番外編1-1:始発電車の宣言
始発電車の車内は、いつも通りだった。
静かで、眠たげで、どこか取り残されたような空気が漂っている。窓の外では、街灯の明かりがうっすらと流れ、空はまだ夜と朝の境界にある。
大学の講義が始まるまでにはまだ時間がある。だからこの電車に乗る意味は、本当はあまりない。ただ、なんとなく――誰にも干渉されない場所にいたかっただけだ。
いつもと同じ席に腰を下ろし、膝の上にカバンを乗せた。今日も誰とも話さずに一日が始まる。それが、自分の“普通”だった。
「おはよう、サトルくん」
不意に、真正面から声をかけられた。驚いて顔を上げると、目の前に知らない女の子が座っていた。茶色のショートヘア。柔らかい雰囲気の笑顔。でも、その目だけが、どこかこちらの奥を見透かすような色をしていた。
「――知ってるんですか、僕の名前」
思わず問い返すと、彼女はにっこりと微笑んだ。
「もちろん。だって、ワタシたちは“君を見つけるためにここに来た”んだから」
“ワタシたち”? そう思って横を見やると、彼女のすぐ後ろに、もう一人――短い黒髪の無表情な少女が立っていた。まっすぐで、冷たい光のような視線。見たことがあるような気もするけど、記憶には残っていない。
「サトルくん。ちょっとしたゲームに興味ある?」
「――ゲーム、ですか?」
警戒心が先に立つ。それはMtMで叩き込まれた“習性”のようなものだった。いきなり名前を呼び、こちらの存在を知っている風を装う人間は、大抵どこかがおかしい。
「うん。簡単なルールだよ。毎朝、この電車でワタシたちが“提案”をするの。その提案を君が受け入れるか、断るか――それだけ」
それだけ? それだけで済むのか?
「――なにか、リスクは?」
「リスクもあるけど、リターンもあるよ」
そう言いながら、彼女は何かを掌に乗せて見せた。小さなカードのようなもの。そこにはまだ何も書かれていない。
「ゲームに勝てば、“理想のカノジョ”をプレゼントしてあげる」
耳を疑った。理想の、カノジョ? そんなものが、手に入るとでも?
「理想の……カノジョ……?」
自然と口にしてしまった言葉に、すぐ恥ずかしさが押し寄せる。でも、どこかで確かに、それを欲しいと思っている自分がいた。誰かに必要とされたい。愛されたい。――そんな願望を、まさか初対面の相手に突きつけられるとは。
「もちろん、イヤなら断ってもいいよ」
彼女の声は優しかった。けれど、すぐ後ろで、もう一人が口を開いた。
「――でも、ここで逃げたら一生モテないままだろうね」
その言葉は、見事に急所を突いた。図星だった。なぜか、心の奥を針で刺されたような痛みが走る。思わず、唇を結んで俯いた。
「――それが、最初の提案?」
「ううん、提案はこれからだよ」
そう言って、彼女が僕の手の上にそっとカードを置いた。
『アナタがワタシたちに宣言したことは真実でなくてはならない』
読み上げた瞬間、思考が止まった。
「――つまり?」
「文字通りだよ。宣言したことは、君の“真実”になる。たとえ嘘でも、それは君の中では嘘じゃなくなる」
――そんなわけがない。
言葉では軽く流されたけど、きっとこのカードには、もっと別の意味がある。だけど、それを問い詰める理由も、勇気も、僕にはなかった。
それに……この“提案”を断ったとして、明日からの僕は何か変わるだろうか?
また、誰とも言葉を交わさずに、ただ通り過ぎる風景の中に身を置くだけの日々が続くだけじゃないか。
電車はゆっくりと次の駅に近づいていた。車内放送の声が遠くで流れている。
「――どうする?」
彼女の声が柔らかく響く。その声に引かれるように、気づけば僕は、静かにうなずいていた。
「――わかりました。受け入れます」
その瞬間、後ろの少女がわずかに笑った。冷たい笑み。でも、なぜかそれが“歓迎”に思えた。
「ありがとう、サトルくん。それじゃあ、明日もここで会おうね」
彼女たちはそれ以上何も言わず、すっと立ち上がった。駅のホームが見えてくる。朝日が差し込む中、僕の横を通り過ぎる二人の姿が見えた。
明日。またここで。
その言葉が、どうしてか胸に残った。
きっともう、普通の日々には戻れない。
(つづく)
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