第2話:記憶の断片と異世界への扉

 アフロネアの笑い声が耳に残ったまま、神代遼は落ち続けていた。

 真っ暗な空間を無限に落下している——そんな感覚の中で、突如として光が見えた。まるで長いトンネルの出口のように。


「さよなら、そして……おはよう」


 女神の甘い声が遼の意識を包み込み、彼は光の中へと吸い込まれていった。


 気が付くと、遼は高校の教室で居眠りをしていた。放課後の、誰もいない教室。夕日が窓から差し込み、夏の終わりを告げる風が入ってくる。


「夢……だったのか?」


 遼は頭を抱えながら立ち上がった。女神アフロネア、異世界への召喚、恋愛フラグを折るという使命——それらは全て鮮やかに記憶に残っていたが、あまりにも荒唐無稽な内容に、夢だったのではないかと思わざるを得なかった。


 しかし、腕を見ると、そこには確かに金色の腕輪が光っていた。


「やっぱり夢じゃ……」


 言葉が途切れた瞬間、激しい頭痛が遼を襲った。閃光のようなものが脳裏に走り、突如として奇妙な記憶が流れ込んできた。


 ——エルフォニア学園。魔法と科学が共存する異世界の名門学園。自分はその二年生で、明日から三日間の修学旅行が始まる。目的地はフェリオス島という自然豊かな観光地だ。


 そんな「記憶」が、まるで元からあったかのように自然に脳内に定着していく。いや、単なる情報ではなく、実際に体験した記憶のようにリアルだった。エルフォニア学園での授業風景、友人たちとの会話、教師たちの顔——それらが鮮明に思い出せる。


「な、何が起きてる……?」


 混乱する遼の頭の中に、アフロネアの声が響いた。


『やっと目覚めたわね。記憶の移植が完了したみたいね』


「記憶の移植?」


『そう。あなたをこの世界で違和感なく生活させるために必要な処置よ。今のあなたには二つの記憶系統があるわ。元の世界の記憶と、エルフォニア学園の生徒としての記憶』


 遼は窓の外を見た。そこには見慣れた高校の風景ではなく、石造りの建物群と、遠くに広がる森と山々の光景が広がっていた。


「これは……どういうことだ?」


『簡単に言えば、あなたは今、私が創造した異世界にいるの。元の世界から完全に連れてきたわけ』


「でも、なぜ学園? しかも修学旅行って……」


『フラグを折るには環境が重要よ。学園という閉鎖空間は恋愛フラグが立ちやすいし、修学旅行はさらにその可能性を高める。それに、これからあなたを連れていく「神域」での実験のために、ある程度の人数が必要だったの』


 アフロネアの説明に、遼は頭を抱えた。次々と浮かぶ疑問に、女神は続けて答えた。


『この世界の生徒や先生たちは全員、この異世界の住人よ。彼らはエルフォニア学園の生徒や教師として実際に生まれ育った存在なの。あなただけが異世界から来た「使い」なのよ』


「でも、彼らはまるで僕を知っているかのように……」


『そうね。あなたの存在はこの世界に完全に組み込まれているわ。彼らの記憶の中には、ずっと前からあなたがいたという偽りの記憶があるの。あなただけが真実を知っている特別な存在よ』


 頭に流れ込む情報量に圧倒されながらも、遼は状況を理解し始めていた。


 遼が教室から出ると、そこは確かに学校だったが、自分の通っていた高校とは明らかに異なる。石造りの廊下、魔法の灯火、窓の外に浮かぶ小さな浮遊島——全てが異世界の光景だった。


 そこを歩く生徒たちは遼にとっては見知らぬ顔ばかりだが、彼らは遼のことを昔からの友人であるかのように自然に挨拶し、会話してくる。彼らの記憶には、遼と過ごした偽りの日々が刻まれているのだ。


『彼らは生まれも育ちもこの世界の住人よ。彼らにとっては、これが唯一の現実なの』


「彼らは……本当の意味で実在する人たちなのか?」


『もちろんよ。私が創造した世界だけど、彼らは独自の人格や感情、記憶を持ったれっきとした存在なの。だから、彼らの感情も大切にしてあげてね』


 遼は安堵しつつも、複雑な気持ちを抱いた。


「それにしても、なぜそこまでして恋愛フラグを折らせるんだ?」


 アフロネアの声が一瞬途切れた。


『それは……私の気まぐれ、かしら。でも、それだけじゃないわ。もっと大きな目的があるの。ただ、今はまだ言えないわ』


 女神の声には、どこか寂しさが混じっているように感じられた。


 翌朝、遼は新たな「記憶」に導かれるまま寮の自室で目を覚ました。エルフォニア学園の男子寮。自分の部屋であるという認識がある一方で、初めて見る部屋でもあるという奇妙な二重感覚。


 準備を整えながら、遼は腕輪に話しかけた。


「明日から修学旅行だけど、その先で何が起きるんだ?」


『それが本当の実験の始まりよ。フェリオス島は単なる観光地ではなく、私の神域の一部。そこは物理的に外界から隔絶された空間なの』


「隔絶された? つまり……」


『そう、逃げ出せないわ。救助も来ない。生活のすべてはあなたが折るフラグとそれによって得られるポイント、そしてギフトに依存することになるわね』


 その残酷な事実に、遼は言葉を失った。


『心配しないで。島には基本的な生活資源はある程度用意してあるわ。それに、あなたの腕輪があれば、最低限の生活はできるはず』


「でも、なぜそんな極端な状況に?」


『極限状態こそ、人の本質が現れるもの。それに……』


 アフロネアの声が小さくなった。


『それに、私も長い間孤独だったから……同じ気持ちを味わってほしかったのかもしれないわ』


 一瞬だけ垣間見えた女神の弱さに、遼は戸惑った。しかし、すぐにアフロネアはいつもの調子を取り戻した。


『さて、神域について説明しておくわね。フェリオス島は「流れのない場所」。時間は進むけど、外の世界との繋がりは一切ない。島に到着してから三ヶ月が経過するまで、誰も島を出ることはできないわ』


「三ヶ月も!?」


『その間に、あなたは十分なポイントを稼ぐ必要があるの。そして、何より重要なのは——』


 アフロネアの声が厳かになった。


『フェリオス島では、あなたの「モテる体質」が増幅される。言い換えれば、あなたの周りに恋愛フラグが立ちやすくなるってこと』


「それって罠じゃないか……」


『ビジネスよ、ビジネス!』


 女神の陽気な声に、遼は深いため息をついた。


「で、学園の皆は島でどうなるんだ?」


『彼らは「実験対象」よ。普通の修学旅行だと思って島に来るけど、途中で嵐と転移魔法で島に漂着することになるわ。そこから、彼らは自分たちの力で生き延びようとする』


「それって危険じゃないのか?」


『心配しないで。致命的な危険はないわ。私が常に見守っているもの。それに、あなたのポイントで得られるギフトが皆の生活を支えることになるでしょ?』


 その言葉に、遼は自分の重大な役割を悟った。恋愛フラグを折り、ポイントを稼ぐことは単なる女神の気まぐれではなく、皆の生存にも関わることだったのだ。


「じゃあ、最終的には皆、無事に元の生活に戻れるんだな?」


『ええ、もちろん——実験が成功すれば』


 その「実験」という言葉の裏にある意味は何なのか。そして「成功」の定義とは。疑問は膨らむばかりだったが、遼には選択肢がなかった。


 窓の外を見ると、すでに生徒たちが修学旅行の準備に忙しく動いている姿が見えた。彼らには、これから起こる「災難」の予兆すらない。


「分かったよ。とにかく、皆を守るためにも、この仕事をやるしかないんだな」


『そうね。頑張って。ちなみに——』


 アフロネアの声が甘く囁いた。


『あなたが折るフラグが多いほど、私も嬉しいわ。特別なギフトも用意しているしね』


 そう言い残すと、女神の気配は一時的に消えた。


 遼は深く息を吐き、心を決めた。恋愛フラグを折るという残酷な「お仕事」。それは自分の生存だけでなく、皆の安全のためでもあるのだ。


 修学旅行の準備を始めながら、遼は呟いた。


「恋愛フラグを折るだけの簡単なお仕事……か。簡単なわけないだろ」


 そして彼は、これから始まる波乱の日々に向けて、歩み出したのだった。

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