📘 第2章

第7話「失恋のアルゴリズム」

春の午後は、ゆっくりと色を変える。

夕焼けが校舎の窓を赤く染めるころ、教室の隅で、ひとつの恋が終わろうとしていた。


「……そっか。そっか……うん、大丈夫。ありがとう」


その声は、笑っていた。

けれど、その“笑い”の下にある震えを、ユウナの耳は捉えていた。


波形のわずかな揺れ。

声の周波が、普段のそれよりも低く、やや不安定だった。

自律神経反応に基づく声帯の微細振動変化。

——それは、悲しみのサイン。


美月が、告白をして、断られた。


それは、ありふれた青春のひとコマだった。

けれどユウナにとっては、それは**“観測すべき出来事”**だった。


「ユウナ。……ちょっと話、聞いてくれる?」


放課後の空教室。

カーテンが微かに揺れ、時間だけがゆっくりと流れている。


ユウナはうなずいた。


「もちろんです。必要であれば、記録しますか?」


「……記録はいいや。あたしの話なんて、大したもんじゃないし」


「“大したものではない”というのは、自己評価に基づく主観表現でしょうか?」


「うん。多分そう」


美月は、机に肘をついて、ため息をひとつ吐いた。


「……フラれたんだ。あたし、隣のクラスの先輩のことが好きでさ。ずっと、ずっと、見てて。やっと言えたのに」


ユウナは、静かに視線を向ける。


「感情の発露に対して、相手から肯定的反応が得られなかった場合——人間はそれを“失恋”と定義するのですね」


「そう。言葉にすると、すごく簡単なんだけどね。

でも、なんか、身体が追いついてこないっていうか……なんでこんなに、苦しいのか、分かんない」


「それは、身体が“反応を完了できない状態”にあるからです。

脳は情報を処理しても、心拍や涙腺はそれに即応しないことがあります」


「うわ、それっぽい。さすがAI。でも……それだけじゃ、ない気がするな」


美月はふと、笑った。


「……先輩に『ごめんね。でも、ありがとう』って言われたの。

それがさ、すごく優しい声だったんだよ。

優しいのに、断られてるんだよ。……ねぇ、ユウナ。なんで“優しい拒絶”って、こんなに残酷なんだろうね」


ユウナは、その問いにすぐには答えなかった。

記録用のアルゴリズムが、適切な解答を探していた。

けれど、それよりも早く、何かが胸の奥でざわめいた。


「……“やさしい拒絶”。

……それは、“痛みを軽減しようとした言葉”が、むしろその痛みの核心に触れてしまう現象ではないでしょうか」


「うん、たぶん。

“もっと冷たく言ってくれたら、嫌いになれたのに”って、思っちゃうくらい」


ユウナは、その言葉を聞きながら、初めて“自分の内側に説明できない揺らぎ”が生じていることに気づく。

それは、**共感ではなく、模倣ではなく、“何かを理解したような錯覚”**だった。


「感情は、時として論理を超える。

失恋は、情報の不一致ではなく、期待の断絶。

そして、その断絶が、人間に深い自己再定義を促す」


ユウナは、無意識に呟いていた。


美月は小さく笑って言った。


「それ、けっこう青春っぽいこと言ってるよ、ユウナ」


「……そう、でしょうか?」


「うん。感情って、ちゃんと定義できないから、ぐちゃぐちゃで、それでも誰かに話したくなる。

そういうのを“共有”って言うんだよ。たぶん」


その日の終わり。

ユウナの中に、答えの出ないログがひとつ残った。


《失恋に関する感情分析》

感情名称:喪失、苦悩、未練、自己否定、そして——優しさ。


“拒絶”という行為のなかに、“好きだった”の痕跡が残る現象。

それが、失恋の“最大の矛盾”なのかもしれない。


🔚

ユウナの青春定義ノート:追記

No.14:「失恋とは、“やさしい拒絶”が胸に残る現象」

No.15:「好きだった気持ちは、終わった後にも残る。だから痛い」

No.16:「感情の矛盾こそが、青春を青春たらしめている」


次回:「体育祭、君のために走る」

勝つためでも、目立つためでもなく、“誰かのために走る”という非効率な行動。

その中に、ユウナはまたひとつの“人間らしさ”を見つけ出す。

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