恋愛フラグを折るだけの簡単なお仕事です。
折口詠人
第1話:恋愛女神の使い、やってもらうから
白い、とても白い。
目覚めた瞬間、神代遼の意識を満たしたのはただそれだけだった。天井も床も壁も、視界のすべてが白く塗り潰されている。まるで色彩そのものが消えたかのような空間だ。思考を巡らせようとするが、先ほどまでの記憶がぼんやりとしか残っていない。
——教室だった。放課後の、誰もいない教室で居眠りをしていたはずだ。
遼は目を細め、現実感を取り戻そうとした瞬間、視界の中心に現れたのは、一人の女性だった。
「ようやく目が覚めたわね。遅かったじゃない」
白銀の長い髪を優雅に揺らし、宝石のように輝くティアラを頭に乗せた女性が、遼を見下ろしていた。彼女の纏う衣装は露出が高く、まるでギリシア神話に出てくる神々を思わせるデザインだ。そして、何より彼女から放たれるオーラが尋常ではない。美しさに目を奪われそうになるが、どこか遼を不安にさせる要素もあった。
「あなたが……神代遼ね」
彼女は遼の名前を口にすると、微かに鼻で笑った。
「私はアフロネア。恋愛を司る女神よ」
女神。その言葉が遼の脳裏に響き渡る。冗談だろうか、それとも自分がまだ夢を見ているのだろうか。しかし、目の前の光景は夢とは思えないほど鮮明だった。
「何を言ってるんだ? 俺はただの高校生だぞ? ここはどこだ?」
彼女——アフロネアは軽く溜息をつき、手を翳すと空間に幾何学的な模様が浮かび上がった。
「異世界——これがあなたたち人間の言い方でしょうね。私の領域よ。あなたを召喚したの」
異世界。テレビゲームやウェブ小説でしか出てこない単語が、現実のものとして遼の前に立ちはだかっていた。彼は半信半疑のまま立ち上がり、周囲を見回したが、出口らしきものは見当たらない。
「なぜ俺を?」
その問いにアフロネアの表情が微妙に変化した。美しい顔立ちの中に、どこか倦怠感と苛立ちが混じる。
「単刀直入に言うわ。あなたには私の『使い』になってもらうから」
使い。その言葉の意味を理解するのに時間はかからなかった。崇高な女神が一般人を召喚するとすれば、何らかの使命を果たさせるためだろう。しかし、なぜ自分が選ばれたのか。
「俺が……女神の使いに?」
眉を顰める遼を見て、アフロネアは微笑んだ。それは優しげな笑みに見えたが、どこか嘲笑のような要素も含まれていた。
「ええ。あなたの役目は簡単よ」
彼女は指を鳴らすと、遼の目の前に光の粒子が集まり始め、それは徐々に具体的な形を成していった。人と人の間に張られた赤い糸——いや、それは糸ではなく、どこか植物のような形状だ。
「恋愛フラグを折ってもらうだけ」
女神の言葉と共に、その光の形象が砕け散った。まるで何かが折れるように。
「恋愛……フラグ?」
「ええ。人間たちはね、知らず知らずのうちに恋愛フラグを立てているの。出会いや言葉、ちょっとした仕草で——そういう『これから恋に発展するかもしれない』という可能性の芽よ」
アフロネアは優雅に歩き回りながら説明を続けた。
「私は恋愛の女神として、そういう願いを日夜聞き続けているの。『あの人と恋に落ちたい』『両思いになりたい』『告白が成功しますように』——うんざりするくらいにね」
その言葉には明らかな疲れが滲んでいた。遼は困惑しながらも、彼女の話に耳を傾け続けた。
「だから、少し気分転換したいの。あなたには恋愛フラグを折ってもらう。そうすれば私も少しは楽になるかしら」
遼は黙って彼女を見つめた。まるで現実味のない話だ。女神が存在すること、自分が異世界に召喚されたこと、そして恋愛フラグを折るという使命。全てが突飛でありながら、確かに目の前の光景は現実のものだった。
「断ったら?」
遼の問いにアフロネアの表情が一瞬だけ硬化した。
「選択肢はないわ。これはあなたの運命——そう、神の使いになることは、もはや避けられない」
彼女は手を翳すと、遼の腕に光の粒子が集まり、腕輪のような形になった。それは金属でも宝石でもない、不思議な質感を持っていた。
「これが《フラグブレイク・ギフト》。恋愛フラグを折ることで『奉納ポイント』が貯まるわ。そのポイントで、私からのギフト——生活支援や魔法、能力強化などが得られる仕組みよ」
説明は続き、遼は自分の状況を少しずつ理解していった。彼の仕事は単純だ。恋愛フラグを折り、ポイントを稼ぐ。そのポイントでギフトを得て、新しい世界で生きていく。
「ちなみに、ポイントが尽きれば、私からの支援も打ち切りよ。つまり——」
「生活が破綻する……」
遼が呟くと、アフロネアは満足げに頷いた。
「そう、賢いわね。とはいえ、初期ギフトくらいはあげるわ」
彼女は再び指を鳴らすと、遼の体が一瞬輝いた。
「言語翻訳と基本的な体力強化よ。これで最低限の生活はできるでしょう」
確かに、アフロネアの言葉がより明確に理解できるようになった気がする。そして、体にも力が漲るような感覚があった。
「あ、それからね——」
アフロネアは少し不敵な笑みを浮かべた。
「あなた、実はモテる体質なのよ。ただ、自分で気づいていないだけで」
遼は思わず苦笑した。そんなはずはない。学校でも特別に注目されるタイプではなかったし、恋愛経験もほとんどない。
「そのモテる体質が、あなたにとっては『地獄』になるわ。なぜなら——」
彼女の瞳が妖しく輝いた。
「モテるほどポイントは減っていくから」
遼は言葉を失った。モテるほどポイントが減り、ポイントが尽きれば生活が成り立たない。つまり——
「俺は、モテちゃいけない男になるってことか……」
「そういうこと! 面白いでしょう?」
アフロネアは明らかに楽しんでいた。遼の困惑した表情を見て、彼女は優雅に空中を舞いながら笑い声を上げた。
「さあ、あなたの新生活が始まるわ。恋愛フラグを折るだけの簡単なお仕事——楽しんでね!」
突然、足元の床が消え、遼は暗い空間へと落ちていった。アフロネアの笑い声だけが、耳に残っている。
こうして、遼の「逆・恋愛ハーレム」生活が始まったのだった。
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