番外編3-3:夜を歩く影

──MtM本部、上層データリンクフロア。

カナメは誰にも気づかれぬように夜の廊下を歩いていた。


ヒールでもスニーカーでもない、足音を消すために選ばれた、無個性なユニセックスシューズ。姿勢は変わらず理知的なまま。けれど、内面にはゆるやかに染み込む魔導催眠の“命令”が、次なる行動を導いていた。


目指す先は、通常の分析官には立ち入りが制限されている特別資料保管室。──だが、カナメのアクセスカードには今や“例外的権限”が付与されていた。


(ナナカが……いや、“ナナカ様”が用意してくれたルート……)


そう思った瞬間、心の奥で何かが微かにきしんだ。けれど、それを掬い上げようとは思わない。むしろ、“そうあって当然”という感情が、いつのまにか芯に根づいている。


思考はあくまで冷静で、論理的で、静謐なまま。ただ、“任務”という名の行動原理だけが、確かな道筋として脳裏に浮かんでいた。


重ねるようにカードをかざし、数段階の生体認証を通過していく。正規のルートではない、けれど完全に整備された裏手のアクセス。そのすべてが、自分の行動の一部になっていた。


「データバンク・セクター5……個別記録:岸河リョク……」


モニターに映し出されたのは、リョクに関する任務履歴や行動パターン、過去の訓練ログ。カナメはそこから一部を切り取り、新たな仮想人格分析ログを挿入しはじめた。


(彼が単独行動を繰り返しているように見えるように。上層部が、“危険な独断”とみなすように)


冷静に、論理的に、ミスなく。それはまるで、本来のカナメそのものの仕事ぶり。

──けれど、その目的だけが違う。


「ボクは、嘘をついているわけじゃない。ただ、情報を“整えている”だけ。……そうでしょ、ナナカ様」


ひとりごとのように名前を口にした瞬間、ペンダントの奥からふわりと“彼女”の声が囁いた。


『いい子ね、カナメ。アナタは、とても優秀』


その声に頬がふっと緩む。快楽でも興奮でもない。“褒められること”への反応──従うことに染まっていく、心の変化。



翌朝、MtMの指令室では一部の幹部が、リョクに関する報告を見直していた。


「――最近、彼の行動に微妙なブレがある。独断行動が増えてきたように見える」

「パートナーだったイツルの件が影響しているのかもしれないな」

「監視対象として軽くチェックしておこう」


情報の流れは、少しずつ操作されていた。カナメの手で。気づかれないように、静かに、だが確実に。


──そしてその裏で、“次なる駒”の洗脳計画もまた、水面下で動き始めていた。



──MtM本部、訓練区画、観察ラウンジ。

モニターに映し出される訓練記録を眺めながら、リョクは眉間にしわを寄せていた。


「――おかしい」


声に出すつもりはなかったが、無意識に漏れていた。

イツルが回収され、事態が一段落したかに見えたこの数週間。しかし、静けさの裏には確かに“何か”が動いている。MtM内部で、どこかの歯車が狂い始めている。


それに気づいたきっかけは、分析記録の僅かな“齟齬”だった。


(分析室の記録ログ。3日前に書き換えられてる……でも、改ざんされた痕跡がない?)


作為的ではない。完璧すぎる書き換えだ。下手な人間なら間違いなく何かしらのログを残す。だがこれは、知識と権限を持ち、かつ情報操作の技術に長けた者の仕業。


──つまり、“中の人間”だ。


リョクはすぐに、その中でも極めて限られた人材を思い浮かべた。


(――カナメ先輩)


MtM本部の情報系統に広くアクセス可能な人間。その中でも最も信頼されていた先輩。理知的で、冷静で、ミスをしない──はずだった。

だが、最近のカナメには違和感がある。

目線、声色、仕草。以前なら絶対にしなかったような、微細な“揺らぎ”があった。まるで、別人のような……。


(――イツルと同じように、何かを“変えられた”のか?)


直感だった。しかし、MtMに身を置いてきたリョクの直感は、何より鋭い。

その夜、彼は誰にも告げずに地下第二分析室へ向かった。



──深夜、アクセスログに残らない“裏ルート”から。


「ナイトセキュリティ、解除……入るぞ」


薄暗い室内。蛍光灯が自動で点灯し、無人の部屋に光が差す。

だが、彼の足が止まったのは、床に落ちた“あるもの”を見つけたからだった。


──細く長い、一本の髪。


そして、そのすぐ傍に微かに光る銀の粒。


「これは……導きの鍵の破片?」


拾い上げたその破片を、指先でじっと見つめる。微細な魔力反応が、微かに残っていた。


(やっぱり……カナメ先輩は、ナナカに……)


確信に変わる。イツルのときと酷似した“兆候”が、再び。ならば、カナメ先輩はすでに──


「リョク……?」


静かな声が、背後から届いた。

驚きもなく、ただ、ゆっくりとリョクは振り返る。そこには、眼鏡をかけたまま、スカートにも見えるユニセックスな装いで立つ“彼女”──カナメの姿があった。

その瞳は、かつての理知的な光を宿しながらも、どこか“別の意志”が宿っていた。


「こんな時間にどうしたの?」

「――こっちのセリフです、先輩」


視線が交差する。微かな張り詰めた空気が、空間を静かに満たしていく。


「カナメ先輩……あなた、本当に“先輩”ですか?」


リョクの問いかけに、カナメは微笑んだ。


「ボクは、ボクだよ。ねえ、リョク……あなたは、変わらないね。ほんとに、昔から、鋭い」


──その笑顔の奥に、確かな“異質”が潜んでいた。


(つづく)

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