、女は見逃さなかった。


彼女は俺の脛を思い切り蹴り上げ、腕を振りほどいた。


​「ぐっ……!」


​痛みによろけた隙に、女は脱兎のごとく走り出した。


その速さは尋常ではなかった。


​「待て!」


​叫びながら追いかけた。


だが路地裏の入り組んだ構造を熟知しているかのように、彼女の姿はあっという間に闇へと消えてしまった。


​「くそっ!」


​俺は壁を殴りつけた。


まんまと挑発に乗せられ、取り逃がした。


あの身のこなし。


あの眼光。


ただの雇われではない気がした。


​「不正……」


​路地裏に一人残された俺は、その言葉を反芻した。


何を知っていて、何を告発しようとしたんだ?


​胸の中に、新たな疑念の種が植え付けられた。


それは不気味な根を張り、俺の不安を吸って急速に育っていくようだった。


​警察署へ戻る道すがら、俺の頭の中では先ほどの女の言葉が何度もリフレインしていた。


『不正してまで実績が欲しいわけ?』


その言葉の矛先は俺個人か、それとも――。


​オフィスに戻ると、瀬戸が俺のデスクの前で待っていた。


彼女の顔には、隠しきれない心配の色が浮かんでいる。


​「十河さん、お疲れ様です」


​瀬戸の優しい声に、少しだけ肩の力が抜ける。


だが、俺は軽く頷くことしかできなかった。


​「どうしました? 顔色が悪いですよ」


​瀬戸が覗き込んでくる。


俺は一瞬、さっきの出来事を話そうかと迷った。


だが、確証のないまま部下を不安にさせるべきではない。


​「いや……何でもない」


​とだけ答えた。


瀬戸は何かを察したように、視線を落とした。


​「白浜検事との面会、大変だったんですね」


​「まあな」


​俺は苦笑いした。


うまく笑えている自信はなかった。


白浜の極刑への執着。


謎の女の『不正』という言葉。


それらが頭の中で不協和音を奏でている。


​俺はやるべき事を思い出し、立ち上がった。


​「すまないがちょっと確認したいことがある、少し遅くなるかもしれない」


​瀬戸が不思議そうな顔をする。


​「確認、ですか?」


​「ああ」


​俺はジャケットを掴んだ。


このまま座ってはいられない。


あの違和感の正体を、突き止めなければならない。


​「その間に、須田の勤務先の同僚たちへの聞き込み結果をまとめておいてくれないか。特に須田の性格や行動の変化について注目してほしい」


​瀬戸は真剣な表情で頷いた。


​「わかりました、気をつけて行ってきてください」


​「ああ」


​短く答える。


背中に瀬戸の視線を感じながら、俺はオフィスを出た。

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